九章 死

「圭太さん、圭太さん…。いやぁー!」

 進藤圭太の心臓に動きを示すモニターがツーと動きを止めた。医師が心臓マッサージを始めた。その動きに合わせてモニターに映る波線が動く。医師が呼吸を確認するために手をとめ進藤の鼻と口に顔を近づけた。再び、心臓マッサージが始められた。また、波線が動く。進藤の心臓はすでに自ら動くことを止めていた。何度か医師は同じ行為を繰り返したが、進藤の心拍が再開する事はなく

「十九時二十八分、ご臨終です」

 と医師が奈津に告げた。  

 看護師から、進藤の所持品と血のついた服をビニール袋に入れて手渡された。その後、奈津は自分がどのような行動をとったのかはおぼろげにしか覚えていなかった。気がついた時は、進藤圭太は火葬場の台の上で白い物体に変わっていた。母が死んだ時と同じだ。その辺にたくさんの白い物体があったら、誰の物か判別はできない。死んでしまったら、最期は皆んな同じ物体になってしまうのだ。進藤には田舎に年老いた両親と三つ上の姉がおり、全ての段取りはその姉が中心となって取り行った。

 骨上げの際、奈津はそのお姉さんにお願いをしてお骨を少し分けてもらった。お姉さんは正気を失った奈津を見て声をかける事が出来なかったが、別れ際に「圭太の分まで、幸せになって」と言われ『圭太と』ではなく『圭太の分まで』の言葉に、もう進藤圭太の温もりを感じることはないのだと認識した。そして、圭太が死んで初めて声を出して泣いた。それから一週間、奈津は誰にも会わずひたすら寝た。このまま、永遠に眠りについてもいいと奈津は思った。しかし、事故であっさりと死んでしまう人がいるというのに、人の体は生きるために無意識に水を欲しがり、空腹にもなる。奈津は起き上がり、コッブに水を注ぎ一気に飲み干した。そしてお米を洗いご飯を炊いた。その間に奈津はお風呂に入った。奈津に染みついた進藤の匂いが石鹸で消え去って行くことが耐えられず、敢えて何も考えず、無になって作業の一つとして体を洗った。  

 進藤圭太は事故に遭う前夜、スリランカの仕事を終えて日本に帰国をした。数ヶ月ぶりに会った進藤と奈津は今までの会えない時間を埋めるかのように、お互いを求めあった。

「奈津、明日仕事が終わったら話がある、茉姫に行かないか」

「はい。喜んで」

 これからは、遠い海の向こうではなく、いつでもあ会える距離に進藤がいることが奈津にはこの上ない幸せであった。


「奈津さん。いらっしゃいませ」

 いつも変わらぬ素敵な笑顔で茉姫の女将が奈津を出迎えてくれた。

「一人?」

「いいえ。進藤部長が帰ってきました。で、後から来られます」

「そう、良かったわね。奈津さん!」

「はい!」

 思わず元気よく返事をした。周りを見渡すと女将が笑っていた。

「奈津さん、いつものでいい?」

「いえ、部長を待ってます」

「はい、はい」

 そう言って奈津の前にお箸と一品を置いた。

 その時、店の中に一人の男性がただ事ならぬ顔で飛び込んで来た。

「すいません。救急車を呼んでください。ひき逃げです」

「えっどこで?」

「すぐそこです。スーツを着た男性が血を流してたおれています」

 奈津は胸騒ぎがして、茉姫を飛び出した。すると、すでに人だかりができていた。倒れている人の足が見えた。その先に小さな紙袋とリボンの付いた小さな箱が無造作に投げ出されていた。人の間をぬって進むとそこには奈津の知っている顔があった。

「圭太さん、圭太さん……」

 奈津は何度も進藤圭太の名前を呼んだ。圭太が目を細めて奈津を見た。

「な…」

 最後の「つ」は聞こえなかった。これが最後に聞いた進藤圭太の声だった。救急車の中では隊員によって蘇生が施された。奈津は必死に圭太の名前を呼び続けた。

「圭太さん、死なないで。奈津を一人にしないで!」

 

 浴槽の中で目を瞑ると、圭太の顔が甦ってくる。笑っている。目を開けると湯気で曇った鏡があるだけで圭太はいない。自然と涙が溢れてくる。「私も圭太さんの近くに行きたい。圭太さん、圭太さん、圭太さん…」何度も進藤圭太の名前を呼んだがもはや応えてくれることは二度となかった。

 奈津が仕事に復帰したのは、進藤圭太が死んで二週間後のことだった。同僚たちは無表情に笑う奈津を見て声をかける事はできなかった。そんな中、進藤圭太の先輩であり、かつて恋敵であった安倍泰治が踊り場で休憩中の奈津に声をかけてきた。

