六章 キス

 東京出張から帰ってきた翌週から、奈津が参加するプロジェクトは本格的に動き出だし、今までの引き継ぎも加え仕事は一段と忙くなっていた。東京のメンバーとはモニターを使って何度もミーティングが行われた。宴会部長のニノが意外にも仕事ができる男であったことに奈津は驚いた。月初めから二週間、進藤圭太とニノを含む五人がスリランカに行くことになった。出発の前日、奈津は進藤にラッサナイへのお土産を託した。中身はちりめんが施された手鏡だった。そこにシンハラ語で手紙を添えた。進藤は奈津のこういった気配りを買っているのである。

「なっちゃん、ありがとう。きっと喜んでくれるよ」

「よろしく、お伝えください。部長…」

「なんだい?」

「留守は私に任してください」

「おや、頼もしいな。よろしく頼むよ。何かあったら連絡してくれ」

「はい。承知しました」

 奈津は進藤に一礼をした。部長…と言った後に奈津は寂しいです、と言いそうになったのだ。たかが二週間のことなのに進藤のいない空間は奈津を空虚な気持ちにさせた。

 

「いらっしゃいませ。あら、奈津さん久しぶり」

「ご無沙汰してます」

「圭ちゃんと待ち合わせ?」

「いえ、今日は一人です。部長は今日から二週間スリランカです」

「そう。忙しいのね」

 茉姫の女将はそう言いながら、奈津におしぼりを手渡し顔を覗いた。

「元気ないじゃない。『ぶ酎ハイ』で乾杯しましょ」

 ぶ酎ハイは奈津のお気に入りのお酒だ。女将は、ほとんどの客の好みを覚えている。

「はい」

 女将がぶ酎ハイの入ったグラスを二つ持ってきた。

「これは、私の奢りよ。乾杯」

 グラスが鳴った。

「ん〜美味しい」

「やっと笑った。奈津さんには笑顔がやっぱり似合うわよ」

「すみません。何かおすすめありますか?」

「お腹空いてるんでしょ? 今日の賄いなんだけどタンシチュウ食べてみる?」

「はい」

 女将が後ろの厨房へと消えて行くや否や、シチュウのいい匂いが漂ってきて、奈津の胃袋をくすぐった。 

「はい、奈津さん。お口に合うかしら」

「いい匂い。頂きます」

 お皿の中で湯気を立てているシチュウをスプーンですくい口に入れた。

「何、これ! 美味し過ぎです」

「良かった。おかわりあるから一杯召し上がれ」

「女将さんって、本当にお料理が上手なんですね」

「ありがとう、奈津さん。料理って食べてくれる人のことを思って作れば、美味しくなるのよ。クックパッドなんかで、なんでも一応は作ることができる便利な世の中になったけど微妙に作り手によって味が違うものよ。お仕事で疲れて帰ってくる大切な人が自分の作った料理を食べて笑顔になり、元気になってくれれば作っている方も嬉しいものだしね」

「女将さん、聞いてもいいですか? 女将さんはそういう男の人がいるんですか?」

「いない、厳密に言えば今はいない。私の大切な人は違う人の旦那様だったの。その人が私の作るこのタンシチュウが好物だった。私の人生の中で一番大切な人かもしれない」

「その人とどうなったですか?」

「大動脈乖離であっという間に死んだのよ。実は今日が命日。連絡が取れなくなって一ヶ月経って知ったんだけどね。あの人の奥様が携帯電話を見て知らせてきたのよ。でないと死んだことも知らずにずっといたかもしれない。奥さんに言われたのよ。墓には参らないでくれって。私は、あの人に手を合わすことも許されない立場の人間ってことね。あの人が死んで今日で五年。私が生きてる限りあの人の命日にはタンシチュウを作るつもり。奈津さん、よかったら食べに来てくださいね」

