第4話

 布で作られた狭い部屋の真ん中に、桶がポツンと置いてある。


「あ……」


 その中に、人魚が座っていた。昼間見た通り、髪の毛は空気を含む。昼、水槽の中では顕になっていた上半身も、羽織りをかけられていた。


 昼間の太陽とは違い、蝋燭に照らされる鱗は艶やかで、妖艶だった。そんな鱗とは正反対に、人魚の顔は幼くも見えた。


「あ、えっと……正一、といいます」


 正一は学生帽を取ると、ぺこりと頭を下げた。人魚も頭を下げたが、何も言わなかった。長い髪の先が、桶の水に触れる。


「えっと……」


 人魚は、ぱくぱくと小さい口を開け閉めする。喉を抑えながら首を振った。どうやら、喋れないらしい。そうなのか、そういうものなのだろうか、と考えていると、人魚は桶のそばをぽんぽん、と叩く。こっちに座って、という意味なのだろうか。正一はおずおずと近づくと、少し濡れたござを微塵も気にせず、あぐらをかいた。


 人魚まで、もう腕を伸ばせば届く距離だ。

 長い睫毛は一本一本目視できた。囲われた色素の薄い瞳は、しっかり正一を捉えている。毛穴ひとつない陶器のような肌は、まるで作り物のようだった。息を飲むような美貌に、正一は瞬きもしないで見つめていた。

 見惚れていたことに気付いたのか、人魚の大きな瞳はずっと下を向いた。


「え……」


 陶器のような真っ白い指で、羽織っていた羽織りをスルリと脱ごうとする。


「ちょ、待て! いい! そんなこと、しなくていい!」

「?」

「そんなことをするために来たんじゃなくて……」


正一は慌てて、人魚の手を取った。ひんやりと冷たい、吸い付くような肌だった。どうして? と言わんばかりに、人魚は首を傾げる。ああ、いつもこうして客を取らされているのか、そう思うと、胸がズキリと痛む。


「話をしたくて、話を」

「?」


 そういうと、また人魚は喉に手を当てて、首を振った。どうやら、こちらの言っている意味は理解しているらしかった。


「えっと……そうだ。じゃあ文字、文字はどうだ?」


 トンビコートの中の内ポケットから、鉛筆と手帳を出す。また、人魚は首を振った。


「ええと……シヨウイチ。俺だ、ショウイチ」


 手帳に、鉛筆で“ショウイチ”と書いた。人魚は、ショウイチ、と口をぱくぱくさせる。


「名前は?」


 人魚は、またも首を振った。ふわりと髪の毛も舞う。色素の薄い髪の毛が、蝋燭の日に透けるとまるで綿菓子のようだった。


「名前、ないのか?」


 人魚はうなずいた。人間扱いすらされてないのか、そう思うと、鉛筆を握る手も強くなった。人魚が、パシャパシャと桶に張られた水で遊んだ。乾いている鱗に、水をかけているようだった。


「そうだ……ええと、水。これは、ミズ」


 手帳に、ミズ、と書く。人魚は桶から前傾姿勢で手帳を覗き込んだ。正一との距離は、必然的に近くなる。興味津々のようで、まんまるい目を大きく開きながら、ミズ、と口を開いた。


「そう、水……書いてみる?」

「!」


 こくこく、と頷くと、ふんわりとした髪の毛が正一の顔をくすぐった。人魚は、慣れない手つきで鉛筆を持つ。握る、と言ったほうが正しいだろうか。ぎゅうっと握るような持ち方に、正一はこう持つんだ、と正した。けれど、なかなか難しいようで、不器用な持ち方だった。


「これを手本にして……」

「……」


 達筆な正一の字の下に、震えながらも、人魚はミズ、と書いた。不格好な字であったが、正一は可愛らしいとも思った。


「そうそう、うまいうまい」


 人魚は満足げに、にっこりも笑う。会ったときのぎこちなさがなくなり、自然に笑う人魚に、正一も嬉しくなった。

 

 ショウイチ、と書かれた字を指を刺し、ショウイチ、と口を開きながら正一を指差す。


「そう、ショウイチ」


 正一は、にこりと優しく笑う。人魚は、ミズ、と書かれた字を指差した後、自らを指差し、ミズ、と口を開いた。


「あ……名前?! えっと、違うんだ、水っていうのは、この……」


 人魚は、自分の名前なことを“ミズ”と勘違いしているらしかった。正一は急いで弁明しようと、桶の中に張ってある水を触る。


「これが……」


 そういい、顔をあげる。人魚は、嬉しそうに手帳を見ながら、ミズ、と、声が出ない口で喋っていた。そこに、違うんだ、水というのは、と口を挟むのは、その笑顔に酷だと思った。


「……ミズ」


 人魚が、こくこくと頷く。大きな瞳をにっこりと微笑ませた。名前をもらったことがずいぶん嬉しかったのだろう、幼い子供のように、無邪気に笑った。


「……いい名前だな」


 正一は、眉を垂らし、鋭い目をたれさせながら笑う。

そういうと“ミズ”は、そうでしょう、とでもいうように、今日いちばん明るく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る