十章 妊娠

 久保田奈津は目の前の仕事をこなすことだけに集中していた。時間はいつも同じスピードで過ぎていたが、奈津には周りの光景は物凄い速さで動き奈津だけが停止しているように思えていた。だんだんと進藤のことを口にする人が減ってきた。人は忘れる動物なのだ。ただ奈津の心の穴の大きさは変わらないがどんどん深くなっていた。今の奈津にはボーとしている時間は必要ではない。ひたすら追われるように仕事をして、人よりも長く感じられる時間に置いていかれないように付いていくだけだ。

 奈津は仕事帰りにいつもの花屋に寄った。今日は母の月命日だった。

「あれ、なっちゃんじゃないの。久しぶりだね。元気だった? 顔色悪いようだけど、どこか悪いの?」

 花屋の由美子さんが心配そうに顔を覗いてきた。

「元気ですよ。仕事が忙しくて寝不足なんです」

「なら、いいけど。ちょっと痩せすぎよ。私みたいにふくよかにならないと、幸せが逃げてしまうわよ」

 そう言って豪快に笑った。

「今日はこれと、別にかすみ草とひまわりをお願いします」

 季節外れのひまわりを奈津は選んだ。

「ひまわりの花言葉は『あなただけを見つめる』よ。なっちゃん」

 あなただけを見つめる、奈津は心の中で反復した。

 花屋を出た奈津はある所へ向かった。その場所が近づいて来ると急に足が前へ進まなくなり立ち止まってしまった。高鳴る鼓動を鎮めるために大きく深呼吸をして自分の心に蓋をし、無になって歩きだした。すると、見覚えのある和服姿の女性がその場所に現れた。彼女も花束を胸に抱えている。茉姫の女将だ。

 奈津の姿に気が付いた女将が駆け寄ってきた。

「奈津さん…」

 そう言って奈津を抱きしめた。奈津の顔を確認すると再び強く奈津を抱きしめた。

「心配してたのよ。辛かったね」

 その言葉に奈津は遠い所に置いている心を自身の体に戻し「わー」と子供が泣くように声を上げて泣いた。女将はそんな奈津をなにも言わず背中をさすってやった。どれくらい時間が経ったのだろうか、夕日はすっかり落ちてあたりは街灯で照らされていた。

「女将さん。お店が…」

「大丈夫よ。板前が開けてるから。それより、その花!圭ちゃんのお供えじゃないの? 私もほら」

 二人は進藤圭太が倒れていた付近の電柱に花を手向けた。そして、目を閉じ静かに手を合わせた。

 

「いらっしゃい。あっ女将さん。おかえりなさい」

「今日は同伴よ」

 そう言って、奈津をいつもの席に座らせた。

「奈津さん、いつものでいい?」

「はい。いえ女将さん、今日は体調があまりよくないのでお酒は控えます」

「熱があるの?」

「体温計で計ったんですがいつもより少し高いくらいです。体がだるくて、だるくて」

「心配ね。消化のいいもの作るわね」

「すいません」

 奈津はいつも進藤圭太が座っていた右側の席を無意識に見ていた。「奈津お待たせ」そう言って茉姫の暖簾をくぐってガラガラと扉が開くのではと思いたかった。 

「奈津さん、お待たせ」

 カウンターの上に食欲をそそる香りを充満させた茶碗蒸しが一つ置かれた。

「美味しそう。いただきます」 

 茶碗蒸しの蓋を開けた瞬間、胸から込み上げるものがあり、奈津は急いでトイレへ駆けこんだ。少し吐いたが出てきたのは胃液で口の中が苦かった。

「奈津さん、大丈夫?」

 奈津は青い顔して席についた。女将が奈津の様子を見て言った。

「月のものちゃんと来てる?」

「えっ!」

「もしかして、つわりじゃないかしら…」

 奈津は女将に言われて、生理が来ていないことに気が付いた。進藤圭太と関係を持ったのは進藤が亡くなる前日だった。 

「妊娠…」

「とにかく明日、病院へいきましょ。私、付いて行ってあげるから。考えるのはそれからよ、奈津さん。今、とにかく少し胃に食べ物を入れること」

 茫然とする奈津の手をしっかり握りしめ女将が言った。

 

 次の日、奈津は会社に体調不良と連絡をいれ有給を取った。十時過ぎに茉姫の女将が、車で奈津を迎えにきてくれた。女将は和装ではなく、髪をおろし、細身のジーンズに白いシャツを着ていた。いつも見る女将とは全く違った。若々しく、透き通る肌が夜の女将とは違う美しさを引立てていた。  

「奈津さん。私がお世話になった産婦人科よ。女医さんで優しい先生だから何も心配しなくていいのよ」 

 奈津は怖くて逃げ出したい気持ちで一杯だった。程なくして「久保田奈津さん、診察室へどうぞ」と呼ばれた。

 ふくよかな肉付きの肝っ玉母ちゃん風の女医が優しそうな笑顔で奈津を迎え入れてくれた。

「どうしました?」

「…あの…、生理が遅れていて…」と小さな声で言った。

 色んな問診の後、尿検査をした。その後、待合室で呼ばれるまで待つように言われた。何かの裁きを待っているようだった。普通に結婚していて、ここで待っているのとは全く気持ちがちがうはずだ。