「女将さん、私で良ければ食べさせてください」

 奈津の頭の中で色んな思いが駆け巡った。母もまた誰かの愛人だったのか。本妻と呼ばれる立場でなかったことだけは確かである。男にとって、本妻は生活を守らなければならない人であり、そこには愛は薄らいでも義務だけは残る。愛人は生活を守らなければならないという義務はなく、自分の感情の赴くまま体を求め、愛を語ることができる。しかし、本妻は表通りを歩けるが、愛人は陰を歩くしかない。正々堂々とこの人は私の男だとは言えないのである。奈津はどちらも欲しかった。守られて、愛されたい。それは、欲張りなのか? 愛されることがどういったものなのか奈津にはわからなかった。ぼんやりしている奈津を見て女将が言った。

「奈津さん、変な話しちゃってごめんなさいね。誰かに聞いて貰いたかったの。圭ちゃんには内緒ね」

 女将の笑顔の奥には、埋めることの出来ない深い悲しみがあるように奈津には思えた。女将は真剣に愛していたんだ、きっとこれから先、その人を超える人は現れないのかもしれない。

 

 奈津にとって、進藤圭太のいない二週間はとてつもく長い時間に感じられた。寝ている時以外は進藤のことを片時も忘れることはなかった。

 今日は進藤圭太が帰って来る日だった。二十時三十分関西空港着。奈津は関西空港国際線入国ゲートに立っていた。沢山の人が出てきた。その中に奈津は進藤圭太を見つけた。しかし、すぐには声をかけられなかった。迎えに来ているなんて進藤は思ってもいないだろう。何て言おうか、考えているうちに進藤が奈津を見つけ声をかけてきた。

「なっちゃん。迎えにきてくれたの?」

「部長…」

 その先が出なかった。

「こんな遠くまで…」

「お帰りなさい。近くに用事があって、ついでというか…」

 もちろん、近くに用事なんてあるわけがないことは進藤にもわかる。何故なら、関西空港は海の孤島だから、伊丹空港とは全く違う、海を埋め立てて作られた島だ。

「ついででも、嬉しいよ。なっちゃん。そうだ、お土産があるんだよ」

 進藤圭太が鞄から取り出したのはカラフルな柄の布で作られた赤と黄緑を基調とした象の置物だった。スリランカでは象は神聖な動物とされている。そして、象は荷物の運搬などでも活躍している。進藤はお土産を買う際、奈津の殺風景な部屋を思い出していた。シンプルと言ってしまえばそれで終わりなのだが、必要最低限の物しかなく、何か自分の寛げる部屋としての暖かさがなかった。カラフルな布のハンドメイドの象を見たとき、奈津の部屋に置いたらパッと明るくなるのではないかと思い迷わずこれに決めた。奈津は進藤からの思いがけないお土産に、この二週間の寂しさを忘れてしまった。

「部長。可愛い! ありがとうございます」

「なっちゃん晩ご飯は食べた?」

「まだです」

「じゃ、付き合って。うどんが食べたくて」

「はい」

 無邪気に喜ぶ奈津を見て、進藤は奈津を守ってやらなくてはと思った。それがどういう感情からくるものなのか進藤自身にもわからない。ただ、部下としてという義務的なものではないことはわかっていた。

「やっぱり美味いな。海外に行くと日本食が恋しくなる。とくに出汁の利いた関西のうどんが食べたくなるんだよ」

「私、外国語を専攻してましたが、海外には一度も行ったことがないんです。貧乏学生だったので学校がない時はバイトに明け暮れてました」

「そうなんだ。でも、英語はかなりできるっって聞いたけど」

「日本に留学に来ていたニュージーランドの友達がいて私が日本語を教えるかわりに英語を習ったんです。今は母国に帰って日本語を教えてます」

 進藤も奈津もうどんの汁を全部飲み干した。

「進藤部長も外国語もスポーツも万能っておききしていますよ」

「親が海外で仕事をしていたから、小さい時から色んな国を転々としていたなぁ。スポーツは言葉が通じなくても楽しめるから、その国の同級生に馴染むために勝手に身についたんだよ」

 奈津は進藤の話を聞きながらお土産に貰った象を嬉しそうに眺めていた。

「留守中は何もなかった?」

「はい。何事もな…」

 と言いかけた時に奈津は少し声を詰まらせてしまった。もちろん、仕事は何事もなく無事に毎日が過ぎて行った。しかし、奈津の心が寂しくて泣いていたのだ。進藤のことが恋しくて泣いていたのだ。

