二章 茉姫

 進藤圭太は手を上げて表通りを走るタクシーを拾った。タクシーは社屋を通り越し、路地に少し入った所で止まった。

 暖簾には『茉姫』と書かれていた。

「さぁ、入りましょう」進藤が暖簾をくぐり奈津も後に続いた。

 四十才手前くらいの美人女将が和服姿でカウンターの外に出てきた。

「いらっしゃいませ」

 頭を軽く下げて二人を出迎えてくれた。女将はしばらく進藤の顔を不思議そうに見つめていた。   

「やだ。圭ちゃんじゃない!いつ戻って来たの?元気にしてたの?」

「すっかりご無沙汰してしまって、すいませんでした。先週、戻ってきたんです」 

「ごめんなさい。とにかく座って」

 女将がカウンター席を勧めた。

「東京に行ってから、偉く出世したらしいじゃない。阿部ちゃんが言ってたわ」 

 女将はおしぼりを出しながら、進藤圭太に言った。

 安倍ちゃんとは奈津の会社の総務部長のことだ。進藤圭太がまだ二十五才だった頃、上司の安倍泰治によく連れられ、この『茉姫』に来ていたのだ。 

 あの頃、進藤圭太も安倍泰治も営業部にいた。会社は過渡期で、営業部は毎日残業と接待続きだった。仕事に対するやりがいは皆一応に感じていた。しかし、家には寝に帰るだけの日々がやけに虚しく感じられる時があった。そんな時、止まり木を求めて夜の街へと繰り出した。まだ、お酒の飲み方もわからない若き進藤圭太は酷く酔ってしまい、安倍泰治の肩を借りて何とか歩いていた。それでも、何度か電柱に抱きついたり転んだりした。とうとう、支えきれなくなった安倍泰治はどこかで休憩しようと路地に入った。その時にこの「茉姫」という小料理屋を見つけたのだ。女将に事情を話すと快く了解してくれ、おまけに進藤圭太に肩をかして店の中へと運んでくれた。その時の記憶は進藤圭太にはない。朝、起きると座敷の上に寝かされ、掛け布団をかけられていた。着ていたスーツの上下とワイシャツはハンガーに吊るされ、アイロンまでかけられていた。机の上にはおにぎりが二つと卵焼き、お茶がお盆に載せられ、手紙と一緒に鍵が置いてあった。 

 

 おはようございます。

 

 酷く酔っていらっしゃったので、起こさずに帰らせて頂きました。

 朝ご飯、大した物は用意できなかったのですが、召し上ってください。

 鍵は表の郵便受けに入れておいてください。

                

      小料理屋 茉姫

          女将 橘 茉姫   

          

 それからというもの、週に四日、下手すると土日以外は小料理屋・茉姫へ進藤圭太は安倍泰治と通った。家庭料理的なものも出してくれるので、毎日通っても飽きる事はなかった。ある時、ビールを注文すると麦茶がビールジョッキに入って出された事があった。「飲み過ぎ!今日はお酒はありません」と女将に怒られた。まるで、奥さんにでも言われているかのようだった。女将は体の心配もさり気なくしてくれる気の利く女性だ。独身で独り暮らしの二人にとって、小料理屋・茉姫は安らぎを与えてくれる家のような場所だった。いつまでも変わらず、ここへ通う日々が続くのかと思っていたが二年ほどして、東京への転勤の話が示唆された。進藤圭太か安倍泰治かどちらかが行く事が内々で決定され、事前に二人が呼ばれ希望者はいないか聞かれた。その時、二人共返事を渋った。進藤圭太に渋る理由はなかったが、転勤と同時に昇進が決まるので先輩を差し置いて「僕が行きます」とは、言えなかった。

「おい、今晩一杯付き合え!」

「はい。茉姫でいいですか?」

「おぉ」

 安倍泰治に言われ、落ち合うことになった。と言っても、ほぼ毎日のように二人は茉姫へ通っているので約束なんてしなくても会えるのだ。

「いらっしゃい、圭ちゃん」

「とりあえず生ビール」

 女将がおしぼりを進藤圭太の手のひらに載せた。そして、菜の花の辛子和えをカウンターに置き、生ビールを運んできた。

「圭ちゃん、お疲れ様。何かあった?」

「ドキッ。女将には隠し事はできないな」

 その時、店の扉が開き安倍泰治が入って来た。

「あら、安倍ちゃんいらっしゃいませ。待ち合わせなのね。どうぞ」

「女将、俺も生ビール」

「先輩、お疲れです」

 二人はジョッキを鳴らし乾杯した。   

「進藤。こないだの山石商事の件、上手く行ったのか?」

「最後の最後に案の定、石井部長の横槍が入りましたが、先輩のアドバイス通り先手を打って準備しておいたので、昨日、商談成立しました」

「そうか。おめでとう。お前は着々と成長してるな」

「これも全て先輩のおかげです。ありがとうございます」

「もう一度、乾杯や」

「季節物の一品です」

 女将がフキノトウの天ぷらをカウンターに置いた。二年前に初めてこのフキノトウを食べた時、独特の香りと苦味に思わず吐き出してしまった進藤だったが、慣れると癖にになる一品で今では好物になっている。

「女将。日本酒、熱燗で。お猪口は二つね」安倍泰治がカウンターの中にいる女将に言った。女将が徳利に入った熱燗を持って来て二人のお猪口に注いでくれた。 

「女将も一杯付き合え」

「私を酔わせても何もでませんよ」

「わかってる、わかってる」 

「それでは頂きます」

 女将はお猪口のお酒を一気に呑み干し、奥の座敷のお客の所へ料理を運びに行った。 

「なぁ、進藤。今朝の人事の件だけど、お前どうしたい?」

「先輩こそ、どうされたいんですか?」

 進藤圭太の問いかけに安倍泰治はしばらく返事をしなかった。

「女将、もう一本浸けてくれ」

「はい。直ぐお持ちします」

 安倍泰治は運ばれて来たお酒を進藤圭太に注いだ。

「進藤、東京へはお前が行ってくれ。頼む」

 そう言って安倍が頭を下げてきた。

「でも、先輩。東京へ行きたがってたじゃないですか」

「それはそうなんだが…」

 進藤は自分のお猪口にお酒を注いで一気に飲み干した。

「言いにくいんだが、実は腹ましてしまって…」

 消え入りそうな声で進藤は言った。

「えっ! 何て?」 

「だから、妊娠しちまったんだよ」

「えーーーー!誰が妊娠したんですか?」

「おまえ、声がでかいんだよ」

「すいません。誰の子なんですか?」

「だ、か、ら、俺の子」

「相手、誰なんですか?」

「高森千里」

「えー。ちょっと待ってくださいよ。高森千里って人事部の人ですよね。先輩より十才は年上じゃあないですか!何で?」

「成り行きというか…、勢いっていうか…」

「いや、待ってくださいよ。先輩、片岡舞と付き合ってるんですよね」 

「進藤、助けてくれ!」

 そう言って、両腕で頭を抱えてこんだ。

「舞さん、この事知ってるんですか?」

「言ってない。言おうと何度も思った。けど何の疑いもしない舞を見ると言えないんだ」

 進藤圭太は空になった徳利を顔の前で左右に振って女将に催促した。

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