四章 お酒
「久保田さんは何を飲みますか?」
「あっ、はい。それじゃ進藤部長と同じものを」
「女将、ビールね。グラスは二つ。それと彼女、何も食べてないから美味しいもの出してやって」
「うちは美味しい物しか出してませんよ」
「そうだった、そうだった」
「お連れさんは嫌いな物とかありますか?」
「いえ、何でも食べます。実はお腹ペコペコなんです」
「あら、大変。急いで用意しますね」
「すみません」
進藤圭太と久保田奈津は女将が入れてくれたビールで乾杯をした。
「あの、部長。今日は歓迎会に遅れてしまって申し訳ございませんでした。改めまして、久保田奈津と申します。まだ、入社して八ヶ月の若輩者です。ご指導、よろしくお願いします」
「圭ちゃん、可愛い新人さんね」
女将が料理をカウンターに置きながら言った。
「彼女は新人だけど、中々しっかりしたやり手社員なんだよ」
「圭ちゃんも部下をもつ歳になったのね。私も老けるはずだわ。ごゆっくりしていってくださいね」
「さぁ、食べなさい」
「頂きます」
久保田奈津は目の前に出された素敵なお皿に盛り付けられた料理の数々を味わいながら平らげた。
「ふぅー。落ち着いた」
進藤圭太は奈津を見てクスッと笑った。
「すいません」
「謝る事ないよ。随分とお腹が空いていたんだなぁと思って。一人、遅くまで仕事をさせて、すまなかったね」
「いえ、こんなに美味しい物をご馳走になって、逆にラッキーです」
「そうか、良かった。ところで、仕事で何か困った事とか、改善してほしい事とかはないかな?」
「……。いえ、ないです」
さっき迄の元気な奈津とは打って変わって消え入りそうな声で答えた。
「実はね、久保田さんだけが他の社員より残業が多いから、何か原因があるのかなと思ってね。この数日間、働き振りを見させてもらったが、自分の仕事は実にテキパキとこなしているように見えていたから」
進藤圭太は女将に熱燗を頼んだ。
「日本酒は飲める?」
「飲んだ事ありませんが、頂きます」
女将が二人のお猪口にお酒を注いでくれた。
久保田奈津はグイッと飲み干した。
「うー。利くぅー」
「大丈夫か?」
「はい。もう一杯お願いします」
奈津は続けざまに三杯お酒を飲んだ。
「進藤部長。私、長崎県の出身なんです。大学の時、大阪に出てきました。父親は知りません。母親は大学三年の時に癌で死にました。わずかな保険金とアルバイトで何とか大学を卒業できました。この先、長崎に帰るつもりはありません。帰っても身内もいません。だから、ここで生きて行くと決めています。私にとって仕事は生きて行くための、無くてはならない人生最大の重要アイテムなんです。私に与えられた仕事は全力で取り組んでいます。残業については改善します。だから、クビにしないでください」
「おい、おい。クビになんてするつもりは毛頭ないよ。久保田さんは社内だけではなく、取引先からの評価は高いんだよ。はっきり言うね。久保田さんの担当する仕事に関しては百点満点。書類関係も全て期日よりも早く処理されている。なのに、何故毎日のように残業をしているのかが知りたいんだ。女将、もう一本浸けてくれ」
「……」
「言いにくい事があるのかな?」
「はい、圭ちゃんお待ちどうさま。あら、彼女どうしたの?目が真っ赤になってるわ。圭ちゃんこんなに可愛らしい子、いじめたら駄目よ」
「女将、人聞き悪いなぁ。俺はいつだって紳士ですよ」
「はい、はい」
「久保田さん。実はね、中島さんが原因なんじゃないかなっと思ってるんだ。我々の仕事は相手があって初めて成り立つ。だから、担当を振り分けて各人が責任をもって対応していく事になってる。自分の仕事を誰かに押し付けるって事は取引先をないがしろにしている事と同じなんだよ」