「なっちゃん?」

「もちろん何事もなく過ごしていました。部長がいなくても大丈夫です」

 奈津の目には涙が一杯溜まっていた。

「言ってくれるな、なっちゃん」

 その時、進藤はまたもや奈津を抱きしめたくなる衝動を覚えた。二人はリムジンバスに乗って関西空港を後にした。奈津は肩に触れる進藤の温もりをそっと感じ、ようやく安堵した。バスに乗り込んで十五分ほどすると奈津の頭が無防備に揺れ出した。行き場を失っている奈津の頭をそっと自分の肩に乗せてやると、幼子のように寝息を立て出した。こんな事が、前にもあった。そう、東京行き新幹線の中だ。奈津に対する感情はあの時とは違う。

 

「……ということで、かなりの進展があった。用地の売買契約はスリランカの相手先が六か月以内に済ませるといっている。おおまかな設計図をこの二ヶ月で仕上げて、その後は現地にて調整をしていく。本社と大阪で合わせて十五人に現地いりをしてもらう予定だ。人員は追って連絡するのでよろしく頼む」

 このプロジェクトが本格始動を始めてたのだ。奈津は急に不安になった。進藤もスリランカに長期滞在するかもしれない。奈津は進藤が行くところに着いて行きたかった。たった二週間がどれほど長い時間に感じられ、奈津を孤独にさせたことか…。仕事に私情を持ち込むのは社会人として失格である。ましてや、仕事を失ったら生きてはいけないと奈津は常日頃から感じて生活をしているのだから。とにかく、今は目の前に仕事を完璧にこなしていくことだ。今となっては中島佳代に仕事を押し付けられて残業をすることはなくなったが、時間内に終わらないことは時々ある。そんな時は進藤も奈津に合わせて仕事をしてくれているようだった。

「なっちゃん、もう終わる?」

「あと十分くらいで終わります」

「用事がなかったら、どうだ?」

 進藤は酒を飲む振りをして奈津を誘った。

「喜んで」

「じゃ、先に行ってるから茉姫で」

「はい!」

 奈津は元気よく返事を返して、仕事に取り組んだ。


「あら、けいちゃん。いらっしゃいませ。スリランカはどうでした?」

「女将は地獄耳だなぁ。どうして出張のこと知ってるんだい」

「私はなんでもお見通しよ。ウソウソ。奈津さんが圭ちゃんの出張中にお店に来てくださったのよ」

「一人で?」

「そうよ。なんだかとっても元気がなくて、心配したわ。圭ちゃんがいなかったからよ。きっと」

 進藤は何も答えなかった。

「ビールでいい?」

「生で」

「奈津さんは素直で可愛いわ。ちゃんと受けとめてあげなさいよ」

「女将は怖いよ」

 その時、息を切らして奈津が店に元気よく入って来た。会社から走ってきたようだ。奈津の顔には満面の笑顔が溢れていた。

「そんなに急いで来なくても逃げやしないよ」

「女将さん、お水を一杯ください」

 女将から冷たい水の入ったグラスを受け取り、奈津は一気に飲み干した。

「落ち着いた?」

「はい。ありがとうございます」

 奈津は嬉しくて無意識のうちに猛ダッシュをしていたのである。

「奈津さんは、いつものでいい?」

「はい。ぶ酎ハイで」

「なっちゃん、お疲れ様」

「部長こそ、これから、又忙しくなりますね」

「よろしく頼むよ」

「足を引っ張らないように頑張ります」

 女将が薦めてくれた北海道から取り寄せたという毛蟹を奈津は初めて食べた。あまりの美味しいさに、しばし話をすることを忘れていた。

「奈津さん、気に入ってくださったようね」

 女将に言われ、ようやくこの世に戻ってきた。

「すいません。美味しすぎて、自分の世界に入ってました」

「そんなに気に入ってくれたら嬉しいわ。旬のものだから何時も手に入るわけじゃないのよ。奈津さんはタイミングが良かったのね。どんなものにも旬というものがあるのよ。私の旬はとうに終わったけどね」

