三章 後悔

 片岡舞は進藤圭太と同期入社の二十五才。入社して直ぐに進藤は片岡舞と意気投合した。同期社員数人と会社帰りに食事をしに行ったり、飲みに行ったりしていた。休みの日には、バーベキュー、ボウリング、カラオケなどレクレーションを一緒に楽しんだ。いつ頃からか二人だけで出かけるようになり、お互いを意識するようになったが、気持ちを中々言い出せないでいた。理由は同じ部署に配属になり、これからドンドン仕事を覚えないといけない時期に仕事がしづらくなる事を懸念したからだ。恐らく、片岡舞もそう思っていたと思う。友達以上恋人以下の関係だということだ。

 進藤圭太と片岡舞が入社して一年が経った時、人事異動で東京本社から安倍泰治が進藤と舞のいる営業部に配属された。退職する人の送別会兼安倍泰治の歓迎会が一週間後に決まった。そのセッティングは入社一年目の者がするという暗黙のルールがあり、当然ながら進藤と舞が担当することになった。事前に安倍泰治の好きな食べ物、嫌いな食べ物等を片岡舞が聞いて店の手はずをする事となった。これが安倍泰治と片岡舞の初めての接点だった。歓送迎会は滞りなく終わり、退職する人からは何度も二人にお礼を言われ、最後は涙ぐんでいた。安倍泰治も二人にお礼を言ってくれたが目は片岡舞の方ばかり見ていた。次の日、安倍泰治に昼飯に誘われ、会社ちかくの蕎麦屋に行った。

「進藤君、確か片岡さんと同期だったよね」

「はい。それが何か?」

「おっ、来たぞ。食べよう」

 ここの蕎麦屋は昭和の四十五年大阪万博開催の年に開業。それから、変わることなく味を守り続けている人気の店だ。蕎麦通の人は遠方からでも食べにくる。今日も満席だ。一気に食べ終えた安倍泰治が続きの話を切り出した。

「片岡舞さんの事だけど、彼女付き合ってる人とかいるの?」

「何でそんな事きくんですか?」

「いい年して言いにくいんだが、一目惚れっていうの?好きになったんだよね」  

「えっ?そんなの知りませんよ」

 進藤圭太は片岡舞への思いを押し殺し、仕事を優先しているというのに、自分とは正反対でストレートな安倍泰治がなぜか羨ましいかった。

「頼む。それとなく聞いてくれ」

「…」                 

 進藤は一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちが押さえられなかった。伝票を取り席を立とうとすると素早く伝票を取り返し安倍泰治が会計を済ませた。

「今日は、俺の奢り。頼んだよ、進藤君」

 安倍泰治は進藤圭太の肩をポンと叩いて走り去った。

 その日から、進藤は安倍泰治から目が離せなくなった。片岡舞に手を出すのではと気が気ではなかったからだ。「この垂らし男が!」と思わず叫びたくなるのをグッと我慢した。

 ところが、仕事における安倍泰治は非常に無駄がなく飛び抜けて出来る男だった。監視しているはずの進藤圭太だったが、垂らし男から尊敬する先輩へと気持ちが変わっていった。進藤は一流大学を出て三カ国語を話せる優秀な社員ではあったが、安倍泰治のように仕事が出来る男になるには挫折を含む様々な経験が必要だと思った。何事も躊躇なんてしていられない。一人前と認めてもらえるためには体当たりで立ち向かって行かねばと自分自身に誓った。

 安倍泰治からのお願い事を放ったらかしたまま、二週間が過ぎた。その間、片岡舞と仕事帰りに食事に行くことも数回あった。何度も聞こうとは思ったのが、自分に好意があるのではと思っている相手に「彼氏いる?」なんて聞いたら「付き合ってください」と言っているようなものだ。それに、ずっと前から舞の事が好きなんだという思いから、橋渡しのために聞く事なんてできなかった。痺れを切らした安倍泰治からメールがきた。

「お疲れ!例の件どうなった?」

「すいません。まだ聞けてません」

「お前、仕事が遅いぞ。まぁいい。明後日の金曜日の夜、舞ちゃんも誘って五、六人で飯を食べに行こう。頼んだぞ」

 安倍泰治の方を見ると進藤圭太をチラ見しただけで、次々と仕事をこなしていた。

 金曜日の夜は片岡舞を含む十人が参加した。みんな、仕事が出来る安倍泰治に一目置いていた。そして安倍泰治の事がもっと知りたくて、この食事会は安倍泰治中心に大いに盛り上がった。盛り下がっていたのは言うまでもなく進藤圭太だった。 

