32. もう会うことはないと思っていました
宮殿で働く女官たちの噂は事欠かない。
最近の噂はもっぱら、ユールスール帝国の使節団のことだ。治水技術と市場視察のために訪問したのは外交官だけでなく、皇太子と次期皇太子妃も同行していた。
皇族の紋章を掲げた馬車で訪れた未来の皇太子夫妻は、帝国風のきらびやかな装いと振る舞いで、貴族だけでなく女官たちからも注目を集めていた。
彼らの滞在先は宮殿の北に位置する、すずらんの館。世話役は上級女官が務め、補佐として下級女官も割り当てられていたが、セラフィーナはラウラの配慮で担当から外された。だから会うことない。そう思っていたのに――。
見知らぬ上級女官に連れてこられた先はすずらんの館だった。等間隔に置かれた花瓶にデルフィニウムとカスミソウが生けられている。
毛足の長い絨毯の上をしずしずと歩き、応接間に通される。部屋のあちこちに、すずらんの彫刻が施されているのは同じだが、内装はすっかり帝国風に変わっていた。
それから長椅子で礼儀正しく座っている淑女を見て、セラフィーナは息を呑んだ。
(なぜ、彼女がわたくしを? ディック殿下に呼び出されたのだとばかり思っていたけれど……)
意外な人物に言葉を失っていると、銀髪の姫が立ち上がる。
いつも悲しげな表情をしていたように思うが、目の前の賓客は目元をゆるめて穏やかに微笑んだ。
「セラフィーナ様、お元気そうで安心いたしました。ディック殿下もあなたのことを気にかけておいででした」
向かい合う碧眼に怯えや不安な色はない。堂々とした佇まいは未来の皇太子妃にふさわしく、記憶の中の姿と明らかに違っていた。戸惑いが先に立つほどに。
その動揺を見透かしたように、マリアンヌが上級女官にお茶の用意を申しつける。
立ちすくむセラフィーナに向かいのソファに座るようにやんわりと促し、マリアンヌもゆったりと腰を下ろす。夏空のドレスは純白のレースとリボンが縫い付けられ、涼しげなデザインだ。
落ち着きを払った様子は、どこからどう見ても立派な淑女だ。おどおどした印象が強かっただけに、呼び出した意図がわからない。
(一体、どういうつもりかしら……?)
しばらくしてレモネードが注がれたティーカップが目の前に置かれる。
上級女官がお辞儀をして退室していったのを確認し、セラフィーナは口を開いた。
「……ディック殿下はいらっしゃらないのですね」
「はい。あの方は、こちらにセラフィーナ様がいることすら知らないはずです」
口ぶりからして、公務で外に出ているのだろうと推測する。
「ご用件を伺います」
元婚約者の用件などろくなものはないと思いつつも、ここまで来てしまった以上、話を聞かずに逃げるわけにはいかない。
マリアンヌは目を伏せた。自然と黄緑のアイラインに目がいく。口紅は薄い桃色で、清楚な雰囲気に仕上げている。揃えた指先はきれいなままで、水仕事で荒れた自分の指をとっさに隠す。
張り詰めた空気を断ち切ったのは静かな懺悔だった。
「私はあなたに謝らなければと、ずっと思っておりました」
「……どういうことでしょう?」
「だって、私への嫌がらせを主導していたのは、セラフィーナ様ではないでしょう?」
ため息をつく代わりに、ティーカップの取っ手に指をかける。夏らしい爽やかな風味で喉を潤し、ソーサーごとテーブルにそっと戻す。
セラフィーナは右手の上に左手を重ね、背筋をピンと伸ばした。
「以前も申し上げましたが、咎めなかった責はわたくしにあります。わたくしが止めていれば、マリアンヌ様が悲しい思いをすることはなかったはずですから」
「ですが……あなたは一度、私を助けてくれたでしょう? なのに、恩知らずな真似をしてしまって、本当に申し訳なく思っています」
「あいにくと記憶にございません」
無表情でしらばっくれたが、マリアンヌは首を横に振った。
「いいえ、私はしっかり覚えています。図書当番で残って片付けをしていたとき、本棚が倒されて帰るに帰れなくなったことがあります。途方に暮れていた私を助けてくれたのはセラフィーナ様でした」
「……記憶違いではありませんか?」
「そんなことはありません。お顔は見えませんでしたが、あのときのお声は確かにセラフィーナ様のものでした。司書の方を呼んできてくれ、助けてくださいました」
まさか、声だけで勘づかれていたとは思わなかった。
セラフィーナは軽く驚いたものの、態度に出すことはしない。何ということはないという顔で反論を試みた。
「……仮にそれが事実でも、わたくしはあなたの恋敵だったのですよ? 感謝されるいわれはありません」
あえて冷たく突き放すと、マリアンヌは表情を自嘲気味にゆがめた。
「そうですね。どうしてこんなことになってしまったのか……。ディック殿下がエスコート役を申し出たときは本当にびっくりしました。殿下にはセラフィーナ様という婚約者がいらっしゃるのに、どうして私なんかを、と」
「…………」
「母国では、その……いい思い出がなくて。周囲から疎まれることには慣れていましたが、殿下は不甲斐ない私にも心を砕いてくださいました。何か困ったことはないかと声をかけてくださり、安全という名目で殿下と過ごす時間が長くなりました。私はその優しさに甘えてしまった。ディック殿下から想いを告げられたとき、弱い私はそのまま受け入れてしまいました」
そのまま頷きかけて、あれ、と内心首をひねる。
(てっきりマリアンヌ様から告白したと思っていたけれど、実は違ったということ?)
談笑して寄り添う二人の背中を目にしたときの疎外感は、今も胸に残っている。けれどもマリアンヌから好意を寄せていたように見えたのは、婚約者を取られたという嫉妬のせいもあるかもしれない。
(裏返せば、あのときのわたくしは冷静ではなかったということよね。勝手に深読みして結論を出してしまったのだから)
だがどういう経緯にせよ、ディックはマリアンヌと一緒にいる未来を選んだ。セラフィーナは選ばれなかった。その事実が覆ることはない。
この恋物語はすでに終幕している。非道な婚約者は断罪され、虐げられたヒロインは本物の愛をつかむ。皆が望むハッピーエンドだ。この期に及んで悪役の再登場など、誰も喜ばない。たとえ続編があったとしても、セラフィーナの出番はもうないのだ。
「わざわざ、そんなことを言うために、わたくしをこの場に呼んだのですか?」
「……ディック殿下は、今もあなたのことが好きなのだと思います」
「…………」
「私だけを見てほしいと思うのに、ふとしたとき、物思いにふけることが多くなっています。あなたの存在はきっと皆が思っているより、ずっとずっと大きいんです」
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