七章 流氷

 進藤率いるスリランカ一行が日本を旅立つ日が十日後に迫っていた。奈津は何も考えず、黙々と仕事をこなし日々を過ごしていた。昼休憩の時間に進藤から連絡が来た。

「今晩、飯でもどうだ?」

「はい。でも、今日は私が何か作ります」

「手料理か」

「大した物は作れませんが、お鍋でもどうですか?」

「いいね。じゃお酒は僕が買っていくよ。先に僕の部屋で待ってて」

「はい、買い物してから行きます」

 奈津の胸の鼓動が大きく波打った。進藤の部屋には何度かお邪魔はした。しかし、進藤からもらった鍵を使って、一人で部屋に入るのは初めてだった。進藤にいつでも好きなと時にきたらいいよと言われていたが、何故か厚かましく思え、気がひけていたのである。何もかもが奈津には初めての事ばかりで、男性がどのような物を好むのかさっぱりわからなかった。ある日、奈津が進藤にお弁当を作った時に、凄く喜んでくれた事があった。その時、男の人は意外と単純な生き物なのかもしれないと思ったこともあった。それで、後十日で離れ離れになる進藤に何か喜んでもらいたいと思い、咄嗟に料理をするなんて言ってしまったのだ。作るものが鍋って…。

 奈津は買い物を済ませて、進藤のマンションの下で緊張していた。この鍵をここへ差し込めばエントランスの扉が開く。簡単な事ではあったが中々差し込む事ができなかった。すると、中から人が出てきて扉が空いた。奈津は躊躇なく中へと進んだ。エレベーターに乗り、十五階のボタンを押した。次は部屋の鍵を差し込めば進藤圭太の部屋に入れる。なのにここに来て、また緊張してしまい、手には汗を握っていた。男の人の部屋の鍵をもち、自らその部屋に入る行為は、男性に対して免疫ゼロの奈津にとっては、すごく勇気のいる事だったのだ。一歩部屋の中に入ると、進藤の匂いが充満していた。進藤の息遣いが聞こえてくるようだ。鍵を開けて部屋に入っただけなのに、偉業を成し遂げたかのようにどっと疲れを感じていた。鍋の用意が済んだと同時にインターホンが鳴った。恐る恐るモニターを覗くと進藤圭太が写っていた。奈津は解除のボタンを押して鍵を開けた。 

「お帰りなさい」

「ただいま、奈津」

 とても新鮮なそして幸せを奈津は感じていた。

 最後のシメ、雑炊にさしかかった時「急だが、今週末に旅行に行こう」と提案をしてきた。奈津は高校の修学旅行で東京ディズニーランドに行ったきりだった。親にも旅行に連れて行ってもらったことは一度もない。

「うん、行きたい。どこに行くの?」

「北海道。流氷を見に行こう」

「北海道?」

「そうだよ。ちょうど月曜日は祝日だから二泊三日でどうかな?」 

 奈津は満面の笑顔でうなずいた。

 

 奈津と進藤圭太は女満別に降り立った。関西空港から直行便で三時間半で、そこには銀世界が広がっていた。息を吸うと肺の奥までが痛くなる。顎まで覆っていたマフラーで鼻の先まで隠した。進藤圭太がどこかへ電話を入れていた。その間、奈津は窓の外の雪を見ていた。今、奈津の知らない日本の最果てに進藤圭太と二人でいることが不思議だった。

「奈津、もうすぐ迎えが来るから、それまで暖かい物で飲もう」

「はい」 

 女満別空港内には飲食をするレストランは二つしかない。洋食屋に入り、奈津はココアを進藤圭太はコーヒーを注文した。

「北海道は初めて?」

「はい。さっき表に出た時、寒さで震え上がりました。いいえ、あまりの寒さで凍りついて動けませんでした」

 進藤は声を出して笑った。

「今から紋別と言ってオホーツク海に面したところに行くから、凍えるくらい寒くなるよ。大丈夫?」

「何度くらいなんですか?」

「平均的な気温は氷点下九度。風が吹いたら体感的にはもっと寒く感じるだろうね。なんせ海から氷の山が接岸する場所だからね」

 その冷たさがどれほどのものか奈津には想像もつかない。こんなに厳しい場所でもそこから逃げ出さず、日々の生活を営み、生きている事に何か胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「圭太さんは流氷は見たことあるんですか」