「進藤君。体調悪い?」声を掛けてくれたのは片岡舞だった。

「大丈夫。昨日、夜遅くまでビデオ観てたから睡魔が襲ってきた」

「ならいいけど。無理しないでね」

 心遣いが嬉しかった。

 場所を移動してカラオケボックスに行く事になった。酒の強い者もいたが皆一様にいい感じに酔っ払っている、進藤圭太を除いては。

 片岡舞もおぼつかない足取りで段差でよろめいた。素早く腕を引っ張ったのは安倍泰治だった。「クッソー。この女垂らしめ」と口には出さないが煮えたぎる心の叫びを握り拳に収めた。

 お開きになったのは夜中の一時を過ぎていた。もちろん終電の時間はとっくに過ぎている。各々方面ごとに分かれ、タクシーに乗り込んだ。安倍泰治と片岡舞が同じタクシーに乗り込む姿を静止画で見ていた。思わず、タクシーの窓ガラスを叩くと安倍泰治がVサインをしてきた。

「進藤、今日はありがとうな。気を付けて帰れよ」

 そう言って目の前のタクシーが過ぎ去って行くのを放心状態で見送った。

 翌週の月曜日。進藤圭太は腑抜け状態で出勤した。「おはよう」と声をかけた片岡舞がなぜかよそよそしく感じたのは気のせいではなかった。昼前に安倍泰治からメールがきた。

「報告したい事がある。昼飯奢るから付き合え。この前行った蕎麦屋で。よろしく」

 嫌な予感しかしない。

「好きなのを頼め」

「先輩と同じでいいですよ」

「遠慮するな。おやっさん天ぷら一人前追加してください」

「ありがとうございます」

 進藤圭太は一応、礼儀として礼を述べた。

「進藤。あの後、思い切って舞ちゃんに聞いてみた。そしたら今付き合っている人はいないって」 

「それで?」

「意を決して、真剣に付き合ってくださいって言ったんだ」

「えっ!」

「舞ちゃん、何て言ったと思う?」

 ニヤニヤと鼻の下を長くして安倍泰治は言った。

「考えさせて下さいって。脈ありだと思わないか?」

「……」

「今週中に攻めるぞ」 

 進藤の頭の中は真っ白だった。そして、後悔の念が渦巻いていた。仕事にかこつけて、自分の気持ちを押し殺していた。いや、好きだと言って、彼女に断られるのが怖かったのかもしれない。安倍泰治に対して、頑張って下さいとも応援しますとも言えなかった。

「先輩。片岡舞さんは付き合っている人はいないと言っただけで、好きな人はいるかもしれないじゃないですか!」

「そんなの関係ないよ、進藤君。男と女なんて付き合ってみないとわからない。例え今、彼女に好きな人がいても俺の事をもっと好きにさせるよ」 

 安倍泰治はなんという自信家なのか!仕事を見ていてもそれは表れている。とにかく安倍という男は常にポジティブでフットワークが軽い。今の進藤とは全く違う。

「クッソー。いつかこいつを抜いて、でっかい男になってやる」

 もちろん、進藤圭太の心の叫びであって声には出していない。

 その後、安倍泰治の言った通りになった。

 何もアクションを起こさないまま進藤の片思いは終わった。半年ほど経って、安倍泰治と二人で新地に飲みに行った時、片岡舞が心を寄せていた相手が進藤圭太だったと聞かされた。完全にノックアウト。ゴングが頭の中で鳴り響いた。


 人事部から辞令が下りた。

 進藤圭太は東京本社への異動決まった。

 進藤圭太を送り出す送別会が開かれた。入社以来、この営業部で汗水流して仕事をしてきた仲間と別れるのは、やはり感慨深いものがあった。しかし、この先も会社にいる限りは何処へ飛ばされるかはわからない。どこに行ってもやるべき事を全力でやる。そして、即行動だ。今となっては、安倍泰治に叩きのめされた苦い思いは進藤の原動力となっている。

「進藤君。本社に行っても頑張ってね。すごく寂しいけど応援してるから」

 そう言って片岡舞が大きな目から涙を流して言ってきた。やっぱり俺は舞の事が好きだ。

 抱きしめたい。進藤も心で泣いた。

「片岡、ありがとう。お前がいたから今日まで頑張れた。見ててくれ、仕事のできる大きな男になるからな」

「……」

 二人は握手をした。

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