「そんな、女将さんはいつも魅力的です。私にも旬はくるのでしょうか?」

「もう、来てるんじゃない? 女は自分以外の誰か大切な人ができた時に変わるものよ。その人に必要とされたい。その人に愛されたい。その思いが女を変化させるのかもしれないわね」

 奈津は進藤への思いを女将が知っているのだと確信した。進藤は女将の話を黙ってきいていた。

 

 月が変わって、プロジェクトチームの全体会議が大阪で行われることが急遽決まった。東京から、井上凛、ニノももちろんやってくる。東京の出張が終わってから、ニノが奈津へちょくちょくラインを送ってくるようになった。こんな所に行ったよと写真を送ってくる事もあれば、おやすみメールがくることもあった。この度の大阪出張が決まった時も『なっちゃんに会えるの楽しみです』と送ってきた。

 

「久保田さん、お久しぶり。元気にがんばってるみたいね」

「はい。井上先輩。ありがとうございます」

「なっちゃん!」

 大きな声で叫びながら、走ってくるニノが見えた。

「ニノ、久保田さんを狙ってるわよ。毎日、なっちゃん、なっちゃんてうるさいのよ」

「…」

 奈津は返す言葉がなかった。

「いいの、いいの。勝手にニノが盛り上がってるだけでしょ。久保田さんは進藤部長一筋だものね」

「…」

 これまた、返す言葉がなかった。しかし、図星である。ニノのことは嫌いではないが、進藤圭太に抱く感情とは全く違う。

「二宮先輩、お疲れ様です」

「なっちゃん、逢いたかったよ」

 そう言って奈津に抱きついてきた。とっさに奈津はそれを避けることが出来ず、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。奈津の視線の先に進藤圭太の姿が入ってきた。進藤は奈津を見ていた。その時、井上凛が知ってか知らずか助け舟を出してくれた。

「ニノ。仕事中よ。それに久保田さん嫌がってるじゃない」

「本当? なっちゃん、ごめん」

「いえ…。こちらです」

 

 会議の助っ人に中島佳代が駆り出された。会議室の扉の前で一礼をして中島が入って来た時、男性社員が一斉に中島の胸に注目し、慌てて視線を机に落とした。中島佳代は男性社員一人一人の目を見つめ資料を手渡していった。特に釘つけになっていたのはニノだった。そんなニノに中島佳代がニヤリとしたのは気のせいだったのか。この日の中島佳代の服はもちろん胸の谷間がバッチリと見え、ヒップラインもしっかりわかるタイトなミニスカートだ。女の井上凛だって一瞬、目が釘つけになっていた。

 初日の会議は就業時間までみっちりと行われた。会議終了後、何人かで居酒屋に行こうということになり、奈津も井上凛も参加する事になった。当然、言い出しっぺはニノである。その横に中島佳代も張り付いていた。中島佳代のバストが、ニノの腕に触れるか触れないかのなんとも艶かしい距離感を保っていた。予約していた居酒屋に着くと、ちゃっかりニノの横に中島佳代が座り、男性陣はなんとなく皆、中島佳代よりに身を置いていた。

 お酒が進んでくると、無礼講タイムになり、中島佳代の周りには東京から来た男性社員が数人群がっていた。

「あの人、フェロモン撒き散らしてるね」

 そう言って井上凛は呆れ顔で奈津に話しかけてきた。

「中島先輩はとても色気のある人だなと思います」

「男性陣はああいうのに結局弱いのよね。飲みましょう、久保田さん」

 井上凛は今しがた注文した熱燗を奈津のお猪口に注いだ。今日は日本酒は飲まないと誓ったが、断れなかった。居酒屋に入る前に進藤から『飲み過ぎに気をつけろよ。特に日本酒は駄目』とメールが入っていた。井上凛も結構いける口のようで、話が弾んだことものあり、二人して結構な量を飲んだ。お開きとなり店の外に出ると、まだ飲み足らないのか何人かは次の店へと散って行った。宴会部長のニノもいつの間にか消えていた。中島佳代も…。井上凛は他のスタッフと今夜泊まるホテルへ帰るためタクシーに乗り込み、奈津に手を振り消えて行った。一人とり残され、奈津の周りは急に静かになった。一人に慣れている奈津だったがなぜかとても寂しかった。


