君の香水

こむらさき

その香水のせいだよ

「いついてるの?」


 夜中にいきなり来たLINEは見覚えがある女の人がアイコンで笑っていた。

 あの頃と違う少し濃いアイラインと明るいミルクティーみたいな色した髪。

 かおるじゃん。

 面影はある。忘れてなんてない。

 つい指が勝手に動いててアイコンが拡大される。


――前の方が好みだったな。


 くだらないことをつい考えて溜息を吐く。

 画面をしばらく見つめて、それとなく彼女のホームをたどる。

 

 投稿している写真には晴れと曇りの間くらいの淡い水色をした香水の箱。

 なんとなく香りを思い出して、あの頃を思い出す。


「いきなりなんだよ」


「なんかスマホ変えたらりょうが出てきたから、懐かしくて。誰かすぐわかった?」


 三年ぶりだ。懐かしいに決まってるだろ。

 でも、それを悟られたくなくて、そっけない返信をする。


「ねえ、海、行こ」


 今更こいつに会って何を話せばいいんだろう。

 わからないけれど、でも、断れなくて俺は気が付いたら「いいよ」と答えていた。

 ちょうど暇をしてる。明日休みだと伝えたら「今から行こう」と提案される。

 こういう計画性のないところが、気を遣わなくてよくて、好きだった。

 計画性がないからなんでも思いついたことは突然言い出して、だから別れを言われたのも突然だったんだけど。


「車、出すよ。どこに行けばいい?」


 三年前、まだ高校生だった俺たちが出来る遊びは、限られていた。

 親に黙ってこっそり家を抜け出してバイクを二人乗りして海へ行って、写真をたくさんとって、二人で海岸に座ってコーラを飲んで……潮風に乗って彼女の柑橘系の香水が香ってきてドキドキしたことを思い出す。


 準備を終わらせて車に乗りこんだところでちょうど彼女から返信が来る。

 知らない住所。もう実家に住んでいた彼女はいない。

 三年も前のことだ。そりゃ彼女は実家にずっと住んでいるわけじゃない。

 当たり前のことだ。そう言い聞かせて俺は車を走らせる。 


 明かりが少ない寂れた街を走らせる。

 思い出が詰まった地元から少し離れた駅。東京から久々にこっちへ戻ってきたらしい彼女が待つコンビニまで向かう。


 暗い中に煌々こうこうと光る建物の前に車を停めると、誰かがこちらへ小走りで近付いてくる。

 

「久しぶり」


 窓を開くと、彼女が付けているあの頃と同じ香水がふわっと香る。

 声も話し方も同じなのに、見た目は変わっていて、少しだけ動揺する。


「乗れよ」

 

 気の利いたことを言えなくて、ただそれだけいうと、彼女は助手席の扉を開けた。

 BGMだけが二人の間に流れ続ける。

 何を話したらいいカなんてわからなくて、ただあの頃と同じ香りのせいで色々と思い出す。

 初めてのキスも、記念日も、なんでもない日も。

 彼女と初めて身体を重ねた日も。

 別に寄りを戻せるなんて思ってない。あの頃みたいに好きなんじゃない。

 そう自分に言い聞かせながら車を走らせた。

 