「久保田奈津さんだったね」

「はい」

「進藤のこと本当に残念だった。大丈夫?」

「…」

 奈津は何も応えられなかった。大丈夫であるが大丈夫ではない。今は、体と心が別々の所にあるようだった。進藤のことに触れられると正気ではいられない。枯れたはずの涙がまた溢れて出し、その涙はもう誰にも止められなかった。慌てた安倍泰治はポケットからハンカチを取り出して奈津の手に持たせたが、奈津は涙を拭うことも忘れたかのように遠くを見て泣いていた。そんな奈津を安倍泰治は思わず抱き寄せて頭をなでていた。ふと我に帰った奈津が安倍泰治を跳ね除け、「安倍部長すみません」と言って走り去った。

 

「いらっしゃいませ。あら、珍しい安倍ちゃんじゃない」

「おー、女将。いつも綺麗だな」

「相変わらず口が上手いこと」

「まずは生をくれ」

「はい、少々お待ち下さい」

 しばらくすると、おしぼりとビール、一品をお盆に載せて女将がカウンターに運んで来た。

「お疲れさまです」

「女将も一杯付き合え」 

「はい、それでは」

 そう言うと女将も生ビールをコップに入れてきた。

「いただきます」

 グラスが鳴った。

「進藤のことはもう知ってるよな」

「ええ。あの日奈津さん、ここで圭ちゃんがくるのを待っていたのよ。そしたら、知らない男性が救急車を呼んでくれ。ひき逃げだって入ってきて……」

 女将は声を詰まらせ、それ以上は話せなかった。

「そうか…。今日の昼間、なっちゃんに声をかけたんだ。だけど、声を出さずに涙をポロポロ流しだして、何も言えなかった」

「そう…。大丈夫かしら?」

 女将は大きな溜息と共にビールを一口飲んだ。

「圭ちゃん、あの日、奈津さんに結婚の申し入れをするつもりだったのよ。私、圭ちゃんに花束とケーキを頼まれてたの。奈津をビックリさせたいって…」

「俺には、何もしてやれない。女将、もしなっちゃんが来たら頼む。話を聞いてやってくれ」

 安倍泰治は進藤を思って酒を飲み、人目を気にせず男泣きをした。

  

 進藤圭太が死んで一ヶ月半が経った。あの時進藤が着ていた血がついた服がそのままの状態でビニール袋に入れられておいてある。中を見ることも、捨てること出来ない。紙袋の中にはリボンのかけられた箱と進藤の腕時計、スマホが入っていた。あの時からずっと同じ状態で家の押入れの中で眠っている。進藤は死んでしまったのだ。それも、目の前で死んで行ったのだ。だけど、もう少ししたら「奈津」っと言って部屋の扉の前に立っているのでは、電話がかかってくるのでは、メールがくるのではと微かな期待をしていた。その時、メールを知らせる着信が鳴った。

 元気? 

 井上凛からだった。奈津は何も返さなかった。すると、またメールの着信が鳴った。

 元気なわけないよね。

 実は進藤部長のことニノに聞いたの。でも何てメールをしたらいいのか分からなくて、今にいたりました。ごめん。そして、今もなっちゃんにどんな言葉をかけたらいいのか分かりません。でも、知らん顔はやっぱりできなくて…。

 井上凛は進藤圭太が作ったプロジェクトができて三年、軌道に乗り始めた矢先に会社を辞めた。久保田奈津と必ず成功させようと微力ながら切磋琢磨していた。井上凛の父親は誰もが知っている有名な会社の社長だった。井上凛がスリランカに出張に行っている間に父親が急死した。井上凛は父親の死に目には会うことはできなかった。父親の死を悲しんでいる間もなく、そして、相手のこともよく知らないままお見合いをして結婚した。全ては会社を守るために…。井上凛は何も持ち合わせていない奈津を羨ましいと言った。井上凛は親と会社のために好きな人と結婚はできない、親が決めた人と結婚をするのだと言っていた。そしてその通り、進むべき道を井上凛は進んだのだ。好きな人を失った奈津を井上凛は、今でも羨ましいと思っているのだろうか? その時、次は電話の着信が鳴った。

「もしもし」

「なっちゃん、メールじゃもどかしくて、ごめんね。大丈夫?」

「先輩。ごめんなさい」

「なに謝ってるの。ひとり?」

「はい。私、わたし…。また、一人ぼっちになっちゃいました」

 そう言うとうーうーと奈津の泣き声が聞こえてきた。

「なっちゃん、近くにいてあげられなくてごめんね」

 井上凛も泣いていた。もはや聞こえてくるのは二人の泣き声だけだった。 

 それから、二日後、井上凛から小包が届いた。中には、お花が散りばめられた甘い香りのバスボールとアロマオイルが入っていた。その横にメッセージカードが添えられていた。

『なっちゃん。今はどんなに辛くても耐えてください。大声で泣いてもいい、でも未来のなっちゃんには笑っていて欲しい。これは進藤部長の願いでもあります』

 奈津はバスタブにお湯を張った。その中にバスボールを入れ、奈津も湯船に体を沈めた。バスボールからは小さな花びらが無数に放たれ、奈津を甘い香りと共に包み込んだ。目を閉じるとそこには笑う進藤の顔があった。奈津が圭太さんと呼ぶとその顔はスーっと消えてしまった。奈津は声を上げて泣いた。その声は狭い浴槽の中で響き奈津の新たな泣き声をかき消していた。

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