第5話
「おい、時間だ」
外から、先ほどの男の声がする。ミズの表情が険しくなる。正一は、ああ、とだけ短く返事をした。
「じゃあ……」
ミズは、手帳をぎゅうっと握ったままだった。表紙は皮で出来ているため、多少濡れても問題はない。ただ、幼子が玩具を抱きしめるようにしている姿から返してもらうのは、胸が痛んだ。
「手帳は、持ってていい」
「!」
「鉛筆も置いていくから、好きに使ってやってくれ」
それじゃあ、とゴザから立つ。ゴザから染みた水分は、黒いトンビコートを濡らしていた。
「……また来る」
そういうと、ミズは、ビイドロのように綺麗に透けた尾と、真っ白い手をひらひらと振った。
正一が外に出ると、さっきと同様、男が煙草を吸っていた。煙草臭さと変わらない粘着質な笑みに、正一はあからさまに嫌な顔で睨む。
「おう、どうだった、お楽しみだったか?」
「……話をしていただけです」
「話す? 話すってったって、あいつは喋れねえだろ」
変なこと言いやがる、カッカッカと喉を鳴らして笑った。馬鹿にしたようなその様子に、正一は苛立ちを覚えた。
「文字があります」
「文字? 読み書きもできねえだろ」
「俺が教えます」
「なにを、余計な知恵を……」
男は睨みを聞かせ、そういいかけると、なにかを閃いたように目を見開いた。ふう、と口の端から煙を吐く。
「……ああ、そりゃあいいことだ。ボンは特別にまけてやるから、あいつに文字教えてくれねえか」
「それは、一向に構わないが……」
「交渉成立だ、はは! おい、よかったなぁ」
天幕の中のミズに話かけているのだろうか、当たり前にミズは返事をしない。出来ない。掌を返したような男に疑問を覚えながらも、正一は去って行った。
「……親方さん、いいんですか」
ことの一抹を聞いていた下男が、そろりと男に問いかける。視界の端で下男を捕らえると、いいんだよ、と呟いた。
「化け物にいらねぇ知識教えても、どうにもらなんでしょう」
「どうにかなるから、教えろって言ったんだろうが」
「なにが、ですか?」
下男にこれだからお前は、と呟く。吸っていた煙草を踏み潰すと、また新しい煙草に火をつける。使い終わったマッチを適当に闇の中に放った。
「次行く土地は金持ちばかり、きっとここより夜は“売れる”だろ?」
「はあ……」
「あの顔だから客もすぐつく。筆談や恋文なんか書けりゃあ、頭のいい客も金落とすかもしれねえ、金持ちがいるかもしれねえだろ?」
髭の生えた口から、白い煙が出る。
「尚更、次の土地までの道のりが土砂崩れ。当分ここで足止めだ。毎日の金と、教養がつくとなりゃあ万々歳だ」
「はあ、考えてるんですね」
「当たり前だろ、“こういう”商売やるにゃあ、ここ使わねえと」
煙草を挟んだ指で、自分のこめかみをトントン、と叩いた。
「俺は、ああいう、“馬鹿な”坊ちゃんが、大好きなんだよ」
男は聞き取りやすいように、ゆっくりと言うと、にやり、と口角を上げた。その不気味な笑みに、下男はぞくりと背筋を凍らせた。
「……」
ミズは、手帳をじいっと見ていた。達筆な正一の字の下に、濃く太く震えたミズの字は尚更不格好に見える。
ショウ、イチ。ミ、ズ。
ショウイチ、とか書かれた文字をなぞり、ミズはふわりと微笑む。
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