五章 プロジェクトチーム

 奈津が社会人になり一年が経った。大学出たての新入社員が奈津の部署に五人配属になった。一年前の自分はみんなにどの様に写っていたのだろか?社会人と言ってもまだまだ中身は学生だ。なんと頼りないことか。今更ながら先輩社員の皆様に感謝だ。もちろんSM女王様・中島佳代にもだ。中島がいなければ進藤とは、ただの上司と部下の間柄だった。二人は深い関係になったわけではないが、これまでと違った信頼関係が築かれていた。少なくとも久保田奈津にとって進藤圭太は特別な人だった。

 ある日、奈津を含めた七人の社員が進藤に呼ばれ、第三会議室に集められた。そこには開発部からも七人の社員が集められていた。

「みんな、好きな所に掛けてくれ。今日は、開発部と営業部からそれぞれ七人計十四人集まってもらっている。実は、現在栃木県にある生産ラインを海外に移す計画がある。そこで語学力と普段の仕事振りを基準にして皆さんを選ばせてもらいました。東京本社から三十人が加わりプロジェクトチームを組みます。

 もちろん、海外出張もあります。何ヶ月も滞在してもらうこともあります。正式に発表するのは三ヶ月後です。今月末迄に辞退したい人は私、進藤まで連絡してください。受けてもらえる方は現在の仕事を振り分けていかなくてはなりませんので、新人社員を育てつつ、各々検討しておいてください。詳しい内容は社内メールで各人に送らせてもらいます。それでは、質問のある方?」

 何人かの社員が進藤に質問を投げかけていたが、久保田奈津は何を質問したら良いのかさえ分からなかった。

「それでは、今日はこれで解散です。それぞれの仕事に戻ってください。お疲れさまでした」

 奈津は会議室の片付けをして、最後に部屋を出た。その時、進藤に呼び止められた。

「今晩、食事でもどうだ? 仕事の事で話がしたい」

「はい。茉姫さんの所ですね」

「僕は少し開発部の部長と話があるので三十分ほど遅くなると思うから、先に好きな物、食べといてくれ。飲みすぎるなよ」

 奈津は舌をだして応えた。 

 

「いらっしゃいませ。あら、奈津さん今日はお一人?」

「いえ、後から進藤部長が来られます」

「じゃ、いつものお席へどうぞ」

 奈津はほぼ指定のようになっているカウンターの一番左側の席に座った。それと同時ぐらいに店の扉が開いて男の客が一人入って来た。

「やだ、安倍ちゃんじゃない。一年振りかしらん?」

「女将、幾つになっても美人だね」

「からかわないで下さいな。今日は圭ちゃんと待ち合わせ?」

「いや。あいつ、来てるのか?」

「大阪に帰って来てからちょこちょこと。今日もあちらの可愛い方とお待ち合わせですよ」

「気まずいなぁ」

「いい大人が何言ってるの。もう、終わったことでしょう。さぁ、此処へ座って」

 そう言って進藤の席を一つ開けた横に安倍泰治を座らせた。

「ところで、お子さんは大きくなった?」

「十才だよ。今日は妻が子供を連れて実家に帰ってるから此処へ来れたんだよ。子供ができてからというもの、妻が飲みに行く時間があるなら美弥の勉強をみてやれとうるさいんだよ。中学受験をさせるって張り切ってる」

「安倍ちゃんも子供ができたら変わるのね。何にします?」

「生ビールで」

「奈津さんはいつものでいい?」

 今、奈津のお気に入りのお酒は『ぶ酎ハイ』だ。四国の仏手柑というユズやスダチの仲間の柑橘系のお酒だ。土佐では酢みかんの王様と言われている。

「はい、それでお願いします」

 安倍泰治は奈津の顔を覗いてきた。

「君、我が社の新人さんだよね」

 安倍泰治の事は社内で何度か見かけた事があった。

「はい。でも新人ではありません。入社して一年が経ちました。今は、進藤部長の下で働かせていただいてます。久保田奈津ともうします」

「今は勤務時間外だ。気を使わなくていいからね」

「はい。ありがとうございます」

 奈津は『ぶ酎ハイ』をグッと飲んだ。

「うーー、きくーー」

「久保田さん、美味そうに飲むね」

 そう言って安倍泰治はゲラゲラと笑い出した。

「安倍ちゃん、失礼よ」

「ごめん、ごめん。でも、こんなに愛らしい子がおっさんみたいな事を言うから、ギャップが可笑しくて」

 なんだか、奈津も可笑しくなって一緒に笑った。カウンターの中の女将も目頭を押さえながら笑っていた。そこへ進藤圭太が店に入ってきた。

「遅くなってごめん、なっちゃん。店の外まで笑い声がきこえてたよ。何か面白い事でもあった?」

 そう言って進藤は奈津の横の席についた。女将に生ビールを頼んだ視線の先を見て、一瞬進藤は動きを止めた。 

「進藤、久しぶり。本当はもっと早くに挨拶に行かないといけなかったんだが、どうしてもお前の顔をみるのが後ろめたくて。すまない」

「先輩。僕の方から挨拶に伺わなくてならなかったのに申し訳けございません」

「二人共、これで仲直りね。過去は過去よ。今が良ければいいんじゃない?」 

 そう言って、女将が二人の間を取り持ってくれた。過ぎた話ではあったが、進藤圭太にとっては苦い思い出だった。

 

『六月末をもって、

 人事部の高森千里さんが退職』

 社内報に載ったのは五月一日の事だった。

「ねぇ、見た?」

 そう聞いてきたのは片岡舞と同じ部署の先輩だった。

「何をですか?」

「社内報よ。人事部のやり手のキャリアウーマン高森千里が退職するらしいよ。結婚するんだって。永遠の処女と噂されてたので、高森千里に射止められた男は誰かってみんな言ってるよ」

「そうなんですか?」

「相手はうちの会社の人らしい!」

 高森千里は今年四十才だ。女の四十才といえば子供を産めるギリギりの年齢だ。女の結婚適齢期は年々上がってきているが、子供を産むとなると早いに越した事はない。片岡舞は現在二十五才。学生時代の友達の半分は結婚している。子どもだって二人目という友達もいる。舞も二十八才迄には結婚したいと漠然と考えている。安倍泰治はどう思っているのだろうか?そんな話は一度も二人の間で話題に上がった事はなかった。それよりも、此処の所、二人で出かける事がめっきりなくなって唯一、ラインだけで繋がっている状態だ。三日前の金曜日、久しぶりにご飯を食べに行ったが、何処か上の空だった。「体調が悪い」と言って早々に別れた。昼休憩の時、片岡舞の携帯にラインが入った。

「今晩、空いてる?話があるんだ」

「いいよ。どこ行く?」

「舞の好きなところを予約しておいて。出来たら個室がいいんだけど」

「了解!探してみる」

 なんで個室なんだろう。よほど大事な話があるんだろうか? もしかして、プロポーズだったりして…。自然と笑みが溢れた。プロポーズされたらもちろんオッケーだ。断る理由なんて何もない。結婚式は教会? それともおごそかに神社? 誰を招待しようか? その日、舞はずっと浮かれた状態だった。 

 片岡舞は夜景が見える個室の部屋を予約した。料理は和とフレンチがコラボした創作料理だった。  

 店には舞が先に着いた。すぐに安倍泰治が額から汗を流しながらやって来た。

「すまない。待った?」

「私も今着いたところ。ここ、ワインもいいんだど全国の日本酒も取り揃えているらしいよ。何にする?」

「いや。今日はお酒はやめておく」

「体調悪い?」

「…。食事が終わったら大事な話があるから」

「じゃ、私も今日はやめておくね」

 舞はガチガチに固まった安倍泰治を見て、こんなに緊張しちゃって意外に真面目というか、小心者というか、どんな風にプロポーズの言葉を言ってくるのかを期待した。可愛い器に載せられた料理を味わいながら、舞は安倍泰治に話かけたが泰治は適当に相槌を打つだけだった。料理も一口二口食べてはお箸を置いた。今からこんなだったら私の親に挨拶に来る時は心臓発作で倒れてしまうんじゃないかしらと嬉しい心配を舞はしていた。

