十二章 お父さん、お母さん
「奈津さん、おはよう。乗って」
「おはようございます」
「さぁ、行きましょう」
「奈津さん、何かあったら遠慮しないで早目に言ってね」
「はい。先生はよく動くようにって言ってました」
「よかった」
車は兵庫県三方郡新温泉町にある湯村温泉に向けて走り出した。女将は身重の奈津を気遣って何度か休憩を取った。途中で立ち寄った道の駅で女将お手製のお弁当を食べた。奈津とお腹の子供のために栄養バランスを考えた愛情たっぷりのお弁当に奈津は心の中で感謝した。出発して約三時間ほどで湯村温泉に到着した。旅館にチェックインをして部屋に入った。部屋の窓からは川沿いを浴衣を着て散歩をするカップルが目に入った。奈津とさほど変わらない年齢の女性が彼と手を繋いで時々顔を見合わせ、笑いながら歩いている。もし、あのカップルが進藤圭太と奈津だったら、どんな話をしながら歩いたのだろうか。正直、羨ましくて仕方がなかった。
「奈津さん、お風呂に行かない?」
「はい、行きます」
浴衣に着替え、上から羽織りを着て女将さんと部屋を出た。
脱衣室入ると硫黄の匂いがした。
「奈津さん、滑らないようにゆっくりね」
「了解です」
「いい気持ち!」
「ここの湯に入ったら美人になるのよ」
「ウッ」
「どうしたの?」
「お腹を蹴られました」
「やんちゃな子ね。誰に似たのかしら」
「私はおしとやかですから、圭太さんです」
「本当? まぁ、いいわ。そうい事にしておきましょ」
「女将さん、私、ちゃんと産めるかしら」
「奈津さん、一人で産むのではないわよ。お腹の赤ちゃんと一緒に頑張るの。奈津さんが苦しんでいる時は赤ちゃんも苦しんでるのよ。一つの命をこの世に送り出すんだから、簡単ではないけど、親子が最初にする共同作業ね。圭ちゃんが生きていても、残念ながら圭ちゃんは見ている事しか出来なかったわね。母は強しよ」
奈津は母のことを思った。奈津の母も自分を生む時はきっと苦しんだのだ。「お母さん」奈津は心の中で呼んだ。
「奈津さん、明日は付き合って欲しいところがあるの」
「わかりました。どこに行くんですか?」
「明日、着いてから話すわ」
お風呂から上がった後、女将さんと奈津は川辺を散歩した。荒湯と彫刻された石碑の向こうでは九十八度の熱湯が湧き出していた。
「奈津さん、温泉卵作ってみましょ」
卵の入った網についている紐を引っ掛けて温泉に垂らし、約十二分ほど待つと出来上がる。隣ではお野菜を茹でている人もいた。
「できたわ。熱いから気をつけて」
「あっつー」
「だから、熱いって言ったでしょ」
奈津は舌を出して笑った。普通の茹で卵とは違い、黄身のところがオレンジ色だ。奈津が楽しそうに食べている姿を女将は笑顔で見守っていた。女将さんは本当に素敵な人だ。天涯孤独の奈津にとっては、女将さんが側にいてくれるだけで心から安心できる。
食事を終えて、二度目の温泉に入った。
「奈津さん、髪の毛洗ってあげるわ。後ろ向いて」
お腹が大きくなって、頭を下にするのがとても大変になっていた。女将さんが優しく奈津の髪を洗ってくれた。
「今日まで、一人でよくがんばったわね。きっと圭ちゃんはいつも奈津さんの側にいるわ。私も奈津さんが必要な時はいつでも側にいてあげる。だから、安心して赤ちゃんを産みなさい」
朝は目覚まし時計に起こされる事なくゆっくりと目覚めた。朝食を済ませて、もう一度温泉に入った。
「やっぱり、温泉はいいわね」
「はい、気持ちいいです。私、プライベートでの旅行は今日で二回目なんですよ」
「そうなの?」
