八章 出産
「久保田さん、まだ我慢して。まだよ」
「うーうー」
「力を抜いて、次の痛みで一度いきんでみましょう」
痛みと痛みの間で、吸い込まれるような睡魔に襲われた。すでに感覚は二分おきにきている。その二分の間に色んな夢を奈津はみていた。遠くで奈津のお母さんが何やら叫んでいる。何を言っているのか、辺りの雑音でかき消されて聞こえない。拳を握りしめ奈津にエールを送っているように見える。お母さんの口元は「頑張れ」と言っているようだった。何度も何度も言っていた。突然、意識が現実の世界に引き戻された。
「久保田さん、いきんで。うーーーん。もう少し頑張って。楽にして、ハァッハァッハァッ」
その言葉に合わせて奈津も息を整えた。だが、すぐに経験したことがないような痛みに襲われ、奈津は思わず叫んでいた。
「助けて、お母さん」
「頭が見えてきたわよ。次の痛みで一気に産みましょう。頑張って。はい、いきんで」
「うんーーー」
次の瞬間、奈津の体から何か生暖かいものがこの世に送り出された。
「オギャア! オギャー!」
「おめでとう。よく頑張りました。元気な女の子よ」
そう言って、まだへその緒で繋がっている友紀を奈津の胸に抱かせた。目は見えていないはずだが、眩しそうな表情で必死に奈津の顔を友紀は見ていた。フニャフニャとした、この生き物は奈津がいなければ生きてはいけない。そう思うと、奈津は涙が止まらなくなった。嬉しさよりも不安のほうが先だった。
母も同じように一人で私を産んだのか?
私の誕生日を一緒に喜んでくれる人が横にいたのだろうか?
母が生きていたら聞いてみたい。
私、ちゃんと育てていける?
溢れる涙を年配の看護師が拭ってくれた。奈津の不安を察したのか、
「久保田さん、見てごらんなさい。口をパクパクしてるわよ。不思議ね。誰も教えてないのにオッパイを探しているわよ」
そう言って、産まれたばかりの友紀の顔を奈津の乳首に近づけた。何度か鳥のように首を上下させたのちに奈津の乳首を吸い出した。初めはくすぐったいような感覚だったが、まだ、お乳のでない乳首を力強く吸い出した。しばらくすると、もう疲れてしまったのか乳首から口を離し寝てしまった。
「久保田さん、今日はゆっくり休んでね。明日からはお母さんと赤ちゃんとで授乳の訓練が始まるからね」
そう言うと友紀を抱き上げ新生児室へと連れて行った。『お母さん』と言った看護師の言葉がいつまでも奈津の頭の中で反響していた。
奈津はハッとして目を覚ました。友紀にお乳をやりながら、寝てしまっていたのだ。友紀を見ると口元にお乳をつけてスヤスヤ寝ていた。今のうちに洗濯ものを取り入れて、晩ご飯の準備をしておこうと、眠気の覚めぬ体に鞭打って立ち上がった。ベランダに出ると夕陽が建物を赤く染めていた。慣れない子育てで、毎日があっという間に過ぎていく。友紀は寝ているだけなのに、なぜか、部屋の中は泥棒でも入ったのかと思うほど散らかっていた。一人の子を育てるために母親は知らぬ間に自分の命を削っているのだ。子育てを楽しむ余裕なんて奈津にはなかった。でも、時々見せる笑っているよな口元に癒された。そして、日に日に重くなっていく友紀を抱きながら、自分の体内から分泌される乳だけで成長していくことが不思議でならなかった。基本的には鼻筋は進藤圭太似で、まん丸の目は奈津ににていたが、毎日のように顔は変わって行った。
ある日、奈津が洗濯ものを畳んでいると、「あーあーうー」と声が聞こえてきた。友紀を見ると自分の握り拳を見つめておしゃべりをしていた。
「友紀、おしゃべりしてるの」
「うーうー」
奈津は感動で泣いてしまった。こんなことでと人は思うかもしれないが、友紀が生まれてからこの数ヶ月、奈津は一人で子育てを頑張ってきた。ほとんど誰とも交わることはなかった。この瞬間、なぜか私は一人ではないと思えたのだ。友紀が大人になって奈津の元を出ていくまでの間、この子と時には泣いて、笑って、怒って、喧嘩して家族として生きていける喜びを感じていた。
「ママ、友紀ちゃんのパパはどこにいるの?」
五才の誕生日を迎えた友紀が突然奈津に聞いてきた。奈津は自分が母に父のことを聞いた時のことを思い出していた。その時の母の恐ろしい顔が、今でも時々夢に出てくる。母は父のことを何も教えてくれなかった。死んでいるのか、生きているのかさえもわからない。母は父を恨んでいたにちがいない。でも、せめて私が産まれた時は、父と二人心から喜んでくれていていたと思いたい。写真に写っていた奈津を抱く父と母の笑顔が本物であって欲しい。
「友紀、こっちにおいで」
奈津は友紀を膝の上に乗せた。
「友紀、ここに手を当ててごらん」
そう言って友紀の小さな手を友紀の胸の上に置いた。
「ドクン、ドクンって言ってるでしょう?」
「うん、なんか動いてる」
「友紀が転んだ時に赤い血を見て痛い痛いって泣いたでしょ。その血がここの中で動いてるのよ。この血は、友紀が生きて行くのにとても大事なものなの。その血を最初にあげたのがパパとママ。だから、友紀のパパは、いつもここにいてるの。いつだって一番近くにいてるのよ」
「パパ。聞こえる? 友紀だよ」
自分の胸に話しかける友紀を見て、奈津は涙を堪えられなくなった。
「ママ、どうして泣いてる? ママのここにもパパはいるの?」
「残念ながら、ママのここにはパパはいないの。でもね、友紀。友紀のここにパパがいてるから、友紀がママの横にいてくれたら、いつもパパと友紀とママ三人一緒だよ」
「ママ。友紀ちゃんお腹がペコペコ」
時計を見ると夕飯の時間になっていた。
「ごめん、ごめん、すぐに作るね。友紀もお箸とコップを並べてくれる」
友紀がどのように進藤圭太のことを理解したかはわからないが、友紀は圭太の分身であり、そして奈津の分身である。そのことだけが、今の奈津を支えていた。
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