 最後の料理が運ばれてきた。洋梨のコンポートだった。ワインのかわりに日本酒で煮立ている絶品のお味だった。 

「ふー。お腹一杯。たいちゃんご馳走様」

 突然、安倍泰治が床にひざまざまづいた。

「舞。すまない。俺と別れてくれ」

 舞はまさかの展開に事態が把握できなかった。今いる、三十一階の場所から地面に叩きつけられたような感覚を覚えた。

「たいちゃん、どう言う意味?」 

 プロポーズされるものと思い込んでいたので、安倍泰治の言葉が飲み込めないでいた。

「実は、舞を裏切っていたんだ。つい魔がさしたというか、勢いというか、妊娠させてしまったんだ」

「ちょっと待って。浮気したって事?妊娠って、誰が?」

「…」

 安倍泰治は床に頭を擦り付けたまま、何も答えようしなかった。

「顔を上げて。ちゃんと説明して! 私の事がいやだったの?」

 舞は、ようやく自分の置かれている状況が最悪である事を悟った。

「舞の事は心の底から好きだった。いや、今も好きだ。すまない」

「ならなぜなの? 相手は誰? 私の知ってる人?」

「たかもり…ち…さ……」 

 最後の『と』は消え入りそうな声で聞き取れなかった。舞は地面から地球の奥深いところまで更に突き落された。今朝、社内報で退職者のところに載っていた人物だ。先輩が永遠の処女、四十才、相手は社内の人と他人事のように聞いていた舞だったが、この変わり様は何? 安倍泰治はここに至った経緯を話し出した。

 四ヶ月前、安倍泰治は会社から五分くらい歩いたところにある行きつけの喫茶店にいた。そこでマスターがサイホォンで入れるコーヒーを飲みながら、まったりとした時間を過ごしていた。近くにはスタバもあるのだが、安倍泰治はここの昭和チックな雰囲気が好きで時々来ていた。その時、携帯の着信を知らせる音が鳴り、ポケットからスマホを取り出した。ところが、安倍のスマホには着信はなかった。でも、すぐ近くで振動もしていてたので椅子から立ち上がりキョロキョロと周りを見渡した。すると、向かいの椅子の上で携帯が鳴っていた。画面を見ると十八件の着信が表示されていた。これは、持ち主からの電話だと確信をした安倍泰治は電話にでた。

「すみません。携帯の持ち主なんですが…」「あっ、はい」

「どこに落としていたでしょうか」

「待ちぼうけと言う喫茶店です」

「すぐに取りに行きますのでお店のマスターに渡しておいてもらえますか」

「いいですけど、この喫茶店六時半に閉店ですよ」

「…」

「どれくらいで、こちらに来られます?」

「タクシーで行きますので三十分くらい」

「僕、駅前の居酒屋大将という店で飲んでますので、電車でゆっくり来てください。そこ、カウンターだけの店なので、来られたら安倍と言ってください」

「すみません。ご予定があったのではないですか? 出来るだけ早く行きます。私、高森千里といいます」

 高森千里が現れたのは、安倍泰治が三杯目の焼酎をおかわりしたときだった。

「あの、私、高森といいますが、安倍さんという…」と言いかけた時

「高森さん、こっち、こっち」

「安倍さんですか? 今日はすみませんでした」

「これね、はい」安倍泰治は携帯を渡した。

「本当にありがとうございます。助かりました。あのー。何かお礼をしたいのですが…」

「そんなの気にしなくていいよ。あれ、そのバッチ、もしかして同じ職場?」

「はい。人事部の高森です。お名前聞いた時営業部の安倍さんかと思ってました」

「奇遇だなぁ。これから予定ある? なかったらお礼はいいから、一杯つきあってくれよ」

 これが、安倍泰治と高森千里の出逢いだった。その後、泥酔した安倍泰治を高森が介抱し、家まで送ってもらったが勢いでやってしまった。高森千里は三十九才にして、初めて男を知った。彼女は安倍に夢中になり、これで終わりとその度に決心をした安倍泰治だったが、五回目のベッドインの後、高森千里が妊娠したと言ってきたのだ。安倍にしたらちょっとした浮気心だったが、彼女にしたら結婚も妊娠も最後のチャンスだった。「私、産みたい。堕すなんて絶対いや」と泣き叫ばれた。あやふやな気持ちのまま、時間だけが虚しく過ぎていき、もはや後戻り出来ない事態になったのであった。

 片山舞は、涙を流す事も言葉を発する事も忘れて、呆然と安倍泰治の話を他人事の様に聞いた。

「わかった」

 舞はこの一言だけを言って、その場を去った。それから、一週間後、永遠の処女伝説を破ったのは安倍泰治だと社内中に広がったが、三ヶ月後には日常の中に吸収され誰も口にしなくなった。

 片山舞が辞表を提出したのは、それから六ヶ月後のことだった。 

 進藤はその頃、東京本社で毎日、仕事に奮闘していた。安倍泰治が高森千里と結婚したことは社内報で知っていた。舞の事が気になりつつも何もしてあげるこが出来ない自分に歯痒さを感じていたが、今は目の前の仕事をこなして行くことをで気を紛らせていた。舞がラインで会社を辞めると連絡をよこしてきたのは、辞める一ヶ月前の事だった。

『進藤君、元気にしてる? 

 東京生活には慣れた?

 進藤君、きっと活躍してるんだろうなぁ。入社した頃が懐かしいよ。

 また、一緒に仕事が出来ればいいなぁと思ってたけど、私、会社辞めることにした』

 舞の事を抱きしめてやりたい。進藤は安倍から舞への気持ちを聞かされた時に「俺も舞の事が好きだ。先輩には渡さない」と言えなかった事を後悔した。俺だったら舞を悲しませるような事は絶対にしなかった。この煮えくりかえる思いを安倍泰治にぶつけずにはいられなかった。その週末、進藤圭太は大阪行きの新幹線の中にいた。新大阪駅に着いてすぐに安倍泰治の携帯に電話をした。

「先輩、進藤です。今、新大阪に着いたのですが、今から先輩の家に行っていいですか?」

「いやぁ、家はちょっと…」

「それじゃ、近くまで行きます」

「俺がそっちへ行く。会社の近くに洋食屋クレーでどうだ」

「わかりました」

 電話の向こうに誰かがいるのがわかった。その事が進藤をヒートアップさせた。

「何になさいます?」

「オムライスをお願いします」

 扉につけている鈴がカランコロンとなった。

「進藤、久しぶり。帰ってくるなら、前もって言ってくれたらいいのに。えっと俺は焼きそば定食で」

「…」

「で、どうなんだ、東京は?」

「忙しくやってます」

 進藤のつっけんどんな言い方に安倍泰治は嫌な予感がした。

「先輩。高森千里さんと結婚したんですよね。おめでとうございます」

「ありがとう…」

「先輩は舞さんを傷つけておいて、よくものうのうとしてますね。舞さんから退職するってメールをもらった時、先輩の顔が浮かびましたよ。今日は、先輩をぶん殴りにきたんです。舞さんの代わりに!」

「進藤、落ち着いてくれ。俺だって、悩みに悩んだんだ。けど、泣きながら産みたいと言われるものを勝手にしろとはいくらチャランポランな俺でも言えないだろう。舞の事は好きだった。いや、今でも好きだ。でも、仕方がないんだよ」

「舞さん、なんて言ってました?」

「わかったってその一言だけ言った。それからは話もしていない。辞めるって知ったのも社内報でみたからだ」

 その時の舞の気持ちを考えると、進藤には気持ちを抑える事は到底無理だった。

「先輩、外に出てもらえます!」

 二人は洋食屋クレーの外へ出た。するといきなり進藤が安倍に渾身のパチンをプレゼントした。

「これは、俺からの結婚祝いです。軽蔑します」

 そう言って進藤は安倍に背を向け走り去った。

 