「進藤、なんとか順調に行きそうだな」

「澤田先輩のお力のおかげですよ」

「俺の力なんかじゃない。本当に進藤は凄いよ。最後まで気を抜かずにいこうぜ。それにしても、ここの料理は美味いな。女将も美人ときてるし、いい店じゃないか」

「先輩、女将は口説いてもだめですよ」

「やだわ、圭ちゃんたら。魅力ある男性には私だって弱いんですよ。澤田さんっておっしゃるんですか、どうぞ」

 そう言って茉姫の女将が澤田にお酒を注いだ。

「女将も、ほら」

「それじゃ、いただきます」 

 お猪口に注がれたお酒を飲み干した。

「そういえば、今日は奈津さんは?」

「他のメンバーと居酒屋に行ってるよ」

「奈津さん、大丈夫かしらね。威勢がいいから…」

 女将は進藤圭太の顔をチラッと見て言ったが、すぐに奥へと消えて行った。

「なつって久保田奈津のことか?」

「ええ、まぁ」

「世間擦れしてないというか、純粋そうで可愛い子だな」

 進藤はそれ以上奈津のことには答えなかった。

「先輩、ちょっとトイレ」

 そう言って進藤は席をたった。用を足してすぐにスマホを開いた。進藤が送ったラインは既読になっていたが奈津からの返信はなかった。席に戻ると澤田がお会計を済ませる所だった。

「先輩、ここは僕が払いますよ」

「俺に払わせろ」

「ありがとうございます」

 進藤は素直にお礼を言い、店を出た。大通りでタクシーを拾い澤田を乗せて運転手に行先を告げ、そこで別れた。進藤圭太は久保田奈津のことを考えていた。

 

 奈津は飲みすぎたことを反省した。真っ直ぐ歩こうと思っても右へ左へと足が勝手に行ってしまう。同じように蛇行して歩いて来るサラリーマンと目があった。幅の広い歩道にも関わらずお互いぶつかる事を阻止できなかった。酔っ払いとは変な行動をするものだがそこには意思はないのである。

「しゅみません」

 奈津はろれつが回っていなかった。ぶつかった拍子にサラリーマンが尻餅をついた。起こしてあげたいのはやまやまだったが奈津には無理だった。頭を下げその場を去った。少し歩いた所に自販機を見つけお水を買った。一気に飲み干し、少し酔いが覚めたように思ったが、立ち上がると世界が回っていて、それ以上は歩けなかった。タクシーに乗って帰りたい誘惑にかられたが、そんな贅沢をしたらたちまち窮地に追いやられる事は目に見えている。終電まではまだ一時間半はある。奈津は目の前のベンチに腰を下ろした。ふっとスマホを取り出し進藤圭太からきたメールを見た。「部長…、会いたい」一人がこんなに寂しいと思った事は今までなかったように思う。人を好きになると寂しさが増すのかもしれない。その時、電話の着信音が鳴り思わずスマホを落としそうになった。『進藤部長』画面に表示された。奈津は急いで電話に出た。

「部長」

 奈津は涙が出そうになるのを堪えた。

「なっちゃん、大丈夫か?」

 進藤圭太の声が何故か懐かしく、切なかった。

「逢いたいです」

 無意識に出た、その言葉がどんなに大胆な言葉であったのかに気付くのに時間はかからなかった。

「すいません、おやす…」

 おやすみなさいの『み』の言葉を進藤圭太が遮った。

「今、どこ? 直ぐに行く。そこで待ってて」

 進藤圭太は奈津の『逢いたい』という言葉を聞いた瞬間に何かが弾ける心の音を聞いた。そして、奈津の元へ駆け出していた。

 奈津の今いる場所は、進藤のいる場所から大通りを渡った反対側だった。進藤圭太は約一キロの距離を猛ダッシュで走った。スポーツ万能な進藤でも、これほど夢中で走ったのは随分昔のことだ。遠くにベンチの上で小さく丸まっている奈津を見つけ、さらにスピードアップした。

