拐かし

第40話拐かし1

「藤七郎の旦那、ここ最近鰯が安いんですよ。

 旦那は鰯もお好きだったでしょう。

 旦那が獲って下さった鯉を料亭に売って、鰯を買ってもいいですか」


「ああ、構わないぞ。

 鰯は鱠にしてよし、焼いてよし、煮てよし、天麩羅にしてよしだからな。

 今日は塩焼きにしてくれるのかい」


「はい、任せてくださいな。

 たくさん買った残りは糠味噌漬けにしておきますね」


「ああ、頼んだよ」


 おいよさんが朗らかに話しながら今日も料理をしてくれる。

 普段は一尺(三十センチ)の大鰯が、十匹で三十文程度なのだが、今日は脂の乗った大鰯が十匹で八文と大安売りだという。

 江戸っ子は脂の強い魚は嫌いなようだが、我は大好きなのだ。

 我が天水桶で泥を吐かせている、一尺五寸(四十五センチ)の鯉を高級料亭に持ち込めば、一匹百文で売れるのだから。

 その銭で大鰯を買ったら、長屋に住む百人が尾頭付きの鰯が食べられる。


 我の長屋の前では、大道搗が玄米を臼と杵で突いて白米にしてくれている。

 江戸には十八組の搗米屋があって、仕入れてきた玄米を精米して売ってくれる。

 昔は我も搗米屋から白米を買って食べていたのだが、田沼家と白河藩から武芸指南役の扶持米を頂くようになり、大道搗に玄米を白米にしてもらうようになった。

 白米にした扶持米は、搗米屋より少し安く売っている。

 そして大道搗に頼むようになって、糠が大量に手に入るようになった。


 子沢山の裏長屋では、大きな糠床を持って糠漬けを自作するのは難しいが、我は独り者だから、糠床を置く余裕がある。

 それは伊之助も同じで、伊之助のような独り者の長屋は、糠床を場所を提供する代わりに、おかみさん連中が漬けた糠漬けを分けてもらっている。

 鰯と鮒はもちろん、鮭、鱒、鰆、河豚、秋刀魚、鯖も糠漬けすると美味いのだ。


 だが今は鰯の塩焼きである。

 おいよさんが七輪で焼いてくれる鰯の塩焼きは最高である。

 いや、おいよさんばかりではない。

 鯉を振舞う代わりに配られた鰯を、どこの長屋でも大鰯を料理している。

 もっとも今売ってきた銭で鰯を買ったのではなく、我がおいよさんに預けている銭で買った大鰯だ。

 

「藤七郎の旦那、家は鰯を鱠にしますから、食べてやってくださいね」


 おかみさんの一人が、我のために鱠を作ってくれている。

 塩と酢で〆た鰯の身に針切りした生姜を加え、千切りした大根に塩を振ってしんなりしてから、〆た鰯の身と和えるのだ。

 前に食べた味を思い出して唾がでる。


「貴公にも食べてもらうから、準備ができたら休んでくれ」


「へい、旦那、楽しみにしてやす」


 空腹そうな様子を見せた大道搗に声をかけてやる。

 大道搗には料金とは別に魚付きの食事を振舞うのが作法だ。

 嬉しそうにしてくれているから、下魚の鰯でも満足してくれているんだろう。


「大変だ、大変だ、大変だ。

 大変な事が起こりましたよ、藤七郎の旦那」

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