「進藤、一杯注がしてくれ」

「圭ちゃん、許してあげなさい。これは私の奢り。さぁ」

 そう言って女将は進藤圭太と安倍泰治に杯を渡した。二人は無言で杯を交わした。

「女将、今日は帰るわ。勘定してくれ。進藤、連絡するから、飲むのを付き合ってくれ。頼む」

「わかりました。過去の事は忘れます」 

「ありがとう、進藤」

「安倍ちゃん、よかったわね」

 安倍泰治は勘定を済ませ茉姫を後にした。

「なっちゃん、ごめんね」

「いえ」

「昔、色々あってね。先輩をぶん殴った事があったんだよ。それ以来、会うどころか話すらしてなくてね」

「進藤部長が人を殴るんですか?信じられません」

「若かったんだよ。頭に血が上ってつい…。今の話は忘れてくれ。女将、なっちゃんに何か出してやってくれ」

 久保田奈津が横目で進藤圭太の顔を覗くと目の前の一品に目をやっていたが、どこか遠くを見ているようだった。

「部長、今日のプロジェクトのことですが、私に務まるのでしょうか?」

「大丈夫。なっちゃんほど優秀な人材はいないんだよ。自分に与えられた目の前の仕事をこなすのは当たり前のことだが、その先の展開を予測できる人間はそんなに沢山いるわけではない。それに、相手の立場になって物事を考える人間も沢山いるわけではない。そこのところをかって、なっちゃんを推薦したんだよ」

「部長…」

「心配しなくても、俺がついているから何でも聞いてこい」

「はい!」

 奈津は不安と同時に進藤とこれから始まる新しいプロジェクトに胸が弾んだ。

 

 進藤圭太は最後に片山舞会った時の事を思い出していた。

「片山? 進藤です」

「進藤君。どうしたの?」

「いや、実は今、大阪に来てるんです。少しでもいいので時間ありますか?」

「引越し業者が二時にくるので、それ以降なら」

「じゃ、三時ごろどうです? 家の近くまでいきます」

「それじゃ、福島駅を降りて二、三分のところにジャスミンって言う喫茶店があるので、そこでもいい?」

「了解。後で」

 進藤圭太は片山舞に会って、何を話せばいいのだろうと考えた。待ち合わせまで二時間以上ある。その間に気持ちを落ち着かせて考えようと思った。しかし、会うためにの理由が欲しい。進藤は片山舞に何か記念になるものをプレゼントする事を思いついた。大阪駅の百貨店に入り、品定めをしたがこれがまた、意外にも選ぶのは至難の技だった。散々、悩んだあげく店員さんに聞いてマグカップとソープフラワーに決めた。「今日は大阪に用事があってきた。ついでと言ったら失礼かもしれないが、餞別を渡したいと思って連絡した」これでいこうと進藤は独り肯いた。

 ジャスミンという喫茶店はすぐにわかった。中に入るとコーヒー豆を挽いた何とも言えない良い香りがした。窓際のテーブル席に座ると若いアルバイトらしき女の子がおしぼりと水をもってきて注文を聞いた。

「ホットコーヒーを」

 蝶ネクタイを付けた高齢のマスターがアルコールランプに火を入れサイフォンでコーヒーをたてだした。お洒落なカフェはたくさんあるが、最近ではコーヒーは機械が作ってくれる。だから、このサイフォンはとても懐かしい気持ちにさせてくれた。窓の外を見ると片山舞がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。舞が気付いたのか手を振っている。進藤も手を振った。

「進藤君、お待たせ。ごめんね。こんなところまで…」

「用事が早く済んで、後は暇だったから」

「あれ、どうしたの右手? 赤くなってる。喧嘩でもしたの?」

「ちょっと…。壁にぶつけたんだ」

「キズテープがあるから、貼ってあげる」

 そう言って片山舞は進藤圭太の赤く血が滲み出た右手にテープを貼った。舞が触れた手を思わず握りしめたい衝動に駆られたが、グッと堪えた。

「これ、餞別。片山、引越しするのか?」

「うん。実家に帰る事にした。親が結婚しろってうるさいのよ。だから、お見合いをすることにした」

「…」

「やだ、そんな顔しないで。私、いい男見つけて幸せになるんだから…」

 片山舞は笑って見せたが、目からは涙が流れていた。

「いつ、引越しするんだ?」 

「明後日。会社は有給消化してるから、もう会社には行かないけど」

「片山の実家って、確か熊本だったよな」

「うん」

「本当に帰るのか?」

「うん」

「それでいいのか?」

「うん」

「帰るなよ! 大阪にいろよ! 俺といろよ!」

「進藤君…」

「俺はお前が好きだ! ずっと好きだったんだ。安倍先輩と幸せそうにしてる片山を見て、俺は諦めていた。お俺は片山を幸せにできるかどうかはわからないが、悲しませるような事は絶対しない。返事をくれとは言わないが、この思いだけは伝えたかったんだ」

 片山舞は進藤の目を真っ直ぐに見据え、長い沈黙の後、答えた。

「進藤君。ありがとう。でも、今は進藤君の気持ちには応えられない。たいちゃん、いえ、安倍さんとのことが、今だに整理が付いてなくて…。だから、ここを離れて一から出直したいの」

 舞の置かれている状況を理解せず、自分の思いだけをぶつけてしまったことを進藤は反省した。

「ごめんよ。片山を惑わすようなことを言って。でも、これだけは覚えていて欲しい。片山の幸せをこの世で一番願っているのは俺だ」

「進藤君…」

 

 引越し当日は、朝から雨が降っていた。進藤圭太は東京本社にいつもと変わらず八時二十分に出社した。デスクの上の書類の整理をして、ひと段落したところで時計を見ると十時半だった。片山舞は、もう出発しただろう。東京から大阪までは500キロ。熊本までは1200キロ。どんどん離れていく舞を全速力で追いかけても、到底追いつかない。

「俺は、本当に馬鹿だ」

 進藤圭太は思わず机を叩いていた。

「進藤課長?何かミスでも?」

 そう聞いてきたのは、進藤のすぐ斜め前にデスクのある井上凛だった。井上凛は今年入社してきたルーキーだ。

「何でもない」

「でも、課長。朝から怖い顔してますよ。何かあったんじゃないですか?失恋したとか? 凛、よかったら聞きますよ」

 井上凛は成績は優秀だが、一般常識はない。

 新人研修の時、ことごとく指導されたが、習慣となっていることは中々直らない。その一つが自分のことを『私』ではなく『凛』と呼ぶ事だ。進藤も最初は注意をしたが、無意識に出てくるので、今は何もいわなくなった。童顔で愛くるしい顔をしているので『凛』でいい事にした。しかし、後二十年、三十年経った頃には、今のように誰からもチヤホヤされなくなり、外見も『凛』と自分を呼ぶ事が恥ずかしくなるのだろう。俺もアラフォーだ。

「井上さん。ありがとう。気持ちだけ、もらっとくよ」

「なぁーんだ、つまんない。凛、恋愛経験なら誰にも負けないのに」

 デスクの周りの社員達が一斉に井上凛の顔を見たが、何事もなかったようにパソコンのキーを叩いた。

 仕事が終わり、会社を出たと同時にラインがきた。片岡舞からだ。

「進藤君。こないだはありがとう。マグカップ、毎日使うね。ソープフラワー、とてもいい香りで癒される。あの日、わざわざ私に逢いに来てくれた?もしかしてっと思って。本当はね、とても嬉しかった。だけど、安倍さんとの関係があんな形で終わってしまって、心の中がグチャグッチャ。安倍さんはすでに新しい生活始めているというのに、私は過去から抜け出せない。一度、大阪を離れて心の整理をしたかった。落ち着いたらまた連絡します。仕事、頑張ってね」

「片山も頑張れ!」

 進藤はこの一言だけを送り電源を切った。

 

「久保田さん、ちょっといい?」

 そう言って久保田奈津をデスクに呼んだのは進藤圭太だった。

「突然で悪いんだが、明日から二泊三日の東京本社への出張、一緒に行ってもらえるかな? 藤井君と行く予定だったんだがインフルエンザにかかったらしんだ」

「はい。でも、私でつとまりますか?」

「スリランカから、得意先が来るんだが、奥様も同伴らしくて、接待をお願いしたい。本社の井上凛さんにもお願いしているので大丈夫だ」

「井上凛さん?」

「前の部署の部下だ。少々ぶっ飛んでるところがあるが、年と共に落ち着いてきた。発想が豊かで、思った事をズバッと言うが、裏表がない女性だよ」

「わかりました」

「明日、ちょっと早いが七時に新大阪駅のみどりの窓口で待ち合わせと言う事で、よろしく」

 