「なっちゃん!」

 頭を上げると、息を切らした進藤圭太の顔が奈津を覗き込んでいた。

「進藤部長」

 奈津は悲しくもないのに泣きながら、進藤圭太に抱きついた。進藤は奈津を抱き上げ涙を手で拭いてやった。

「部長のことを思うとここのところが苦しくて、苦しくて…」

 奈津が胸を押さえて言った。そんな奈津を進藤は愛おしく思い、自分の感情をこれ以上抑えることは出来なかった。小柄な体をさらに小さくして震えている奈津を進藤は自分の胸に引き寄せた。進藤は奈津の体温を感じ、奈津は進藤の胸で心地よい温かさに包まれ、ようやく気持ちを落ち着かせた。

「部長、ごめんなさい」

 そう言った奈津が進藤の胸から離れようとした、その時、進藤は奈津をもう一度引き寄せ、奈津の小さな唇に自分の唇を重ねた。奈津にとって初めてのキスだった。

「なっちゃん、俺でいいのか?」

「……部長じゃなきゃ駄目なんです」 

 その言葉を聞いて進藤はもう一度、キスをした。前よりも深く…。


 遠くで奈津を呼ぶ声が聞こえてきた。でも奈津を包む心地よい温もりが、その声さえも子守唄のように眠りを誘い、現実の世界と夢の世界を行ったり来たりさせた。

「奈津! 起きないと…」

 急にその声が大きくなって、奈津を眠りから呼び起こした。しばらく状況が飲み込めずにいた奈津だったが、昨夜の事が鮮明に思い出され、進藤の顔をチラッと見て直ぐに布団の中に潜り込んだ。進藤は奈津の頭におはようのキスをした。

「起きてシャワーしておいで。家まで車で送って行くから」

 スマホの時計を見ると朝の五時だった。今日は木曜日、つまりは会社のある日。そして、昨日に引き続き会議のある日だった。そして、ここは進藤圭太の住むマンションの一室である。奈津は散乱した自分の下着を布団の中から手繰り寄せ、シーツを体に巻き付けって起き上がった。そんな奈津を進藤圭太はジッと見ていた。

 奈津の住むアパートの前で進藤は奈津を降ろした。車から出ようとする奈津の腕を引き寄せ軽くキスをした。

「奈津、遅刻するなよ」

「はい。部長」

「二人だけの時は部長はおかしいだろ。じゃあ、会社で」

 奈津は走り去って行く進藤の車が見えなくなるまで手を振った。

 進藤圭太は運転する車の中で、昨夜のことを思い返していた。奈津にとって、初めての男は俺だった。壊れない様に大切に大切に奈津の体を抱いた。まだ、何も知らない奈津の体が少しづつ、進藤に身を任せるようになり、体に馴染んでいった。

 奈津は急いで出勤の準備をして家を出た。満員電車の中で進藤圭太との事を思い出していた。まだ火照っている体が昨日までの自分とは違う事を教えていた。奈津にとって初めての男性だった。進藤圭太と繋がったのに、すでに進藤が恋しくて仕方がない。進藤が今朝、別れ際に『部長』はおかしいと言った。けど、なんて呼べばいいのだろう。『進藤さん? 圭太さん? 圭太? それとも圭ちゃん?』わからない。そう言えば、進藤圭太は奈津のことを『なっちゃん』ではなく、『奈津』と呼び捨てしていた。それは、奈津にとって特別な人になった実感をもたらしていた。

 

「……ということで一ヶ月後、先に言った十人には私と一緒にスリランカに異動してもらう。各人追ってメールで連絡をするので段取りをしてください。期間は一年から二年。何か質問は?」

 進藤圭太の問い掛けに、今朝から青ざめて顔で両手首に包帯を巻いたニノがお尻を宙に浮かせた状態で手を上げた。

「二宮、なんだ?」

「それって行きっぱなしですか?」

「基本的にはそうなるが、三ヶ月から四ヶ月に一回長期休暇を出す予定だ。会社の過渡期だから、皆んなの力を貸してくれ」

 そう言って進藤圭太は社員に頭を下げた。奈津は進藤が二年、スリランカへ行ってしまうことを何か他人事にように聞いていた。

「久保田さん、今晩二人でどう?」

「はい。私はいいですが、二宮さん達はいいんですか?」

「いいの、いいの。ニノ、中島さんとやっちゃったらしいわよ」

 奈津は無言になった。中島佳代といえば社内でも激しい性癖をもっていると有名だ。ニノも毒牙にやられたということなのか。

「朝から、ひどく疲れた顔をしているのに、ニヤニヤしてたから問い詰めてやったのよ。そしたら、白状したんだけど、中島さんと余程相性というか、あっちの具合がマッチしたんだって」