「何も聞かないね」


 海が見えてきた。

 月に照らされて黒い波がうねる。

 あの頃はキラキラとして見えた夜の海さえ、大人になるとただの暗いつまらない場所へ変わってしまう。


「……変わっちゃった、ね」


「お互い様だろ」


 車の窓を開いて、タバコに火を付ける。

 少しだけ落ち着くと思っていたのに、タバコと香水の匂いが混じり合って「あの頃とは違う」と勝手に色々裏切られた気持ちになってイライラする。

 ドリンクホルダーに挿していた温くなったコーラを一飲みして、思わず溜息を吐く。


 海水浴場の駐車場へ車を停めて、ただ暗い海を見る。お互いに何も話さないまま、ただ海のさざめきと有線からながれるラブソングが流れていく。


「仕事でうまくいかなくてさ、なんか、あの頃が懐かしくて」


 眉尻を下げて、彼女が笑う。それが酷く寂しそうで、思わず手を握りそうになる自分を抑える。

 あの頃が懐かしい……それだけでもう一度付き合ったりしてもきっとうまくいかないに決まってる。


「学校を卒業してさ、大学の生活もあって、就職した涼と時間も合わなくて、好きな人も出来たの。あの頃」


 ぽつりぽつりと、かおるが話し始める。

 どんな顔をしているのかは見れないまま、俺はただ前に広がる真っ黒な波を見ている。

 変わったこともたくさんあるはずなのに、俺は意気地が無いことはそのままで、ただ彼女の香水とタバコの匂いが混ざった空気を吸うことしか出来ない。


「わたし、ほら、計画性がなくて……考えるのも苦手でさ、涼みたいに、大人じゃなかったから」


 彼女の視線を感じる。ただあの頃のまま勇気が無い俺はそっちを振り向けない。

 昔も今も、俺は大人なんかじゃない。怖くて、足踏みをしている間に君だけが変わっていって、君が俺を置いて行ってしまうだけなんだ。


「ごめんね、ただ、涼とちゃんと話さないままだったのがずっと気になってて」 


 手を握られてやっと彼女の顔を見る。

 難しいことを考えなくても、ただ一緒に居れば幸せだった。そんな頃に戻れないって俺はもう知っている。

 でも、この目を見てしまったら、またそんな関係になれるんじゃないかって思ってしまいそうになる。


「別に俺は気にしてな……」


 そう言いかけて、口を噤んだ。

 変わってしまったことを悔やんでいるくせに、俺は肝心なことは変わっていない。


「いや、ずっと気にしてた」


 一度伏せた顔を上げて、しっかりと彼女の目を見つめ返す。

 しっかりと引かれたアイラインと、マスカラのせいで昔よりも少し大きく見える彼女の丸みを帯びた小動物のような目。


「あのね、私、こっちに戻ってくるの。だから、もう一度」


「それは出来ない」


 ホッとしたみたいに表情を和らげた彼女は、俺の言葉を聞いて口を半開きにしたまま止まった。


「あ……だよね。私から振って置いて、戻ってきたら付き合おうなんて都合よすぎるかぁ。えへへ……わかってたんだけどな。涼はそういうの嫌いだって」


 パッと手を離して、取り繕うように、不自然に笑うと、薫は顔を伏せた。

 そんな彼女の手を、今度は俺から握る。


「ちがう」


「え?」


「出よう」


 海辺を歩く。彼女の手を引いたまま。

 砂浜は革靴じゃ歩きにくいし、初夏の海は湿気と潮風でべたべたする。


 しばらく歩いて、深呼吸をする。

 外に出ると、香水の匂いが薄れる。少しだけ、冷静になれた気がした。


「お前のその香水、ずっと変わって無くて」


 言葉が、勝手に口から零れ出す。もう大人になった。少なくともあの頃よりは。

 だからもっと格好をつけられるはずだけど、女々しく元カノの香水を忘れられないことを白状してしまうなんて……と頭の中に居る冷静な自分がぼやくのが聞こえる気がした。


「その匂い、ずっと忘れられなかった」


 彼女は、海を背にして、じっと俺のことを見ている。視線を感じながら、俺は再び視線を足下に落とした。

 彼女のミュールが目に入る。可愛い鮮やかな黄色をしたペディキュアをした爪が覗く足も、俺の革靴を履いた足下もあの頃と全然違う。


「その香水のせいで、楽しかったことばかり思い出して……そりゃ、お前に振られたことは確かにキツかったけど、俺も他の子と付き合ったりして今ではいい思い出だった気がしてきて」


「今、彼女がいるってこと?」


「ちがう」


 話が逸れた。薫の勘違いを慌てて訂正して、話を続ける。


「俺も変わったし、薫も変わった。だから、あの頃みたいには付き合えない」


 彼女の顔をしっかり見る。月明かりはちょうど海面の上にあるから、薫の表情はよくわらかないけど。


「でも、多分、変わった薫のことをまた好きになると思う。だから」


 それでも、ここで目を逸らしたら多分、あの日振られたときの俺は前に進めない気がした。


「……俺は臆病でズルいから、振り回されて流されるだけで薫に置いて行かれるだけだったけど」


 息を吸い込む。

 さざ波の音と、自分の鼓動がやけにうるさく聞こえる気がする。


「もう、それはやめる。薫と一緒にいたい。もう、今度は離さない」


 暗くてよく見えないけれど、彼女の表情が明るくなったことだけはわかった。

 彼女の両手が伸びてきて、俺の首の後ろに回される。密着すると、やわらかい胸が身体に押しつけられて、付き合い始めたあの頃みたいに耳が熱くなる。

 あの頃と同じはずの潮風と混ざった柑橘系の香りは、化粧とタバコの匂いが混ざっていて全然違う。それなのに、彼女を可愛いと思う気持ちはやっぱり気のせいではなくて、つよがっていたことが馬鹿馬鹿しくなってくる。


「ごめんね……ありがとう……。うれしい」


 抱きついてきた彼女の身体を離して見つめ合う。彼女の頬を伝う涙をそっと指で拭って俺たちは唇を重ねた。

 やっぱり少しだけ考えを改める。

 俺たちが、こうしてまた付き合い始めたのはやっぱりこの香水のせいだよ。


 でも、それは言わないままでいい。これからは二人で少しずつ変わっていけばきっと、あの頃みたいな終わり方はしないはずだから。

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君の香水 こむらさき @violetsnake206

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