「進藤部長! おはようございます」

 久保田奈津はなんだか旅行気分で浮かれていた。というよりは、進藤圭太を独占しているような気分で胸が弾んでいたのだ。

「なっちゃん、おはよう。今日と明日、頼んだよ。明後日は予定が順調に行ったら、プライベートで好きなところでも行こう」

「本当ですか?約束ですよ!」

 新幹線は新大阪駅を出発した。進藤が朝食にとコーヒーとサンドウィッチを買ってくれていた。奈津はそれを頬張りながら、この上ない幸せを感じていた。

「部長。私、出張って初めてなんですよ。昨日の晩は、修学旅行に行くみたいで寝れませんでした」

「おい、おい、大丈夫か?心配だなぁ」

「すみません」

 そう言って舌をだした。

「でも、ほら見てください」 

 久保田奈津はスリランカについて調べたノートを進藤圭太に見せた。ノートにはスリランカのことがぎっしりと書き込まれ、東京の観光地や食事場所なども書かれていた。

「井上凛さんにばかり、頼れないので下調べしてきました」

「さすが、なっちゃん。頼もしいよ」

 奈津の頭をポンポンと叩きながら進藤は言った。

 いつの間にか、奈津はうたた寝をしていた。

 新幹線の揺れが心地よかった。新横浜到着のアナウンスが入った時、奈津は目を覚ました。その時、奈津の頭は進藤の肩に寄りかかっている事に気付き、ハッとした。しかし、咄嗟に目を閉じて寝たふりをした。

「なっちゃん、もう直ぐ着くよ」

 そう言って進藤が奈津の至福の時間を奪った。

「あっ。進藤部長、すみません。つい寝てしまったようで」

「口、空いてたよ。よだれ拭かないと」

 奈津が慌てて、口元を手でふくと

「嘘、嘘。気持ちよさそうに寝てたよ」

「部長、いじわるなんですね」

「ごめん。ごめん。さぁ降りる準備をしょう」

 東京は、大阪とは比べようもない位、たくさんの人で溢れてかえっていた。久保田奈津は、はぐれないように必死に進藤圭太の背中を追った。進藤は改札を出るとすぐに電話をいれ、丸の内南口に向かった。奈津には、右も左もわからない。ここではぐれたら、完全に迷子になる。進藤は歩くのが速く、奈津はほとんど小走り状態だった。突然、進藤が立ち止まったので。奈津は勢い余って進藤の背中にぶつかってしまった。

「久保田君、大丈夫か?」

 なちゃんではなく久保田君と呼んだ事が、妙によそよそしくて、奈津はそっちの方に気が取られていた。頭を上げると、知らない女性と親しげに進藤圭太が話していた。SMの女王様中島佳代とは違う垢抜けたゴージャス感があり、且つ美人だった。奈津には持ち合わせていない華のある女性だった。

「進藤部長、お元気でしたか? また、部長とお仕事できて、凛光栄です」

「相変わらずだな、凛ちゃん。気を付けろよ。新しく作ったプロジェクトチームだから、どんな奴がいるかわからんからな」

「はーい。ちゃんと、わ・た・く・しって言ってます」

「紹介しとくね、僕の下で働いてくれている久保田奈津さん。こちら、前に言っていた井上凛さん」

「よろしくね、久保田さん」

「こちらこそ、よろしくお願いします。井上先輩」

「部長。車、待たせてますので、こちらへ」

「ありがとう」

 奈津は二人が話をしながら並んび、歩いている後ろを必死で付いて行った。それを見ながら、奈津の知らない進藤圭太がいることが寂しくて仕方がなかった。車の中でも、奈津は二人の会話には入っていけず、ずっと窓の外を眺めていた。車は、今日泊まるホテルに着いた。まずは荷物をフロントに預けて、チェックインだけ手続きをした。その後、羽田空港に行き、今日のゲストのお迎えに行く手はずになっていた。修学旅行とは違うのだ。仕事なのだと奈津は気を引き締め直し、背筋をのばして笑顔を作った。

 スリランカで話されている言語はシンハラ語とタミル語、英語の三つで今回来日する取引先はシンハラ人なのでシンハラ語だ。だが、英語が堪能らしく会話は英語で大丈夫だと事前に聞いていた。

 ゲートを出てくる社長夫婦と社員二人の姿が見えた。進藤部長が手を振って出迎えた。

「Welcome to Japan. I haven’t seen for you for a long time.」

「Keita, I missed you.」

「Are these two your wife?」

「Thank you」

「I’m Rin Inoue . Please call me Rin」

「Obava hamuvima satutak.mageh namama Nastu Kubota」 

 奈津はシンハラ語で挨拶をした。すると、社長夫人が凄く喜んでくれて、肉付きのよい体で舞の小さな体に抱きついてきた。スリランカのご一行様も自己紹介をしてくれたのだがお経のように長い名前で全く頭に入ってこない。社長夫人は「ラッサナイとよんで」と呼び名を提供してくれた。お客様をホテルへ送り届け、その後ランチをご一緒した。スリランカの食は日本のだしや風味を生かした食文化とは違ってお米とカレーが主食でふんだんにスパイスを使う。蕎麦懐石をチョイスした。すると、同行してきた番頭のような役割をしているニルという男性はおろして使うわさびが凄く気に入り、何度も目頭を押さえては涙を流しながら食べていた。その様子が可笑しくて、皆んなの爆笑を買い、その場を和ませてくれた。ニルは、スリランカにワサビを持ち帰って、自宅の畑で育てたいと言ったが、ワサビは日本の農家でも育てるのは難しく、清涼な水の流れる浅瀬で栽培しなくてはならない、その事をニルに伝えるとガッカリしていた。ちなみにニルは呼び名である。進藤圭太と社長のダニシュウ、そしてニルともう一人のお付きの四人は本社へ向い、ラッサナイ夫人と井上凛、そして久保田奈津は東京見物に出掛けた。

 ラッサナイにどこか行きたい所はあるかと聞くと、ユニクロに行きたいと言ってきた。

 意外な答えに奈津も凛も面食らった。ラッサナイの話ではスリランカ人は餃子の王将とユニクロがくるのを期待しているらしい。ラッサナイがサイズ表示の意味を聞いてきたので、奈津が教えると三人いる子供の分と自分の分をカゴ一杯に詰め込みレジを済ませた。ご主人の分はいいのかと聞くとハッキリと「いらない」と言った。井上凛と久保田奈津は思わず顔を見合わせて苦笑いした。母と息子三人が同じTシャツをきて、社長が拗ねるのではないかと奈津は心配した。恐らく、片山凛も同じことを考えていたと思う。だが、本日の使命は奥様を楽しませてあげる事なので社長のことは忘れる事にした。ラッサナイに日本一高い所から、東京の街を見ましょうと提案したのは片山凛だった。するとラッサナイはスリランカにもロータスタワーという電波塔と観光用のタワーがあると教えてくれた。ネットで調べると高さが三五〇M、スカイツリータワーは六三四M。倍に近い高さがある。舞がその事をラッサナイに説明をし、頂上は雲の上にある事を付け加えた。ラッサナイは目を大きく見開き「オーマイゴット」と手を大きい開き大声で言った。

 ラッサナイはスカイツリータワーの下から上を見上げたが頂上が見えず、何度も「オー、オー」と写真を撮りながら声を出していた。

 エレベーターは高速であっという間に第一展望に到着し、そこからエレベーターを乗り継いで展望回路まで登った。さすがにここまでくると高い所が好きな奈津でも足がすくんだ。井上凛も顔が少し引きつって見えた。

 ラッサナイは壁から離れる事ができず、奈津と凛が左と右に分かれ手をにぎってやった。ようやく落ち着きいをもどしたみたいで「サンキュー、サンキュー」と何度も言われた。しかし雲の上から見る光景はラッサナイの心を打ったようで「オービュティフォー」と満面の笑顔を見せていた。