「そ、そうなんですか」

 井上凛は中島佳代の裏の顔を知らない。もちろん奈津だって知らないのだが噂が本当なら、ニノも中島佳代の前であられもな姿をさらけ出し、その姿は中島のスマホをに収められコレクションの一枚になっているはずだ。男女の秘め事には様々な趣味趣向があり、そして形があるのだ。二人が良ければどのようにな形でもいいのかもしれない。奈津は昨日の進藤との事を思い出して、一人顔を赤くしていた。

「奈津さん、いらっしゃい。あら、今日は綺麗なお嬢さんとご一緒?」

「女将さん、井上凛先輩です。東京本社から、会議でこちらに来てるんです」

「そしたら、昨日圭ちゃんと一緒に来ていた澤田さんとご一緒に…」

「はい、そうです」

「何を飲まれますか?」

「何にしようかな」

 井上凛はお品書きに目を落とした。

「奈津さんはいつものになさいます?」

「はい」

「いつものって何?」

「ぶ酎ハイって言って、四国の柑橘系の酎ハイです」

「じゃぁ、私もいつもので」

「ぶ酎ハイを二つね」

「久保田さん、いい店だね。よく来るの?」

「時々、っていうか、ここしか店は知らないんです」

「進藤部長と来るんでしょう?」

 奈津は聞こえないフリをした。

「久保田さん、昨日あれから何かあった? なんだか、昨日と随分雰囲気が変わったなと思って」

 井上凛は奈津を舐め回すように上から下まで観察した。

「何もないです、先輩」

「私、感だけは鋭いのよね。まぁいいわ」

 カウンターにぶ酎ハイと一品が運ばれてきた。

「おまちどうさま」

「久保田さん、取り敢えず、カンパーイ」

 グラスが鳴った。

「うーん、美味しい」

 井上凛は豪快にぶ酎ハイを飲んだ。

「奈津さん、今日はどて焼きがおすすめよ」

「じゃぁ、それと、女将さん特製サラダと湯豆腐も」

「あら奈津さん、何かいいことでもあったでしょう?」

「女将さんもそう思います?」

「なんだろう、いつもと少し雰囲気が違うというか、色っぽく感じるというか…。いやだ、ごめんなさい。今すぐにお料理お持ちしますね」

 奈津はトイレに駆け込んで、気持ちを落ち着かせた。目の前の鏡に映る自分の顔を見ると、真っ赤になっていた。なんて、わかりやすい人間なんだ、私は…。席に戻ると、井上凛と女将が楽しげに話をしていた。

「奈津さん、はいおしぼり」

「ありがとうございます」

「今ね、圭ちゃんの話をしていたのよ。圭ちゃんってあれだけイケメンで背も高くて仕事もできるのに浮いた話はないわねって」

「でも、進藤部長、東京に異動になる前好きな人がいたみたいですよ。何を聞いても教えてくれないので、はっきりは知りませんが」

「片山舞さんのことね」

「女将さん知ってるんですか?」

「まぁ。古い付き合いだからね。でも、済んだ過去のことよ。今は、女っ気ゼロみたいだしね。勿体無いわ。いやだ、私ったら余計な事を…。ゆっくりしていって頂戴ね」

 そう言うと女将は座敷の客の所へと消えて行った。奈津の頭の中は会ったこともない片山舞の事でいっぱいだった。井上凛は、止めどもなく自分の事を話続けたが、奈津は上の空で返事をするだけで、内容は全く入ってこなかった。いつの間にかお酒は日本酒に変わっていて、井上凛がお猪口に注ぐお酒をひたすら奈津は飲んだ。井上凛もかなりの量を飲んでいる。すでに、ろれつが回っていない。