「あるさ、何度も。大学生の時に初めてここに連れてこられて流氷を見た。それからは流氷の虜になってしまって毎年見に来てる。ここ五年ほどはご無沙汰だけどね。迎えに来てくれるのはその時の大学の連れで、『レラ』っていうペンションを経営してる。ちなみにレラとはアイヌ語で風っていう意味だよ」

『レラ』風。ここに吹く風はどんな風に吹くのだろう。風は極寒の地にさらなる寒さを運んで来て、人々を恐怖におとしいれるのだろうか…。

「もしもし、おーすぐに行く」

「奈津、迎えが来たよ。行こう」

 ここから車で二時間、一一〇キロの距離を移動する。今日は吹雪いているのでもう少し時間がかかるそうだ。外に少し出て車に乗るだけでフードに雪が積もった。車の中は、外からは想像がつかないくらい暖かだった。迎えに来てくれた進藤圭太の友人は薄手の長袖Tシャツ一枚を着ているだけだ。極寒の地で生活をする人とは思えないくらい軽装だった。

「ありがとう、トミー」

「久しぶりだな、進藤」

「奈津、こちら藤田富太郎、通称トミー」

「久保田奈津と申します。よろしくお願いします」

「なっちゃんでいい?」

「はい」

「なっちゃん、こちらこそよろしく。トミーでいいからね」

 そう言ってルームミラー越しにトミーが奈津に会釈をした。

 車から外を見ると雪が吹雪き、何も見えなかった。一時間ほど車を走らせるとオホーツク海が見えてきた。とは言っても、途切れることなく降る雪で全貌はわからない。奈津の知っている海とはまるで違う。この海に飲み込まれたら、生きては帰れない恐怖を感じていた。

「今日は天候が悪いんですね」

「気温がどんどん下がってきているし、オホーツクからの風が吹いているので、明日は流氷が接岸するんじゃないかなぁ」

「トミーさん、流氷って冬の間ずっと見れるんじゃないんですか?」

「まさか。色んな条件が揃って初めて見ることができるんだよ、奈津さん。進藤は学生時代、流氷を見るために冬休みの間ずっとバイトをしながら紋別に滞在してたんだよ」

「あの頃は、お前の両親には世話になったよな。変わらず元気にされているのか?」

「年だからなぁ。でも、口は相変わらず達者だよ」

 時折、海から吹く風でトミーの運転する車が横に揺れた。

「さぁ、着いたよ。荷物は僕が運ぶから中に入って」

 トミーの経営するペンション『レラ』の中に入ると、外界の気温が嘘のように温かだった。真ん中には大きな暖炉があり、床暖が入っているのか足の裏も温かだった。

「進藤君いらっしゃい。元気だった?」

「元気だけが取り柄だからな。みっちゃんは変わりない?」

「全く変わってないでしょ!」

 そう言って目尻に小皺を作って笑った。

「ところで、紹介してよ」

「お世話になります。久保田奈津です」

「奈津さんね。藤田の妻の美月です。ゆっくりしてね」

「ありがとうございます」

 美月は中肉中背の肝っ玉母さんという感じの人だった。トミーが勢いよく二重扉になっている玄関の扉を開けて頭に雪を積もらせて入ってきた。

「部屋に案内するね」

 そう言ってトミーは荷物を持って二階へとあがり、奈津と進藤圭太も後に続いた。

「ゆっくりしてから、よかったら下に来いよ。今日は泊まりはお前たちだけだから、風呂も二十四時間自由にはいってくれ。なっちゃん露天風呂は熊がでるから一人ではいるなよ」