 スカイツリータワーから無事生還した三人は和のカフェで休憩することにした。この店はみたらし団子が最高に美味しい店だと井上凛が教えてくれた。ラッサナイには和菓子の食べ比べをしてもらった。みたらし団子とわらび餅、おはぎ、それら全てを美味しそうに平らげたが、みたらし団子がとても気に入ったようで、お皿に残ったタレを指につけて舐めていた。夫にも食べさせてあげたいとリクエストをされ、お土産に買って帰る事にした。最後にお抹茶をのんでもらったが、さすがに苦かったようで、しかめっ面をしていた。

 その後、浅草に場所を移し、定番の雷門の前で写真を撮ってあげた。浅草寺をぶらぶらと観光をしていると進藤部長から井上凛の携帯に連絡が入った。「いつもの焼肉屋ですね」と言っているのが耳に入ってきた。『いつもの』という言葉が進藤圭太と井上凛の親しさを強調しているようで、なぜが久保田奈津をモヤモヤした気持ちにさせた。奈津にだって進藤と行く『いつもの』店がある。井上凛に会ってからのこのモヤモヤは一体何なのか? 奈津自身にもわからなかった。

 井上凛の案内でメトロ銀座線に乗った。ラッサナイの国には地下鉄がないらしく、銀座に着くまでの間、興奮気味だった。そしてひっきりなしに往来する電車を見て「よく衝突事故が起きないものだ」と感心していた。

 銀座で降りて、少し歩いた所に『ほまれ』と看板に書かれた焼肉屋さんがあり、進藤部長と本社の澤田部長、そしてダニシュウ社長と番頭の二人はすでに到着していた。

「ラッサナイ、東京観光はいかがでしたか?」

 進藤が掘りごたつ席に座るように手招きしながら尋ねた。

「みたらしが美味しいね」

「みたらし?」

「進藤部長、一期一会のみたらし団子のことですよ」

「井上君、スカイツリー近くの?」

「そうです」

「ラッサナイ、あそこのみたらし団子は日本一美味しいと有名なんです」

 ラッサナイは夫にお土産を渡しながら、満面の笑顔で何やら母国語で話をしていた。久保田奈津は一期一会にも、進藤圭太と井上凛が二人で行ったのかもと想像するだけで、モヤモヤが増してくるのを感じていた。

『ほまれ』の肉は上品で美味だった。社長夫妻もお箸に苦戦しながら、美味しいと舌鼓を打ちながら食べていた。ここでも、薬味にワサビがでてきて、番頭のニルは大量のワサビをつけては、何度も鼻をつまんで泣いていた。そして、皆んなを笑わせた。ニルは日本で言う宴会係なのかもしれない。

 一日目がお開きになったのは夜の九時だった。それから、澤田部長と井上凛が夫妻と番頭二人をタクシーでホテルまで送り届け、進藤圭太と久保田奈津は二人でメトロに乗り、朝、荷物を置きに行ったホテルへと向かった。

「なっちゃん、今日は疲れただろう」

「進藤部長の方こそ、お疲れではないんですか?」

「僕はタフだから、大丈夫だよ」

「井上凛さんって素敵な女性ですね」

 奈津がツンケンした言い方をしたので、進藤は奈津の顔を覗いた。

「井上さんが入社したての頃は、頭は切れる人だったが常識的な所が欠落していて、何で注意されているのかわからず、よく拗ねてたんだよ。親から溺愛されて育ったんで、社会に出て苦労したと思うよ。だけど、一つ一つ教えて行ったら、ちゃんと受け止めて吸収していくタイプなんだと思う。その結果が、今の井上さんを作ったんだね。なっちゃん、君も負けず劣らず素敵な女性だよ。自分に自信をもったらいい。どんどん魅力が増していくと思うよ。これってセクハラになるのかなぁ?」

 進藤は頭を掻きながら久保田奈津に言った。

 奈津は、素敵な女性って具体的にどんな人を指すのだろうと思った。誰からも素敵な女性と言われることは確かに悪い気はしない。井上凛はきっと両親から「可愛い、可愛い」「いい子、いい子」と言われて来たのだ。そして、今だって家に帰ったら、お母さんが温かいご飯を用意して待ってくれていて、お父さんは井上凛の遅い帰宅を心配して、家の中を落ち着かない様子でウロウロしているのかもしれない。全ては久保田奈津の想像だ。そして、その想像は奈津が一度も経験したことのない願望だった。裕福な家を望んでいるわけではなく、お父さんがいて、お母さんがいて、どうでもいいことを食卓を囲んで話をしている「お父さん、うるさい。放っといて」とか言っている奈津がいる、そんな光景を夢見ているのだ。しかし、すでにその夢は破れ去っているのである。可能性としては、奈津がお母さんになって普通の家族を作ることかもしれない。私と家族を作ってくれる人はいるのだろうか? その前に結婚である。結婚の前に愛する彼である。その前に出会いだ。

 進藤圭太……。

 東京は大阪とは比べものにならないくらい人が多い。歩行者の信号が赤になると車の往来の音が鳴り響くが、青になった途端、人が歩く音が建物に反響して耳元で大勢で行進しているかの様に鳴り響く。奈津は進藤圭太を見失わない様に必死でついていった。

 ホテルに着いた時は十時だった。

「なっちゃん、シャワーを浴びたら、最上階のバーで一杯だけ飲まないか?」

「はい、喜んで」

「急がなくていいからね。先にバーで待ってるから」

 

 窓の向こうを見るとネオンが街を神々しく照らしていた。進藤圭太は窓側に向けられたソファーに深く腰かけ、ブランディを飲んでた。

「お疲れ様です」

「なっちゃん、此処でいい?」

「はい、失礼します」

「東京はやっぱり日本の中心だね。大阪とは違う」

「そうですね。でも、私は田舎育ちでしたから、大阪の街も日本の中心のように感じています。陰ながら、都構想には賛成なんです。なぁーんてね」

「何のむ?」

「モヒートを」

 進藤はバーテンダーにモヒートとチーズの盛り合わせを頼んだ。

 東京の街は眠らない街だと何かで聞いたことがあった。このネオンは夜が明けるまで輝き続けるのか? 夜のお仕事の人は朝日と共に家にかえり、昼間のお仕事の人は、夜のお仕事の人が眠りに着いた頃に起き出す。このルーティンを奈津の眼下で広がる世界は繰り返している。今日も明日も明後日も…。そして何かに躓いたら、このルーティンには付いていけなくなりそうな恐怖を覚えた。奈津はしっかり自分の足で踏ん張らないと生きていけないことを母親が死んでからずっと感じている。こんな奈津の全てを受け入れて抱きしめてくれる人がいたら、どんなにか気持ちが楽になることだろう。今日は井上凛という人に会って、ずっとモヤモヤしていた。今、進藤圭太と二人になってわかった。井上凛と比べたら、奈津は進藤にどう見られているのかを意識していたのだ。私は進藤圭太に愛されたい、誰よりも。そう思っていたのだ。井上凛に嫉妬していたのだ。なんて幼稚なんだろう。此処へは仕事をしにきているのだ。進藤圭太も井上凛も久保田奈津も。

「部長、お疲れ様です。いただきます」

 二人はグラスをならし乾杯した。

「ダニシュウ社長がなっちゃんのことを褒めてたよ」

「私、何もしてないのに?」

「シンハラ語で挨拶しただろう。あれが効いたんだよ」

「そうなんですか」

「なっちゃんのそういう気遣いって誰しもが出来ることじゃない。それに、教えてたからって出来るものでもないだよ。生まれた環境や生きてきた体験から備わるものだと思うよ。