「そんな事…。すいません。中島さんには、今度からはっきり断ります」
「やっぱりそうだったか。久保田さんが中島さんの仕事をしていたんだね。彼女には僕から言うので君は今まで通りにしていてくれ。悪いようにはしないから。さぁ、飲み直しだ」
奈津は急に力が抜けていくのを感じた。社会人になって、ずっと気持ちも体も張り詰めていた事を今頃になって知った。
次の朝、奈津は自分のベットの上で服を着た状態で目覚めた。上着はハンガーに掛けられえていた。起き上がると頭がガンガンしてもう一度ベッドに潜り込んだ。どうやって帰って来たんだろうか?進藤部長はどうしたんだろうか?いくら、思い出そうとしても思い出せない。今は考えるのをやめよう。
時計を見ると夕方の四時だった。奈津は二日酔いの体を無理やり起こしてシャワーを浴びた。やはり、昨日の事は途中から何も思い出せない。最悪だ! 月曜日に進藤部長にとりあえず謝ろう。結局、その日は一日をベッドの上でダラダラと過ごす事となった。
「皆さん、おはようございます。先日は歓迎会を開いていただきありがとうございました。本日より、本格的に始動させていただきます。私もわからない事が多々とありますのでドンドン質問して行きたと思っています。それと皆さんからの意見もありましたら、どんな小さな事でもいいのでお聞かせいただければ幸いです。それではよろしくお願いします」
各々がデスクに座り仕事を始め、外回りの社員は行先を進藤に告げて出ていった。月曜日は皆一様に業務に追われている。その中でもただ一人デスクに鏡を置いて自分の顔を念入りにチェックしている人がいる。そう、中島佳代だ。彼女だけはいつもマイペースなのだ。今日の獲物を探しているのか机の下でスマホをいじっている。
「中島さん。三番に隅田商事の高田さんからです」
「あっ、それ久保田さんにまわして」
「久保田さん、三番ね」
「おはようございます……。その商品でしたら先週の木曜日に発送しておりますので本日の三時には到着予定となっております。それと隅田様、いつもご注文頂いておりますサンユーの一三一の商品がそろそろ在庫が無くなるころではと思うのですが発注しておきましょうか?はい、賢しこまりました。それでは、サンユーの商品は今週木曜日の朝九時到着予定で手配させていただきます。ありがとうございました」
久保田奈津は中島佳代のデスクに隅田商事の発注メモを持って行った。
「中島先輩。隅田商事さんからの発注依頼です」
「それ、あんたがやっといて」
「……」
「何? 私忙しいの。あんたが受けたんでしょ!」
「隅田商事は中島先輩の担当じゃないんですか」
「あんた、先輩に盾突くの⁉︎」
中島佳代が甲高い声で奈津に怒鳴った。一瞬フロアは水を打ったように静まりかえった。
「いえ、すいません。発注しておきます」
奈津は頭をさげ自分のデスクに戻った。進藤部長が昼休憩の前に中島佳代に声をかけた。
「中島さん、休憩の後三十分ほど時間貰えるかな?」
「進藤ぶ・ちょ・う!もちろんオッケーでーす」
その時、中島佳代の全身からフェロモンが放たれたのを奴隷たちは見逃さなかった。
「中島さん、担当している顧客のデータを持ってきてくれるかな。第二会議室で待っててください」
「はーい」
そう言って中島佳代は部屋から出て行った。きっちり三十分後戻ってきた中島の顔からは血の気が引いて、実際の年齢よりも十才は老けて見えた。そして、久保田奈津に近づいて来た。
「久保田さん、さっきの隅田商事の伝票どこ?私するから」
「えっ⁉︎」
「いいから、早く出して」
何を進藤圭太から言われたのかは知らないが、今は真面目にパソコンのキーボードを叩いている。五時半の終業の曲が流れた。久保田奈津は中島佳代が伝票を持ってくるのではないかと身構えて待ったが、それ以来、自分の仕事を奈津に押し付けてくる事はなかった。
