十三章 お骨

 七歳の友紀は見たこともない光景を前にただ茫然と立ち尽くしていた。子供でも本当に感動した時は言葉を失うのだ。奈津も進藤に初めてここに連れてこられた時は今の友紀と同じように言葉を失った。それは、遥か彼方、遠い昔の事のようでもあり、昨日の事のようでもある。思い出はいつでもそこに有ると思っていたが実はそうではなかった。記憶は少しずつ薄らいでいき、大切な思い出さえも時間が奪っていった。当然の事だが、思い出は目の前にはなく、触れるこはできない。今、奈津と友紀が踏み締めている氷の山だって、明日にはここを離れてしまい見ることは出来ないかもしれない。時間の流れとは残酷だ。人の感情も大切な物も同じ状態を保たせてはくれない。しかし、ひと時も同じではなく、変化するからこそ人は今を生きて行けるのかもしれない。

 少し離れた所からトミーの声がした。

「なっちゃん、お湯が沸いたよ。早くこっちこっち」

「友紀行こう」

 奈津は友紀の手を握り、トミーを目指して慎重に歩いた。トミーのいる場所は流氷の先端だ。すぐそこには海水が流れている。

「はい、友紀ちゃんには、ホットカルピス。ママにはホットコーヒー。僕はホットウイスキー。ママにお酒を飲ませたら大変なことになるからな」

「トミーおじさん。大変なことって?」

「それは内緒」

「もー、トミーったら」

「なっちゃん、友紀ちゃんは進藤にそっくりだな」

「そらそうよ。圭太さんの子供だもん」

「よく、一人でここまで大きくしたよ」

「一人じゃないですよ。圭太さんのお父さんお母さんにも沢山、助けてもらってるんです。一人だったらこの子と身投げして、とうに圭太さんの元へ行ってますよ。生まれるまでは一人でも何とかなったけど、子育てって、知らない所で誰かの力を借りないと出来ないものって知りましたよ。だから、今は皆さんに感謝しかありません。一人前の大人になるまで友紀をしっかりとお育てさせていただきます」

「母は強し。進藤、安心しろ。お前がなくてもちゃんと二人は幸せに暮らしているぞ」

 トミーがオホーツクの海に向かって叫んだ。

「友紀、こっちに来て」 

 奈津は友紀を抱き寄せた。

「ここが、パパが大好きだった場所よ」

 奈津は、進藤圭太が厳しい寒さと戦うオホーツクの海を見ている姿を想像していた。

「ママ、パパも見てるかな」

「どうだろう。友紀と一緒に見てるんじゃない?」

「パパ!ママと来たよ」

 友紀は大声で叫んだ。

「圭太さん!」

 奈津も進藤圭太の名前を大声で叫んだ。

 進藤圭太と流氷を見に来てから九年の月日が流れていた。その間にも流氷は毎年、姿形を変えて接岸し、やがて離岸しているのである。ほんの少し何かが違っていたら、今、進藤圭太は奈津と友紀と一緒にこの流氷を見ていたのかもしれない。ほんの少し何かが違っていたら、進藤圭太と奈津は結ばれることはなかったかもしれない。奈津は母のことが好きではなかった。でも今は感謝している。母がいなければ、そして母が愛した人がいなければ奈津はこの世に生まれてくることはなかった。進藤圭太と出会うことはなかった。友紀を生むことも出来なかった。全ての出会いは、色んな偶然が重なり合って起こり、今に繋がっているのだ。奈津は出会った全ての人に感謝を込めて手を合わせた。そして、いつも首にかけていたロケットペンダントを外した。その中から圭太の小さなお骨を取り出した。

「ママ、これ何?」

「これはね…。友紀のパパのお骨」

「ちっちゃいね」

「そうだね。パパが好きだったこの場所にお骨を撒いてあげよう。」

「ママの宝物なんじゃないの?」

「そうね。でも、ママの一番の宝物は友紀だよ。友紀が大人になって、素敵な人と沢山出会って、素敵な女性になって、パパみたいな人と出会って、友紀がいつも幸せと思える人生を送ってくれることをママもパパも願ってるのよ」

「パパも?」

「そうパパも。友紀のここにパパがいつもいるでしょ。だから、ママは友紀が元気でいてくれるだけで、寂しくないのよ。ママのパパは友紀の中にいるんだから」

 奈津は友紀の胸に掌を当てて言った。

「パパ!」

 友紀が叫んだ。

 進藤圭太のお骨は風に乗って、オホーツクの海へと消えて行った。

 

「圭太さん! 又、会いにくるわ」

 

 オホーツクの海は、また来年も流氷を運んでくるだろう。

 

 進藤圭太と共に

                           完 

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