 きっと、お母さんのおかげだよ」

 進藤にそう言われ、奈津は母のことを思い返していた。

 奈津の母は、孤独な人だった。奈津の一番古い記憶は五歳の頃だ。母と近所の公園に行き、奈津は砂場で一人で山を作ったり、プリンを作って遊んでいた。それをぼんやりとベンチに座り母は見ていた。奈津を見ている様で実は遠くを見ている。本当は過去の思い出を見ていたのだと思う。少し離れたところでは五人グループのママ友が楽しげに話をしていた。その子供たちも楽しそうに滑り台を順番に滑っていた。以前「一緒に遊びませんか」とそのグループのリーダー的存在のママが奈津の母を誘ってきたことがあった。奈津は一緒に遊ぶ友達がいなかったので母の答えに期待した。しかし、どの様に断ったのかは知らないが、決してそのグループに入ろうとはしなかった。だから、奈津はいつも一人ぼっちで遊んでいた。ある日「皆んなと遊びたい」と母に言った時、「なっちゃんの家と皆んなの家はちがうのよ。同じ様には出来ないの」と言われた。幼心になんとなくその事を理解していた。記憶はおぼろげな映像で残っていた。奈津の着ている服、靴は他の子のとは違う。母の着ている服も髪も唇も他のお母さんとは違っていた。母は奈津が惨めな思いをするのではと恐らく心配したのだ。でも、子供にとって、そんな事は関係はない。相手と比べるなんて、もう少し後になってから芽生える事なのだ。それよりも母以外の人と接する事の方がもっと大切な事なのではなかったのか? 母は自分が惨めな思いをするのが怖く、自ら殻に閉じこもって行ったのかもしれない。奈津には母が着飾って、何処かへ誰かとお出かけをした記憶はない。奈津が覚えている母の日常は台所で料理をしているか、内職をしているかのどちらかだった。近所の子に外国帰りの同い年の女の子がいた。その子の着ていた服に奈津は衝撃を覚えた。ベルベット生地で作られた、くるぶし丈の巻きスカートと大きな提灯袖がついたブラウスを着いていた。その頃の奈津の服装は誰かのおさがりを母がリフォームしたものだった。機能的ではあるが可愛さは皆無だ。スカート丈はパンツが見えそうなくらい短かった。奈津もその子のような服が欲しくて、母のタンスからスカートを取り出して着た。長さはくるぶしが隠れるくらいはあったが、当然ながらウエストはぶかぶかで、すぐにずり落ちてきた。それでも、空想の中ではお姫様になった気分でそれなりに満足していたように思う。母に何かを「欲しい」と言っては駄目ということは幼心にわかっていたのだ。奈津が高校生になったころ、ちょっとした反抗期を迎えていた。母のみすぼらしさが耐えられず、顔を合わさないようにしていた。しかし、母は毎朝、奈津にお弁当を作ってくれていた。その頃は、近くの喫茶店でアルバイトをしていたので、自由になるお金が少しはあった。友達に誘われると学食で食べることがあった。そんな時、母のお弁当をごみ箱に捨てていた。どこかで母に申し訳ないという思いから、そんなことをしていたのだが、捨てるなんてもっとも酷い行為だったと今になって思う。でも、奈津は母が空っぽになったお弁当箱を見て、満足気にしているのを知っていた。幼い頃から、母を悲しませるような事をしてはいけないと何となく認識していたのだ。大学の進路を決める際、母の元から離れたいと強く思った。このまま、母と一緒にいたら、未来が暗いものになりそうで仕方がなかったのだ。当然ながら、学費を出す余裕なんて家にはなかった。ところが、成績優秀だった奈津は全面学費が免除される枠に入れそうだと先生が教えてくれた。免除さえあれば、後は一人暮しの生活費だ。そうなれば、母に遠慮はいらない。奈津は必死で勉強をして、晴れて大阪の大学に合格した。奈津が実家を離れる時、母は奈津が生まれてきてからコツコツと貯めてきた貯金通帳と印鑑を渡してくれた。そして「あなたが思うように生きなさい」とひとこと言って送り出してくれた。そのお金には、一銭も手をつけていない。今となっては、母の形見の一つであり、母の歩んで来た人生の結晶のような気がしている。

 大学三年生の時、地元の警察から電話が入った。「お母さんがご自宅の布団の上で亡くなられていまして、これより検視をして事件性がないか調査します……」奈津が実家に駆けつけたのは八時間後だった。すでに検屍は終わり、葬儀屋さんがご遺体袋に母を入れていた。「お別れはしない方がいいと思います」と言われた。最後に母の顔を見たのは大阪へ旅立った時となった。検視官が「死後三週間は経っていると思われます」と奈津に告げた。隣に住む人が異臭がすると言って大家さんに連絡を入れたらしい。母の住む家を訪ねてくる人は、その間、誰一人いなかったのか。その後、部屋の片付けをしたが、ほんの数時間で終わった。まるで、死ぬ準備でもしていたのかというぐらい物がなかった。その時、たんすの奥から封筒の中に入った写真が二枚出てきた。若かりし頃の母と知らない男性が写っていた。母は幸せそうに笑顔をカメラに向けている。こんな笑顔の母を奈津は見たことがなかった。もう一枚の写真には愛おしそうに奈津を抱く知らない男性が写っていた。その横には目を細めて二人を見つめる優しい顔をした母。これが私のお父さんなの? 母が死んでしまった今、確かめる事は出来なかった。

 母から私は何を教わったのか? 母の顔色を伺いながら、生きてきた。母が喜ぶ事は何なのか、それを気にしながら生きてきた。それなのに、最後は母を悲しませる事をしてしまった。母からくる一方的な電話や手紙。返事すらまともにしていなかった。進藤部長は「おかあさんのおかげ」と言ったが、本当にそうなのか? 今の奈津にはわからなかった。

 

「進藤部長、明日はラッサナイに忍者を体験してもらおうと思ってます。私も初体験なんですが。その後、舞妓さんの格好をして写真撮影です。お昼はモンジャをと思っています。全て、未経験です私」

「なっちゃんも舞妓姿になるの? きっと似合うだろうな」

「ほんとですか? 私が着たらおてもやんになるんじゃないでしょうか?ですので今回は時間の関係もあるのでラッサナイだけにしておきます」

「残念だな」

「進藤部長…」

「何? 心配事でもあるの?」

「いえ、何もありません。明日、がんばります」

 奈津は自分でも何を言おうとしたのか分からなかった。ただ、進藤圭太の名前を呼びたかった事だけは確かだ。進藤が少しずつ、奈津の心を支配してきている事を実感していた。

 

「おはようございます」

「おはよう、なっちゃん。よく眠れたか?」

「はい」

 二人はロビーの横のカフェで朝食をとり、ダニシュウ御一行様が泊まるホテルへお迎えに行った。すでに井上凛は到着していた。

「進藤部長、久保田さん、おはようございます」

 奈津は急いで頭をさげ挨拶をした。今日の井上凛は一段と綺麗だった。化粧は、ナチュラルではあるが洗礼されている。さりげなく着こなしているが誰が見ても上等だとわかる服だ。奈津はというと、これまた誰が見てもメーカーまでわかってしまう安物の服を井上凛とはまた違う着こなしにをしている。これを人は「分相応」と言うのだと奈津ははっきりと理解した。

「進藤部長、今日は三時にここへ戻ってきたらいいですね。その後、鎌倉に行かれるとお聞きしています」

「私の方も静岡の工場を視察してもらって、その頃に戻ってくる予定だ。井上さん、今日泊まられる予定のホテルに、一応確認の電話を入れておいてくれるか? 鎌倉のホテルまで、竹元くんが送ってくれる手はずになってる」

「竹元くんで大丈夫ですか? 竹元くんの行動って変ですよ。一ヶ月ほど前に新宿にある龍斗飯店に同期の五人でご飯に行ったんですよ。皆んな出先から直で集合することになって、最後に来たのが竹元くんだったんです。あの店って東西に入り口があるじゃないですか。私たち四人はテーブルに座って東の入り口から入ってくる竹元くんを見つけて手を振ったんです。そしたら、彼、私達のテーブルを通り過ぎて、西の入り口から出ていったんです。それから三十分くらいして、場所がわからないって電話があったんです。さっきのは竹元くんの亡霊だったのかって大笑いですよ。他にもありますよ。得意先から、爆笑して電話がかかってきて、さっき竹元くんが帰ったんだけど駐車場に営業鞄が置き去りにされている、なかったら困るんじゃないかなって。あとは、靴です」