奈津の前を進藤圭太が歩いているのが見えた。奈津は走り寄って進藤に声を掛けた。
「部長。先日はご馳走様でした。それで、あの…。実は私…」
「こちらこそ、楽しかったよ。久保田さんは威勢がいいんだね。豪快な飲みっぷりだったよ」
「すみませんでした」
奈津は出来るだけ深く頭を下げた。すると進藤圭太はお腹を抱えて豪快に笑いだした。
「あのー。部長、私何かやらかしましたか? 実は、途中迄は覚えているのですが、どのように家に帰ったのか全く記憶がなくて。もしかして、部長が送って下さったのでしょうか?」
「さすがに、俺が一人で送って行くのはまずいだろう。茉姫の女将に付いて来てもらったんだよ」
穴があったら入りたいとは、こういう時に使うのだと久保田奈津は知った。下を向いたまま進藤の顔を見ることは出来ない。
「気にするな。若い時は俺だって色んな事をやらかしたもんだ。それより、今から茉姫に行くけど一緒にいくか?」
「はい、是非連れて行ってください。御礼とお詫びを言いたいです。すいません、部長。少しだけ寄り道していいですか?」
「ああ、構わないけど」
奈津は大通りを反対側に渡って路地を少し入った所にある行きつけの花屋さんに寄った。
「いらっしゃいませ。あら、なっちゃん。今日だった?お母さんの月命日」
「違うの由美子さん。ちょっと御礼に花をと思って」
「珍しいね。お連れさんがいるじゃない。なっちゃんの彼氏?」
「違うよ。会社の上司」
「これはこれは失礼しました」
「これなんて言う花?」
「デイジーだよ」
「じゃ、これを1500円分」
今の奈津にとっては1500円は大金だった。一日500円を目標に生活をしているので三日分になる。
「なっちゃん、今日は特別にサービスしとくよ」
そう言って由美子さんはデイジーに可愛いリボンをつけて花束にしてくれた。
「いらっしゃいませ」
和服姿の茉姫が二人を出迎えた。
「女将さん、先日はご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いいのよ。それより、次の日大丈夫だった?」
「死にました」
「まぁ!でも生還したようね。どうぞこちらへ」
「女将さん、これ」
「あら、可愛い。デイジーね」
「御礼というか、お詫びというか。受け取ってください」
「ありがとう、奈津さん。お花を頂くのはいくつになっても嬉しいわ」
「女将、ビールを。久保田さんもビールでいいかい?」
「部長。今日はお酒、やめときます」
「こないだの事気にしてるのか?いいから一杯付き合え」
「それでは一杯だけ」
「湯豆腐でもどうだ?女将の手作り豆腐は美味しいぞ」
「はい、食べたいです」
「ところで、中島さんのことだが、今日の昼に話をした。久保田さんに仕事を押し付けていたことは注意してないから安心しなさい。五年目の社員として会社が期待していると言ってある」
進藤圭太は中島佳代との細かいやりとりの話はしなかったが、奈津が仕事をやり難くなるような言い方はしていない事だけはわかった。奈津にはその心遣いが嬉しかった。そして、進藤圭太の期待に応えられるように早く一人前になりたいと思った。
「すっごく美味しいんですけど!こんな豆腐食べたの初めてです」
「奈津さんたら、大げさなんだから。でも嬉しいわ。沢山召し上がってくださいね」
「いや、女将の作る豆腐は本当に美味い。お世辞ではないよ」
「圭ちゃんまで…。実はね、私、京都の豆腐屋の娘だったのよ。父は私が十五の時死んでしまったんだけどね。母のお腹にいる時から豆腐で育っているので味にはちょっと厳しいんですよ。それではごゆっくり」
女将さんのお父さんってどんな人だったんだろう?
優しい人?
それとも厳格な人?