「熊!」

「おいおい、トミー。奈津がびっくりしてるじゃないか。熊は冬眠中だから安心しろ」

 トミーが奈津のびっくりするリアクションを見て、お腹を抱えて笑いながら部屋をでていった。

 窓の外を見ると雪が深々と降っていた。部屋の中は半袖でも過ごせるくらい快適な室温を保っていた。着ていたコートを脱ぎ、セーターも脱ぎソファーに腰掛け、伸びをした。

「奈津、疲れただろう」

「少し。でも大丈夫です」

「コーヒーでも飲もう」

「私淹れます」

 そう言って部屋に用意されていたバリスタのスイッチを入れた。たちまち部屋にコーヒーのいい香りがしてきた。

「圭太さん、旅行に連れてきてくれてありがとう。私、プライベートで旅行に行くのは初めてなんです、実は…」

「そうなんだ。これからも行こう奈津。でもしばらくは無理かな。この仕事が軌道にのったら僕も長期休暇をもらうから、どこかへ行こう」

 奈津は大きくうなずいた。どこからか大砲でも打ち鳴らしたような音が窓の外からきこてきた。

「流氷が来たな」

 進藤がポツリと言った。

 

 北海道の夜は長い。日本列島の東に位置するので日は早くに沈む。当然の事だが、夜明けは早い。奈津が女満別に到着してここ紋別に着いた頃にはあたりは暗くなりかけていた。

 夕飯はトミーが作った鍋料理をいただいた。料理と言っても、北海道でとれた鮭やイクラなどの魚介に野菜を白味噌仕立てのダシにブッ込む男の料理だ。しかし、魚介から出るダシで絶品な味だった。奈津はしばし言葉を忘れて食べるのに集中した。一息入れた奈津を見てトミーが「一杯どうだ」と言って一升瓶に入ったお酒とグラスを差し出してきた。

「はい。いただきます」

「いいね。飲もう」

「奈津、トミーは底無しだから、程々にしといてくれよ。明日は早くに起きて、流氷の間から登る朝日をみるからな」

「はーい」

 六時から始まった夕飯が終わり、部屋に戻った時は十一時過ぎだった。

「奈津、風呂に行こう」

 奈津は熊の事を思い出した。もし、お風呂にはいっている時に熊に遭遇したら「ご一緒にどうぞ」と言って入ってもらうのか、素っ裸で逃げるのか…。そんな事を考えていた。

「奈津、行くよ」

 お風呂は男女別れていたが、外の扉を開けると露天になっており混浴になっている。基本は家族風呂のようだ。入浴の間は外に使用中の札をかけ、中から鍵をかけるようになっていた。奈津は体を洗い湯船に浸かった。足の先と指の先がジンジンする。慣れない寒さで体が芯から冷えていたのを実感した。しばらくすると進藤圭太が男湯から奈津に声をかけてきた。

「奈津。一緒に露天風呂に入ろう。雪がやんでるから、星がみええるかもしない」

 奈津は戸惑った。父親と一緒にお風呂に入ったことがないどころか、奈津にとっては初めての男が進藤である。当然、男の人となんてお風呂に入ったことはなかった。

「圭太さん、私、遠慮しておきます」

 奈津は進藤のいる男風呂の天井目掛けて返事をしたが返答がなかった。

「圭太さん」

 もう一度呼んだが返事はない。進藤はすでに露天風呂に入り、満点の星を眺めえていた。奈津は意を決して二重扉になっている扉を開けた。中の気温からは想像できないくらい空気が冷たく体温を急速に奪って行った。

「奈津、はやく入って」

 進藤に促されるまでもなく、奈津は湯船に飛び込んだ。

「肩まで浸かって」

 そう言った進藤の言葉が雪に呑まれ、辺りが静寂に包まれた。奈津が何かを言おうとしたが進藤の唇が奈津の言葉を遮った。遠くで何か大きなものがぶつかり擦れるような、初めて耳にする音が聴こえていた。

「流氷がぶつかる音だよ。そこまで来てるんだ」

 進藤が教えてくれた。奈津は海のあるほうを見上げると何百何千何万もの星が、今にも降り注いできそうだった。

 

 パンの焼ける匂いが奈津と進藤が寝ている部屋まで漂ってきた。美月がオーブンでお手製のパンを焼いているのだ。昨夜は、お腹がはち切れるほど食べたというのに、グーと腹の虫が鳴った。その音を聞いて進藤圭太は笑っていた。