「靴?」

「靴が左右違うのを履いて来たんです。色が同じなら何とか誤魔化せたんですが、黒と茶色だったんです。その日は会議があって、大慌てですよ。彼、どうしたと思います?」

 進藤も奈津も笑いを堪えてながら聞いていた。

「油性マジックの黒で茶色の靴を塗り出したんです」

「それで、無事に難を擦り抜けたのか」

 進藤の凛々しい顔はくちゃくちゃになっていた。

「課長が靴を三度見してましたよ。気がついていましたが、知らん顔をしてくれていました」

「ホットしたよ」

「最後にもう一つだけ。未だ時間大丈夫ですね! 極め付けがあります。竹元くん、入社してから、かなり太ったんですよ。なのに無理矢理、サイズの合わないスラックスを履いて埼玉の得意先に行ったんです。そこの社員さんがお茶を出してくれたのでソファに腰掛けた途端、スラックスが裂けたんです。お尻のところではありませんよ。スラックスの内側が全部裂けてしまって、くっついているのは外側だけ!」

「えっ!」

 思わず声を上げたのは奈津だった。

「それから、どうしたと思います? 竹元くんが帰社した時ななんだか変だったので、スラックスをガン見してしまったんですが、内側を安全ピンで何箇所も留めてたんです。その格好で電車に乗って帰ってきたんですよ。変でしょ!」

 進藤も奈津も笑いのツボに入ってしまい、しばらくはどうする事もできなかった。

「すみません。竹元さんって方にお会いしても、私、まともに話せる気がしません」

「いいの、いいの久保田さん。そんな事、気にする人じゃないから」

「まぁ、心配だけど、彼にまかせるよ。なんでか分からないが番頭のニルと気があって、社長にも凄く気に入ってもらってる。日本人とは違う感覚なんだよ。しかし、僕も吹き出してしまうかもしれないなぁ」

 

「ラッサナイ、グッドモーニング」井上凛がラッサナイの姿を見つけて声をかけた。

「スバウダーサナック」と奈津もシンハラ語で挨拶をした。

 ラッサナイは両手を広げて奈津と凛を抱きしめ「おはよう」と日本語で挨拶をし、二人の頬にキスをした。

「それでは部長、お先に予約の時間があるので出発します」

「シーユー。ラッサナイ」

 部長は手を振って見送ってくれた。

 

「後は頼むよ、竹元君」

「はい、進藤部長。任せてください」

 そう言ってガッツポーズを見せたのは、今朝、井上凛からエピソードの数々を聞かされた竹元くんだ。久保田奈津の口元はすでに震えていた。悪いと思ったが耐えらそうになかった。その時、ラッサナイが奈津と凛に抱きついてきた。

「ありがと。りん、なつ。たのしかった」

 と辿々しい日本語でお礼を言ってくれた。「サンキュウ」

 凛がラッサナイの頬にキスをした

「ありがとうございます、ラッサナイ」 

 奈津も頬にキスをした。ラッサナイのおかげで何とか笑いのツボに入らずに済んだ。

「井上さん、久保田さん、お疲れ様でした。この後、打ち上げをやる予定なんだが、参加できる?」

「もちろん」

「久保田さんも大丈夫だよね?」

「はい」

「時間は六時半。場所は三太郎。未だ、小一時間あるね」

「部長、私、奈津さんとお茶でもして、時間を潰してから一緒に行きます」

「じゃ、井上さん頼むよ」

「はい、じゃぁ、後で現地で。部長、お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 奈津は小さな声で言った。

 井上凛にタピオカ専門の『茶房もあん』に連れて行ってもらった。もちもちとした食感がミルクティーとの相性が抜群で本当に美味しかった。

「久保田さん、疲れたでしょう?」

「あっ、はい。いえ」

「肩の力抜いて。仕事時間は終わったんだから。ねぇ、進藤部長とはどういう関係?」

「どういうって。上司と部下ですが…」

「ふーん。なんだか特別な関係かと思った」

「井上先輩こそ、進藤部長とは特別な関係なんじゃないのですか?」

「特別! そうね、私にとっては特別だったかもしれない」

「それ、どういう事ですか?」

 奈津は躍起になって聞いた。

「久保田さんってわかりやすい人ね。進藤部長の事好きなんでしょう?」

「そんなんじゃないです」

「顔が赤くなってる」

「やめて下さい」

 奈津が真顔で言ってきたので凛は、

「ごめん。ごめん。いいじゃない好きなら好きで。私、進藤部長の事が大好きだったの。付き合って下さいって自分から言ったのよ。でも、忘れられない人がいるって振られちゃった」

「忘れられない人?」

「気になるんだ。奈津さんってほんとわかりやすい」

「…」

「片山舞という人。進藤部長と同期入社で当初、同じ部署に配属されて、切磋琢磨して新入社員の二人はがんばっていたそうよ。しばらくして、片山さんは安倍泰治って言う上司と付き合う事になったんだけど、何がどういう展開でそうなったかは知らないけど、安倍泰治って言う人は、年上の同じ会社の人と出来ちゃった婚をして、その後、片山さんは会社を辞めた。全部、同期からの又聞きだけど。ちょうどその頃に、進藤部長が私の課の課長として転勤してきた頃だから、十年近く前の話かな。あれから、時間もたってるし、今は進藤部長どう思っているかはしらないけど」

 安倍泰治って前に茉姫であった人だ。女将が仲直りって言っていた。この事だったんだと奈津は思った。

「おーい。奈津さん。大丈夫?」

 目の前で井上凛が手を振っいた。

「はい、大丈夫です」

「あなたと話している進藤部長を見ていて、部長は昔の事は吹っ切れたんだと思った。もしかしたら久保田さんの事を好きなのかなって思ったのよ。私は父が決めた人と結婚するから安心して。私には結婚相手を自分で選ぶ権限はないの。井上家を継がなければならないと駄目だしね。生まれた時から、決まっているのよ。だから、チャラチャラとしてられたって所もあるんだけどね。決められた器の中で自由に泳いでいるだけで、本当の意味での自由はこの先もないってわけ」

「そんな…」

 奈津には未知の世界での事で何を言葉にしたらいいのか、全くわからなかった。ただ、井上凛にも奈津とは違う苦しみがあるのだ。久保田奈津と比べたら、井上凛の苦しみなんて贅沢なものだ。仕事を失ったら、生きていけないと常に余裕のない暮らしをしている奈津。自由はないが愛してくれる両親と安定した暮らしを手に入れてる井上凛。生き死にをベースに考えると井上凛の悩みはもはや悩みではない。だけど…。幸せかどうかは別だ。それは、幸せは心で感じるものだからだ。母の箪笥の奥から出てきた写真を思い出した。母も父かもしれない男性も幸せに満ちた顔が写真に収められていた。奈津が生まれたことに幸せを感じてくれていたのかもしれない。

「奈津さん、そろそろ行こうか」

「はい」

「ここは、私の奢りね」

 そう言って、凛は伝票をサッと持ってレジへと向かった。全ての立ち振る舞いがスマートである。奈津が言うのも変だが、本当にいい女である。中島佳代とは別の世界の魅力ある女性だ。

「井上先輩、ご馳走さまでした。それと、ご両親が決められた結婚かもしれませんが、とにかく誰もが羨む幸せを手に入れて下さい。恋愛経験ゼロの私が言うのも変ですが、とにかく、幸せになって欲しんです」

「はい、はい。なっちゃん」

 

「オー。井上こっちこっち」

 手招きしたのは井上凛の一つ上の二宮尚太だった。すでに十人の社員が席に着いていた。

「お疲れ。えっと、そちらの方は?」

「同じプロジェクトメンバーの久保田奈津さん。進藤部長の下で働いている人よ」

「初めまして、久保田奈津と申します。どうぞ、よろしくお願いします」

「なっちゃんでいいね。僕、二宮尚太。ニノってよんで」

「もう、初めてなんだから、びっくりしてるじゃない。ニノ、席開けてよ」

 奈津と凛は並んで席に着いた。しばらくすると進藤部長と統括部長の守田が部屋に入ってきた。すると、今までふざけていたニノも席を立って頭を下げた。

 守田が社員に席に着くように促した。

「お疲れ様でした。みんな、席に着いてくれ。

 取り敢えず乾杯しょう。二宮、頼む」

「皆さん、グラスに飲み物入ってますか?