 女将が冷たい水をコップに入れて持ってきた。「お二人さん、お酒はもうその辺にしておいてください。お水をのんで落ち着いて。茉姫特製豆乳リゾットを作るから、それを食べてお帰りなさい。明日も仕事でしょ?」

「はーい、女将さん」 

 と元気よく手を上げたのは井上凛だった。

 奈津と井上凛はお互いを支えてあいながら表通りまで歩いた。凛は手を上げてタクシーを拾い、奈津に手を振って別れてた。奈津はタクシーが見えなくなるまで見送った。女将が言った『片山舞』の事が頭から離れなかった。済んだ過去のこととはわかっていても気持ちがモヤモヤしてしまう。私ってなんて幼稚なんだろう。いい女にならないと部長に嫌われる。奈津はブツブツと独り言を言った。それにしても、今日も飲んでしまった。足元が覚束ない。酔っ払いとは面倒臭いのだ。色んな酔っ払いがいる。自分の自慢ばかり披露する人、やたらとハイになってうるさい人、泣きじゃくる人、怒り出す人、いずれにしても素面の人から見たら、面倒な生き物なはずだ。奈津は、酔っ払うと人恋しくなり、寂しさが増すことを進藤圭太とお酒を交わすようになってから知った。人の温もりが欲しくなるのだ。その人は誰でもいいわけではない。奈津にとってのその人は進藤圭太だ。奈津は誰も居ない部屋に向かってフラフラと夜道を一人、歩いた。何度も立ち止まり、進藤のラインに『逢いたい』の文字を送ろうとしてはやめた。

 あかりの消えた奈津の部屋が遠くに見てきた。すると、誰かが奈津に向かって駆けてきた。

「奈津」

 それは進藤圭太だった。進藤はデニムのパンツに黒のVネックの長袖Tシャツ、その上に洒落たジャケットを着ていた。会社で見るスーツ姿も格好良いが、又違う進藤の良さがあった。部長と言いかけた奈津だったが「圭太さん」と呼んでみた。進藤圭太は奈津を自分の胸に抱き寄せた。

「又、酔ってるじゃないか」

「ごめんなさい。井上先輩と飲んでました」

「茉姫の女将からメールをもらったんだ。奈津が随分と飲んでたから大丈夫かって」

「それで、ここに?」

「心配でじっとしてられなかった」

「圭太さん!」

 奈津は嬉しさのあまり進藤圭太の首に抱きついた。

 殺風景な奈津の部屋のベッドの上に進藤圭太がお土産に買ってきたカラフルな生地で作られた象のぬいぐるみが置かれていた。象の首には可愛いリボンが結ばれていた。ベットの上で小さくなっている奈津を進藤は抱きしめ唇を重ねた。進藤の体に馴染むのにそれほど時間はかからなかった。奈津が「アッ」と消え入りそうな声で言ったのを進藤は確かに聞いた。日付は次の日を刻んでいた。 

 

「……三日間、お疲れ様でした」

 そう言うと進藤圭太は深々と皆に頭を下げた。その後、東京陣は新大阪、午後六時二十六分発ののぞみに乗って大阪を後にした。ホームの柱の影で中島佳代がニノに抱きついていた。その目からは、女王様の威厳はなく、乙女のように涙が浮かんでいた。井上凛は進藤に礼を述べた後、奈津のところへ駆け寄ってきた。

「なっちゃん、あなたは自分が本当に好きな人と一緒になりなさいよ。離しちゃ駄目よ」

 と言うなり新幹線に乗り込んだ。井上凛に何もかも見透かされていると奈津は感じた。以前に「私は親が決めた人と結婚する」と言っていた事が思い出された。奈津は井上凛にはちゃんと娘の幸せを願い、心配してくれる両親がいる事を羨ましく思っていたが、何故か、今は井上凛が可愛そうに思えている。不思議だ。

「奈津、お疲れ様」

「お疲れ様です」

「茉姫でも、どうだ?」

「はい。喜んで」

 ホームを降りる階段に差し掛かると、進藤圭太が奈津の手を握ってきた。奈津はその手から伝わる体温をしっかり受けとめ、進藤の手を強く握りかえした。

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