顔のない女

 森さんが改まって俺を呼び出したのは、それから1ヵ月ほど経った蒸し暑い日の夜だった。

 彼が一人で住む2DKのマンションの一室は、やけに荒れていた。

 普段から画用紙の束やら画材やら使いかけの粘土やらよくわからない機材やらで散らかっている彼の部屋だが、今日は様子が違う。服とか使用済みの食器とか、生活用品で散らかっているのだ。単に片付いていない状態とは違う、荒れ果てた空気が部屋に満ちていた。

 森さんは灰色の作務衣を着て、無精髭を伸ばしっぱなしにしていた。元々細身の人だが、さらに痩せたようだ。

「なんか、ひさしぶりじゃないですか?」

「最近、大学行ってねーからな」

 森さんは弱々しい声で言った。

「えっ、前期の定期試験、ちゃんと受けました?」

「そりゃまぁ……なんとかなるよ。うん。それより長尾、ちょっとこっち見てくれ」

 そう言って森さんは引き戸を開けた。こちらは寝室で、シングルベッドとパソコンデスクが置かれ、床に脱ぎ散らかした服が落ちている。

「こっちの部屋ですか?」

「この壁だよ」と言いながら、森さんはベッドサイドの壁を掌で押した。

「ここから夜になると、女が出てくるんだ……」

「は?」

 さてはまた、俺のことをペテンにかけるつもりだろうか? 例のオブジェが効かなかったからといって、部屋まで散らかしてこんなことを……。

「本当なんだよ長尾。そいつのせいで、昼間起きてるときでも、なんだか一日中夢を見てるような気がするんだ。何してても現実感がなくて、最近じゃもう、何もしたくなくなってきてさ……」

 そう語る森さんの様子は、俺には真実を語っているように見えた。以前劇団に所属していたと言うわりには、彼自身の演技や嘘は決して上手くない。

 しかし、もしもこれが森さんの会心のお芝居でなかったとすれば、彼は本物の怪奇現象について語っているということになる。俺の背中を冷たいものが駆け抜けた。

 だが、俺は頭を振って一旦その結論を否定した。何でもかんでもオカルトで片付けるのは、オカルト好きであってもよくないことだ。先にもっと現実的な可能性を当たってみた方がいいだろう。

 俺は森さんの様子を見ながら考えた。

 もしかすると、森さんは鬱になったのではないだろうか。俺は鬱についてよく知らないが、発症すると無気力になって、普段やっていることや趣味の類いができなくなると、どこかで聞いた覚えがある。

 しかし、「壁から出てくる女」というのは何だろう? 鬱でそういう幻覚を見ることがあるのだろうか?

 とにかく、もしそうならマズいことになっているのは確かだ。俺なんかが話を聞くより、病院に連れていった方がいいだろう。でも、素直についてきてくれるだろうか……などと悩んでいる俺に、森さんが問いかけてきた。

「長尾、何か見えないか?」

「は? い、いや、何も」

 慌てて答えると、森さんは「そうか……」と肩を落とした。

「……その女、ウエディングドレスを着てるんだ。肩が膨らんだ、長袖の古臭いデザインで、長いベールを被ってる。でも顔が真っ黒で見えない……なぁ長尾、何もわからないのか? こんな話、お前にしかできないんだ。頼むよ」

 森さんは必死の形相で詰め寄ってくる。俺は思わず少し後ずさりしながら言った。

「お、俺、別に霊感があるとかじゃないですから。そういうのわかんないです」

「そうか……」

 森さんは心底がっかりしたように首を垂れ、

「俺は、あの女が俺の妄想なのかどうなのかを知りたいんだ」

 と付け加えるように言った。

 それを聞いた俺は、少しだけ安堵した。森さんは自分自身でも、妄想を見ている可能性があるということがわかっているようだ。それなら病院に連れて行きやすいかもしれない。

 しかし、彼はとんでもないことを言い始めた。

「長尾、俺と一緒に高原ホテルに行ってくれよ。俺にはあのウエディングドレスの女が、廊下の奥のドアから覗いていた奴と同じ人間のような気がするんだ」

 森さんの暗い目が、このときだけやけに光

を帯びたような気がした。

「や、やだなぁ。また担ごうってんじゃないでしょうね? ヤラセだったらラーメンおごってくださいよ」

 わざと冗談めかして言うと、森さんは寂しそうな笑みを口の端に浮かべて、

「いいよ」

 と言った。

 その顔を見た俺はどうしようもなく、今は彼の言う通りにするしかない、という気持ちにさせられてしまったのだった。


 俺たちはその夜、高原ホテル跡地に向かうことになった。

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