「飯にしよう」

 身支度を整え、下へ降りていくと、テーブルの上ではパンとコーンスープが湯気を立てていた。まだ、日の出までには時間がある。奈津と進藤圭太はまったりとした時間を過ごした。朝食を食べ終えると進藤が

「日の出までに海岸へいくから、十五分後に出発で」

 トミーもいつの間にか姿を現し、手でオッケーをして見せた。

 ペンションの外に出ると、まだ薄暗く、冷凍庫の中にいるような空気の冷たさだった。と言っても外気に直接触れているのは目だけだった。トミーは慣れた手付きで凍った道路の上を車を走らせた。大阪ではわずか一センチの雪が積もっただけでパニックになる。トミーの車は流氷の接岸する秘密の場所に到着した。そこは少し高台になっていて、奈津は慣れない雪の上を何度も滑りながら絶景ポイントに到着した。すると、太陽がはるか東の空から顔を出すところだった。色のない世界を一気に変えていった。氷山は赤く染まり、本来の色を失っていた。そして目の前には大きな氷の山が、ずっと昔からそこにあったかのように堂々たる存在感を醸し出していた。初めて、それを見る人はその氷の山の下では海水が流れて、明日、もしかすると数時間後にはそこには居なくなってしまう存在だなんて思いもしないだろう。太陽は凍った空気に光を放ち埃が舞っているかのようにキラキラと奈津の目の前を動いて見せた。奈津が生まれてから見てきた世界が本当にちっぽけで、自分の存在が虫けらよりももっと小さな存在であるように思えた。この自然の織りなす力は、到底人間が太刀打ちできるものではなく、その自然の中ではどんなに立派な人でも無力なのだ。

 大きな鳥が目の前に現れ、氷山の尖ったところに止まった。足の部分を残し、暖かな羽で全身を覆われていた。

「なっちゃん、あれはオジロワシだよ。翼を広げたら180センチはあるから、なっちゃんより大きい鳥だ。基本、単独行動をする。男前の鳥ってことだな。俺は寂しがり屋だからオジロワシにはなれない」

 そう言ってトミーは高台からおり、流氷のほうへ歩き出した。

「奈津、行こう」

 進藤は奈津の手を握って歩き出した。氷は一定の厚みがあるわけなく、薄くなっているところもあった。進藤の後ろを付いてくるように言われ、必死に後を追った。三十分ほど氷の上を歩いただろうか進藤圭太が立ち止まった。

「下を見てごらん」

 進藤圭太が指を指した先を見ると、そこには氷と氷の間から顔を覗かせている、あまりにも美しい海水があった。奈津は息をするのも忘れてしまいそうになった。そして、その美しさの奥にある光の差さない暗い海の底に全てが飲み込まれてしまいそうになって、奈津は動けなかった。その時間は数分いや、実は数秒だったのかもしれない。ふと我に返り圭太を見ると奈津に手を差し伸べていた。奈津は必死で手を伸ばし圭太の手を強く握った。「奈津、どうしたんだ?」

「ううん、何でもない」

「トミーの奴、歩くの速いなぁ。さすが地元民。あんな所まで行ってるぞ。行こう」   奈津は圭太の手を離すことができず、しっかりと握りしめていた。圭太も奈津の手をしっかりと握ってくれた。

 どれくらい氷の上を歩いたのだろうか。前を見るとすぐそこにオホーツクの海が広がっていた。流氷の端まできていたのだ。と言っても明日には奈津の知らない海の向こうからどんどん氷の塊がやって来て、ここは端ではなくなる。そして、春になると氷は消えてしまう。トミーが氷を割って持ってきたやかんに入れ、バーナーに火をつけた。暫くすると氷が溶け出し、ブクブクと沸騰し出した。マグカップを三つだし、そこにインスタントコーヒーを入れお湯を注いだ。

「美味しい」 

 奈津の冷え切った体を熱いコーヒーが温めた。

「たかが、インスタントコーヒーだけど、こうやって飲むと格別なんだ」

 トミーが嬉しそう言った。

「この氷で飲むウイスキーのオンザロックも最高だよ。なぁ、進藤」

「おいおい、奈津には飲ませないでくれよ。ここからおぶって引き返すなんて自殺行為だからな」

 三人は声を出して笑った。

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