「私の家は家計が苦しかったんだと思います。母はいつも仕事をしていて、家でも内職ををしてました。休む事なくです。なので、母とどこかに行ったという記憶はありません。覚えていないのではなく、本当に行ったことがないと思います。母のことで思い出すのは、厳しい顔をして仕事をしていることだけです」
「お母さんは、奈津さんのために必死だったのね。でも、お母さん自身が幸せを感じていないと、子供には伝わらないのよ。奈津さんも子供が少し大きくなったら、自分の幸せをしっかり探さないとね。いずれ、子供は親元を離れていくんだから」
自分の幸せってなんだろうと奈津は考えた。しかし、今は目の前に迫っている出産のことしか頭には浮かばなかった。
「ありがとうございました。お気を付けてお帰りくださいませ」
宿の女将が出てきて奈津達を見送った。車は国道九号線を北に向かい岸田川に架かる橋を渡り右折した。どれくら走っただろうか目の前に海が見えてきた。日本海だ。
「待ち合わせには少し時間があるわね。お茶でも飲んで休憩しましょう」
女将はそう言って海に面したカフェの駐車場に車を停めた。カウンター席に案内をされ椅子に座ると全面がガラスになっていて、海が一望できた。
「女将さん、素敵なカフェですね」
女将さんはホットコーヒーを奈津はハーブティーを注文した。
「奈津さん、後で会って欲しい人がいるの」
「だれですか?」
女将が奈津の方に体を向き直し、手を握った。
「奈津さん。圭ちゃんのご両親よ」
「圭太さんの…」
奈津は女将さんから視線を逸らし、下を向いた。
「そう。奈津さんは、圭ちゃんのご両親には言わないつもりだったでしょ。籍が入っているわけでもないし、言うことによって向こうのご両親に負担をかけてもと、きっと奈津さんなら考えるだろうなと思っていたし、私が奈津さんの立場だったら同じ選択をしたわ。圭太さんのご両親がね、息子がどのような生活をしていたのか聞かせて欲しいと言って、葬儀が終わってから半年した頃に店にわざわざ来られたのよ。お葬儀の時に奈津さんが圭太さんのお骨を少し分けて欲しいって言ったでしょ。圭ちゃんと特別な関係だったんだとご両親は思われたみたい。ご両親にとっても圭ちゃんは大切な息子さんでしょ。喪失感が強くて、きっと立ち直れなかったんでしょうね。圭ちゃんの生きてきた時間を埋めるために聞いてこられたのだと思うわ。はっきり言って奈津さんのことをどこまで話そうか悩んだわ。その事で、ご両親がどう思われるかも不安だったしね。圭ちゃんが奈津さんと結婚するつもりだったことをお話ししたら、お母様が号泣されたわ。奈津さんが可哀想だって。奈津さんはどうしているのかもしつこいくらい聞いてこられたわ。お父様はハンカチで目頭をずっと押さえていらっしゃった。他にも、私が知っている限りのことをお話しさせていただいたの。
帰り際に奈津さんの住所を聞いてこられたけど、奈津さんもお腹に赤ちゃんがいて心も体も不安定な時期でしょ。元気だから、心配しないで欲しいって言ったわ。でも、店から出るお二人の姿が余りにも悲し過ぎて思わず引き留めてしまった。その時に奈津さんのお腹には圭ちゃんの子供がいることを伝えてしまったの。お母様が、圭太の…と言われ声を上げて泣かれた。その後、奈津さんと子供のことをどうか助けてやって下さいと言われたわ。お父様は圭太の血を分けた子がこの世に生まれてくるんだなと言われ涙されたわ。そして、私達にできる事があったら何でも言って欲しいと言われた。それとね、お二人は長い時間沈黙された後、奈津さんには私たちがその事を知っていると言わないでください。でも、奈津さんを陰ながら助けてあげたい。圭太のためにも…。ぜひ、協力して欲しいと言われたの。実はね、私がプレゼントしたベビーベットと布団は圭ちゃんのご両親からのものよ」
「女将さん。私… どうしたらいいのですか?」