奈津は父親の事を全く知らない。だから、奈津は想像の中で父親像を作っていた。今となっては、唯一、父を知る母もこの世にはいない。奈津が小学四年生の時、父のことを母に聞いたことがあった。その時、母の顔に暗い影が落ちた。そして、優しい母の顔が般若のように恐ろしい顔に変わった。そして、母が口にした言葉は「死んでしまった人のことなんて忘れた」だった。幼い奈津はその時、人は死んでしまったら大好きな人のことでも忘れてしまうのだ。何もなかったことになってしまうのだと知った。恐ろしさでそれ以上父のことは母の前で口にも出せなかった。奈津が父のことを聞いたのは後にも先にもこの一回限りだ。だから父の事は全く知らない。
しかし、母が死んでから一つだけ明確になったことがあった。その時に初めて戸籍謄本というものを市役所に行って出してもらった。死んでからの手続きには、何かとこの戸籍謄本が必要だったからだ。父と母の名前が記載されている欄に母の名前しかなかった。父の欄は空白だった。その意味がわからず窓口の人に尋ねた。「お父さんがいないという事です」と言われたので「死んだら空白になるのか」ともう一度尋ねた。「死んだからと言って空白になるのではなく、親にあたる人はお母さんだけと言う事になります。婚姻せずに生んだという事です。もし、父親が自分がこの子の父ですと認めた場合は認知といって父親の名前はここに記載されます」と淡々と説明をしてくれた。はっきり言って、母が死んだ悲しみよりもこの事実のほうに衝撃を受けた。奈津の父親という人は、実はどこかで生きているのかもしれない。そして、生きていたとしても、どこに居るのか分からない。それどころか名前も知らないなんて、笑うしかなかった。市役所の帰り道、奈津は笑いながら泣いた。道ゆく子供連れの夫婦が二人して奈津を見た。子供は「お姉ちゃん、泣いてるの?笑ってるの?」とパパとママに聞いていた。
「久保田さん、久保田さん」
進藤圭太が心配そうに奈津の顔を覗いていた。
「はい!」
「よかった。ボーとしてたから、もう酔ってしまったのかと思ったよ」
「すみません。ちょっと、昔のことを思い出してしまって…」
「どんな事?」
「大した事ではありませんよ」
「なら、良いけど。何か思い詰めているような顔してたから。僕でよければ、いつでも聞くからね」
「部長。日本酒頂いていいですか?」
「もちろんだよ。女将、熱燗」
奈津の体中をお酒が駆け巡った。お酒は現実や嫌な事を忘れさせてくれる。だが、体の奥深い所でどんな時でも隙を狙い、待ち伏せをしている。結局は忘れる事なんてできないのだ。
前回のように記憶がなくなるほどは酔ってはいなかったが、椅子から立ちあがった瞬間、よろめいた。進藤は咄嗟に倒れそうになった奈津の腰を引き寄せ支えた。
「進藤部長。すいましぇん」ろれつの回らない奈津は深々と頭を下げたが、そのまま進藤の肩にあごを置いて眠りについた。
「女将、悪い。タクシーを呼んでくれ」
「奈津さん、大丈夫?」
「はい。大丈夫でちゅ」
手を上げて応えたが再び眠りについた。進藤は奈津を支えて一緒に車に乗り込み、運転手に奈津の住むハイツの住所を告げ、その後自宅迄行ってくれるように頼んだ。奈津は進藤の肩の上で子供の様に寝息を立てていたが、時々、何かを思い出すのかすすり泣いていた。進藤は奈津の頬を流れる涙を自分の指で拭ってやった。
「久保田さん、家に着いたよ。起きれる?」
「はぁーい。大丈夫です」
タクシーから降りた瞬間、奈津の靴が脱げて、地面に座り込んでしまった。
「運転手さん、ちょっと此処で待っててください」
「久保田さん、しっかり僕につかまって」
進藤はすでに力を失った奈津を抱き上げて部屋のベットの上に寝かせてやった。鍵を掛け扉に付いている新聞受にその鍵を入れた。ガシャと鍵が新聞受の底に落ち大きな音を立てたが奈津が起きた気配はなく、進藤は何故かホッとした。
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