「久保田さん、中へどうぞ」

 奈津は呼ばれた。

「久保田さん、尿検査の結果、妊娠反応がでてます。こちらのベットの上で仰向けになってください」

 奈津は頭の中が真っ白になった。妊娠の単語が頭の中を何度も反復した。看護師が仰向けになった奈津の下着を少し下ろして「すいません。少しひやりとします」ゼリーを塗った。

「それでは、診ていきますね」

 女医がそう言うとお腹の上に器具を当てて慎重に動かした。モニターに奈津の子宮の中が写しだされた。そこに何か小さな物体が動いていた。

「久保田さん。これ赤ちゃんですよ。といっても未だ人の形にはなっていません。これから日に日に大きくなって約八ヶ月後には生まれてくるんですよ」

 奈津は女医の話をすぐには自分のことなのだと受け止めることが出来なかった。

「私の赤ちゃん…」

「そうですよ。久保田さんはお母さんになるのよ」

 そう言われて、初めて奈津はこの子の人生を自分が背負って行くのだと実感した。と同時に自分にこの子を育てられるのかと言う不安に襲われた。

「内診をするので、あちらの所で下着を取って台の上に寝てください」

 奈津は看護師に案内されるまま、内診台に上がった。なんとも恥ずかしい格好だった。世の中のお母さんは皆、この侮辱的な経験をしているのだ。男には出来ない経験だ。

「久保田さん、力を抜いてくださいね」

 そう言って女医が何やら器具を奈津の体に入れてきた。自然と力が入ってしまう。心を無にして時間が流れるのを待った。女医が何やら計算をして奈津に出産予定日を九月二十九日と告げた。診察室を出ると茉姫の女将が心配そうに奈津を待っていた。

「奈津さん、どうだった?」

「予定日は九月二十九日です」

 女将は奈津の肩を抱いてやった。奈津はその腕の中で泣いた。

 

「おめでとうございます」

 そう言って市の職員が奈津に母子手帳を手渡した。ページを開くと母と父の名前を書く欄があった。奈津は頭をさげ鞄の中にそれをしまった。

 妊娠がわかったあの日、茉姫の女将に抱えられ自宅に戻った。

「奈津さん、今日はとにかく何も考えず休みなさい」

 そう言って女将は出て行った。女将は店の開店前に、再び家に来てお手製のお弁当を置いていった。目が覚めた時はすでに日が暮れて奈津の部屋の中は暗く、外の街灯がぼんやりと進藤圭太がスリランカでお土産に買ってきたカラフルな像の置物を照らしていた。お弁当の横に手紙が置かれていた。

『奈津さん。今日は疲れたでしょう。今後のことはよく考えて結論を出してくださいね。どんな選択をしても、だれも、奈津さんを責めることはないのだからね。自分の人生なんだから。  茉姫』

 女将の優しさが胸に染みた。奈津は女将お手製のお弁当を食べながら泣いた。

 

「いらっしゃいませ。あら、奈津さん」

「女将さん…。先日はありがとうございました。それで…、あの…」

「奈津さん、取り敢えず掛けて」

 女将は奈津をいつものカウンター席に座らせた。

「板長、ちょっと醤油を買い忘れたので、奥村商店まで行ってきてくださいな」

 そう言って、女将は板長に用事を言い外にだした。そして、今しがた上げた暖簾を店にしまい鍵を掛けた。

「女将さん…」

「気にしなくていいのよ」

「女将さん。私……生みます」

「奈津さん。一人の人生をあなた守れる覚悟はあるの?」

「覚悟…。未知のことではっきり言ってわかりません。でも、この子は圭太さんが最期に私に残した贈り物のように思います。だから命掛けで守っていきます」

 女将は奈津の目を瞬きもせず見つめた。

「もう決めてるのね。なら、私は何もいわないわ。でも、これだけは約束して。息詰まる前に必ず私を頼って。子供はたくさんの人に守られて大きくなるものなの。一人でなんでもしようと思わないで」

「ありがとうございます」

「奈津さん。実はね、圭ちゃんあの日、奈津さんにプロポーズをしようとしてたのよ。私に奈津を喜ばせたいから内緒でケーキと花束を用意してくれって頼まれて…」

 女将はそれ以上は声がかすれて出なかった。

 奈津は圭太がどんな風に奈津にプロポーズをするつもりだったのか想像したが圭太は口を動かすだけで何を言っているのかわからなかった。だが、圭太が奈津をお嫁さんにしたいと思ってくれていただけでも、一人ではないと勇気つけられた。 

 その晩、押し入れの奥で眠っていた圭太の血のついた服を捨てた。そして小さな紙袋の中に入っていたリボンのついた箱を取り出した。奈津はしばらくその箱を見つめていたが深呼吸をしてリボンを解き箱を開けた。

「圭太さん……」

 そこにはダイヤが埋め込まれたリングが入っていた。リングの裏には奈津と圭太のイニシャルが彫られていた。奈津はリングを取り出して自分の薬指にはめた。そして、誓った。

「圭太さん、私をこの子の母親にしてください。私は、命を掛けてこの子を必ず幸せにします」

 奈津は母子手帳を開き、父親の欄に進藤圭太、母親の欄に久保田奈津と書いた。

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