「どうもしなくていいの。ただ、奈津さんには頼れる人、違うな、頼っていい人、これも違うな。奈津さんとこれから生まれてくる子供に頼られたい人がここにもいることを忘れないていてあげて欲しいの。圭ちゃんの血を分けた子なんだから」
「女将さん…」
奈津は進藤圭太の両親が自分勝手な判断で生むと決めたことを知ったらどう思うのかが、ずっと気になっていた。しかし、女将の話からは圭太の両親は孫が生まれてくることを楽しみにしているようだった。しかし、何と挨拶をしたらいいのか。進藤圭太の父母をなんと呼べばいいのか。そんなたわいもないことで頭が一杯だった。奈津は目の前にあるハーブティーを飲み干した。その時、女将のスマホに着信を知らせるメロディが鳴った。
「こんにちは。今、海辺のエスポワールというカフェにいます」
「…」
「はい」
「…」
「はい。わからなければ、この携帯に連絡入れさせていただきます。それでは、のちほど」
そう言って女将はスマホをテーブルの上に置いた。
「奈津さん。何も緊張しなくていいのよ。心のまま話せばいいんだからね」
しばらくして、二人は海辺のカフェを出た。車は『浜崎』という駅の横の線路を越え、山の方へと向かった。しばらく山を上ると駐車場があり、そこに車を停めた。木の影に老夫婦が立っているのが見えた。奈津が進藤圭太の両親に会ったのは葬儀の時だった。しかし、一年も経たない間に酷く歳をとったように見えた。進藤圭太が死んでから、奈津と同じように心に空いた穴を埋められず、もがき苦しんだのだろう。女将が先に車を降りて進藤の両親に挨拶をしていた。奈津は進藤圭太の両親を目の前に言葉を発する事が出来ず、涙だけがとめどもなく溢れてだしそれを止めることは出来なかった。
女将に背中をポンポンと叩かれてなんとか顔を上げた。するとご両親親も奈津と同じよう涙を流していた。
「奈津さん。ありがとう」
振り絞るように進藤圭太の父親が声をだした。その横で母親が奈津の顔を見てうんうんと頷いていた。そして、奈津を抱き寄せた。
「お母さん」
奈津は思わず呼んでいた。
進藤圭太が眠る進藤家代々の墓に奈津は線香をたむけた。そして、お母さんがお花をお供えした。四人は静かに手を合わせ圭太のことを思い出していた。
「奈津さん。一人で辛かったでしょ。何もしてあげられなくてごめんなさいね。奈津さんのお腹に圭太の子がいると聞いた時、本当はすぐにでも奈津さんに会いに行きたかった。でもね、私達が行くと奈津さんが負担に思うのではとも考えたの。なら、そっと影で見守らせてもらおうと主人と話しあって決めたのよ。女将さんにも協力してもらってね。そしたら、先日女将さんからお電話をいただいて、奈津さんに会ってやってくださいって言ってくださった。奈津さん、ありがとうね。これからは、困ったことがあったら、どんな小さな事でも頼ってほしいの」
圭太の母親はしわくちゃな手で奈津の手をしっかりと握りしめていた。
「お母さん。私、どうしても圭太さんの子供が産みたかった。本来なら、お父さんとお母さんにも相談しなければならなかった事なのに、勝手なことをしてすいませんでした。私には身寄りがいてません。けど、女将さんをはじめ、私を応援してくれる人はいます。でも、子供のことで困ったことがあったら、お父さん、お母さん助けて下さい」
奈津はそう言うと頭を下げた。
「ありがとう。奈津さん、圭太はいないけど私たちは身内なんだからね」
奈津達のいる近くの大きな木の葉っぱがザワザワと揺れた。圭太が何か合図をしてくれているように奈津には感じられた。
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