第39話仇討ち11

「先生、御世話になりっぱなしで、何の御礼もできず、このまま御別れするのは、後ろ髪の引かれる思いでございます」


 我とて朴念仁ではない。

 るい殿気持ちは、普段の所作からも気がついていた。

 『据え膳食わぬは男の恥』という言葉も知っている。

 だが、ここは、何もなく別れた方がるい殿のためである。


 古河藩主の土井侍従からは、るい殿を嫁に迎え、千石の中老格で召し抱えるという話もあった。

 だが、それでは我の当初の目標から大いに外れてしまう。

 我の目標は御公儀から御様御用の役目を頂き、武芸者として名を成す事だ。

 それに、千石に釣られて仕官すれば、先に誘ってくださっていた、御老中田沼様と白河公の面目を潰すことになる。


「なに、これで会えなくなるわけではない。

 土井家には出稽古に行かせてもらうことになっている。

 玄太郎殿は美濃守様付きの近習として取立てられ、美濃守様と一緒に我が武芸を指南する事になっている。

 るい殿も奥女中として美濃守様に仕えるのだ、これからも度々会える」


 るい殿は哀しそうな顔をするが、我とて辛い。

 このような美人に想われ、手出しできぬなど、残念極まりない。

 だが後々のるい殿の事を想えば、それはならぬことだ。

 これでようやく土井家に帰参がかない、洋々とした未来が開けているのだ。


 不始末をしでかした因幡守を実家に帰した土井家は、御老中田沼様の六男直吉様を養嗣子に迎えられた。

 家格的には少々厳しいと思うのだが、将軍家の信頼厚い御老中田沼様と京都所司代土井様の願いとあって、将軍家も許可されたようだ。

 その直吉様が美濃守の官職を得て、土井家中屋敷の主となられたのだ。


「では、では、中屋敷に住んではいただけないでしょうか。

 この長屋から通われるのは不便ではありませんか。

 玄太郎が中屋敷に家を拝領いたしました。

 師の御世話をさせていただくのも弟子の務めでございます。

 御老中も、美濃守様の御養育には心を砕かれているのではありませんか。

 先生が中屋敷に居を構えれば、御老中も安心ではありませんか」


 思わず誘惑に負けそうになってしまった。

 確かに御老中田沼様も美濃守様の事は気にかけておられる。

 我にも出稽古の折にはよく見てやってくれと言われていた。

 だがそれとこれとは別である。

 るい殿に悪い噂を立ててはいけないのだ。


「るい様、それは勘弁してくださいよ。

 藤七郎の旦那が長屋からいなくなっちまったら、俺達は干上がっちまいますよ」


「五月蠅いね、伊之助は黙っていな。

 今いい所なんだよ」


 長屋中の女将さん連中に聞かれているのを、今初めてるいさんは気がついたのだろう、真っ赤になって、袂で顔を覆っている。

 これで話が有耶無耶になってくれればいいのだが。

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