第3話
「おう、ボン。来ると思ったぜ、はは」
「……20銭だ」
「オウ、毎度」
あれからやく1時間後、外で煙草を吸っていた男が近づいてきた正一に気づいた。砂利にポイと煙草を投げ捨てると、下駄の底で踏み消す。男はまた新しい煙草を出すと、手慣れたようにマッチを擦った。
「なんで、俺に声をかけたんですか」
正一が、睨みながら男に問いかける。そういうと、男はぎょろっとした目を見開いて、がはは、と笑った。なぜ笑うんだと、尚更正一は男を睨む。
「アイツをあれだけ熱視線でみてりゃあ、気があるんだとだれでも気付く」
「熱視線なんて」
「なあに、アイツの髪の毛から、肌から、胸から鱗までまじまじみていたやつが何をいうんだ」
正一は、カアッと顔が熱くなるのを感じた。図星だったからだろう。
「お勉強ばかりだから、そういうのは堅いのかねぇ」
男は受け取った20銭を、笑顔でポケットの中に雑に押し込む。
「ボンみてぇな頭のいい奴に多いんだよ、あいつを買いたがる客はさ」
その髭の生えた汚い口から出る“買う”は、情事のことだろうか。ふざけるんじゃない、にちゃりと粘着質に笑う男に、正一は尚のこと嫌悪感と怒りを抱く。
「買う……!?」
「なんだ、知らねえで来たのか?」
「そんなつもりで来たのでは」
「まあまあ、買うってなぁそれだけじゃねえ。あいつの体に興味がある、なんて医者もたまに入ってくぜ」
じゃあ、こん中だ。古く汚い布でできた小さな
見世物小屋の裏にいくつかある天幕は、役者ひとりひとりの部屋の代わりなのだろう。綺麗なものはひとつもなく、どれも古めかしいものであった。
この向こうに人魚がいる。正一は、暗闇の中、ただつったっていた。このまま帰ろうかとも思った。もし中に入って何もしなかったところで、自分のモラルに反するような気がしたからだ。
「……帰ろう」
そう呟いたとき、天幕の向こうから、ピシャン、と水音がした。水琴窟のように、正一の鼓膜に響いた。
正一は思い出した。あの昼のことを。
煌めく鱗に、ビイドロのような尾。それに、町娘のような可憐な笑顔を。
もう一度会いたい。純粋にそう思ってしまった。いや、ずっと思っていたから、20銭も持ってここに来たのだ。何度も自分の理性が抑えようとしたが、あの綺麗な姿が脳裏から離れない。
あの、可愛らしい髪の毛をもういちど、直近で、瞳を覗いてみたい。
ひと目だけ。
そう心の中で呟くと、緊張からか、手は震えている。
正一は入り口に手をかけた。
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