 二日前に大阪から進藤部長と一緒に接待の助っ人として来てくれた久保田奈津さんです。井上さんと頑張ってくれました。このプロジェクトのメンバーです。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「それでは、二日間お疲れ様でした。乾杯」あちらこちらでグラスがなり、ビールを一気に呑み干した。

「うー、うまい」「利くー」それぞれが色んな言葉を発していた。

 すると、統括部長が言った。

「今からは、無礼講だ。好きにやってくれ」「了解!」

 すぐに返事をしたのはニノだった。どうも盛り立て役のようだ。肩書きは課長補佐だが、宴会部長とう言う裏の肩書きを持っているようだ。奈津の所に次々とお酒を注ぎに男達がやってきた。奈津は真面目に注がれたお酒を呑み干し、今しがた五杯目のビールを注がれた。お酒に強い奈津でも、さすがに空きっ腹に飲むビールは酔いがまわった。すると進藤部長が助け舟を出してくれた。

「おいおい、皆んな、久保田さんを酔わせたら後が大変だぞ」

「僕が後は面倒みます〜」

「はいはい。ちょっと、いくら久保田さんが若くて可愛いいからって、私には誰も注いでくれないの?」

 井上凛も奈津に助け舟を出してくれた。

「なっちゃん、お酒は強いの?」

「普通よりちょっと…」

「日本酒いっちゃう?」

「喜んで!」

「すみませーん。澤乃井 純米吟醸を冷で」

 奈津と凛は、緊張が解けたのか、もしくはこの二日間で少し、気持ちが打ち解けたのか二人仲良く盃を交わした。

「なっちゃん、このプロジェクト頑張ろうね。私、これが最後の仕事になると思うの。結婚、結婚、女は結婚相手で決まるって、今時、本気で思ってるんだから、私の両親」

「そうなんですか。でも、井上先輩が羨ましいです。そうやって、娘の幸せを願ってくれれるご両親がいて」

「なっちゃんのご両親だって、娘の幸せを一番に願っているわよ」

「そんなもんなんですかね」

 奈津は自分には親はいないんだとは言えなかった。余りにも、置かれている環境が違いすぎて、言葉にしたら折角の場がしらけそうだったからだ

   

 お母さん、お母さん。私の事どう思ってたの? 薄情な娘だと思ってた? 私、お母さんから逃げたの。お母さんの闇にのまれそうで怖かったから。お母さんは私の幸せを願ってくれてた? お母さん、教えて。

「なっちゃん、なっちゃん」

「お母さん」

「なっちゃん、大丈夫? 起きて」

 遠くで誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

 重い瞼を少し開けると誰かが奈津の顔をのぞいていたが重力には勝てず、すぐに暗闇の中に引きずり込まれて行った。すると、急に体が宙を浮いた。まるで無重力の中を浮かんでいるかのような心地よさと、奈津を包む温かさを感じていた。

 

 朝日がカーテンの隙間から差し込み、奈津の顔を照らした。奈津は大きく伸びをして、ようやく目を覚ました。

「あれ、ここどこだっけ?」

 しばらく状況が飲み込めなない奈津だったが、徐々に昨晩の事が蘇ってきた。

「えっ! 私、どうやってここに帰ってきたの?」

 奈津は部屋の中を見渡した。 

「進藤部長!」

 思わず大声で奈津は叫んだ。進藤圭太がソファーの上でシーツにくるまって寝息をたてていた。

「なっちゃん。起きた?」

「あの、進藤部長。もしかして、私…」

「覚えてないの?」

「はい。すみません」 

 奈津は深々と頭を垂れて反省した。

「別に悪いことはしてないから、謝ることはないよ。ただ、偉く泣いて僕の首にしがみついてたから、ここに寝かせた。な、な、何もしてないからね」

 進藤が動揺するのを奈津は初めて見た。

「わかってます。すみませんでした。部屋でシャワー浴びてきます」

「そしたら、一時間後、下のロビーで落ち合おう。二日酔いじゃない?」

「少し。でも大丈夫です。若いので!」

「言ってくれるね。じゃ、今日は約束通り、何処かへ行こう」

 奈津は扉の向こうへと消えて行った。進藤は昨夜の奈津の事を思い出していた。確か、前にお母さんが亡くなって身内はいないって言っていた。甘えられる母や父がいないというの事はどれ程、心許ないことか。近くにいなくても、いつでも自分を思ってくれている人、無条件に愛してくれる人がいる、その事だけで、どれ程、生きている実感が持てる事か…。

 奈津には、そういう人が一人もいないのだ。何か、心をえぐられているような感覚を進藤は覚えた。

「お待たせしました」

「どこか行きたいとこはある?」

「部長、お腹がペコペコです」

「ごめん、ごめん。まずは腹ごしらえだな」

 二人はホテルを出て、近くのカフェに入った。

「なっちゃん、二日酔は大丈夫そうだね、食欲ありそうだし」

「はい」

 奈津は目の前に進藤がいるだけで幸せだった。こうやって好きな人とおしゃべりをしながら朝食をとる事はなんと贅沢な事か。母は家にいる時はいつも内職をしていた。母と向き合って食事をした事なんてあったのだろうか? でも、その内職も結局のところ奈津のためにしていたのだ。母が家を出る奈津にくれた通帳には毎月コツコツと貯めていてくれたお金が記載されていた。向き合ってご飯を食べなくても、同じ空間に誰かがいる事だけで人の温もりを感じる事ができたのだ。母が死んでからは、天涯孤独になってしまい、いつもそのたわいもない温もりを求めていた。

「なっちゃん、いつもなんでも美味しそうにたべるね」

「だって、美味しいんだもん」

「そっか」

「あのー。進藤部長、私、昨晩の事なんですが、他に何かやらかしました?」

「気にするな、それより今日は六時の新幹線を予約してるから、それまでどこか行きたいところはあるか?」

「ラッサナイと浅草を少し観光したんですが、下町情緒をもう少し見て回りたいです」

「よし、それでは浅草にしよう」

 

 奈津は自宅のベットの上でスマホで撮った写真を見ていた。進藤圭太の案で着物をレンタルすることになった。舞妓の格好をして撮った写真がウインドウに飾られていたのを奈津がじっと見ていたので、進藤が「やってみる?」と言って来た。初めは「いいです」と断っていた奈津だったが、スタッフの人に何度も勧められ、旅の恥は掻き捨てという言葉もあるのでその気になってしまった。

 舞妓に変身した奈津を見て、あまりの可愛さに進藤圭太は頬を緩ませた。

「そんなに可笑しいですか」

「いや、綺麗だ、凄くいい」

「とてもお似合いですよ。三時間レンタルができますので、観光しながら彼氏さんに写真を撮ってもらったらいかがですか」

「えっ。彼氏では」

「なっちゃん、そうしょう」

 進藤は彼氏ではないと言いかけた奈津の言葉を遮った。

 私って、凄く楽しそうに笑ってる。進藤の撮ってくれた舞妓姿の写真を見ながら余韻に浸っていた。進藤と二人で撮った写真も何枚かあり、進藤の顔を大きく引き伸ばして見つめた。

「ぶちょう…」

 

 進藤圭太はいつもは仔犬のような奈津が見せた違う顔を思い出していた。舞妓姿を見た時、奈津に対して女を感じさせられた。浅草を歩いていると何人もの男たちが奈津を見ていた。そのことに苛立ちを覚えた。この感情は何なのか。進藤は奈津が側にいると時々抱きしめたくなることがあったが、会社内での色恋はしないと片山舞の時に誓った。お互いが別れるような事になったら、会社を辞めるという最悪の選択をしてしまうことになるかもしれないからだ。進藤は恋愛に対しては臆病なのかもしれない。この年になるまで何人かの女性と付き合ったが、心の底からこの女性と一緒にいたいと思ったことはなく、数ヶ月で付き合いは終わっている。仕事に追われる事を自ら選択してきた。安倍泰治のように独りの女性のために仕事人生を変えることは出来なかった。三十五才の誕生日を迎えた時、おれはどこかで一生独身かもしれないと覚悟をきめていた。

「久保田奈津…」

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