31. 嫌な予感とは的中するものです
今朝、食堂でラウラに会うと「しばらく伯父様のことを頼んだわね」と言われてしまったので、しっかり食べた後に文官棟へ向かった。
ノックするとすぐに返事がして、中から扉が開く。
「やあ。おはよう」
「おはようございます。ラウラ先輩から当面の間、こちらを手伝うように指示を受けてきました」
「さすが私の姪だ。さあ、入ってくれ」
仕事の目処が立ったからだろうか、ローラントの顔つきは晴れやかだ。急ぎの仕事は昨日のうちにあらかた済ませたので、今日は片付けより事務処理がメインになるだろう。
セラフィーナは数歩進み、無言で部屋の中を見渡した。
昨日は遅くまで頑張った甲斐があって、後ずさりしたくなるような光景はだいぶマシになっている。少なくとも歩くスペースは確保されている。
「昨日教えた通り、書類の不備があればよけておいてくれ。他に何か疑問に思うことがあれば、速やかに言うように」
「かしこまりました」
空いている机を借りて、紐で無造作に束ねられた羊皮紙の中を確認していく。あらかじめ定められた形式に書きこまれた文面を目で追い、書きもれはないか、金額の桁はおかしくないか、簡単な部分をチェックしていく。
(書類仕事はお妃教育の一環として鍛えられたと思っていたけれど、よく考えれば書類仕事って文官がしてくれるから、皇太子妃の予行練習というよりお父様の仕事を手伝わされただけだった気がするわ……)
完璧を求められる父親の期待に応えようと、昔から与えられた課題には全力で取り組んできた。とはいえ、過去の努力が今につながっているのだから、人生は可能性に満ちている。
セラフィーナの場合、それに加えて郵便工房での勤務経験も活かされている。実際に対面で客商売をし、いろんな客を見てきた。宛先の住所一つをとっても、部屋番号まで几帳面に書く者、適当に書いて番地が抜けている者、覚え間違いをそのまま書く者。
それぞれの癖を見てきたからこそ、どこがミスが起きやすいか、見えてくることもある。
意識的か無意識かの差はあれ、ミスは思わぬところに潜んでいるものだ。
「やはり……惜しいな」
ローラントが仕事しやすいように関連書類を時系列に並べたものを提出していると、独り言のような声が聞こえてきた。
彼の視線の先は書類にあるが、まるでセラフィーナに聞かせるような言葉だった。
一日の付き合いだが、ローラントの行動パターンをだいたい把握した今、無言のままでいるわけにもいかない。
「……何がですか?」
セラフィーナが言うと、その言葉を待っていたようにローラントがこちらを見た。狐目にまっすぐに見つめられ、負けじと見つめ返す。
しばらくして先に折れたのはローラントだった。ため息交じりに口を開く。
「君のことだ。下級女官にしておくのは惜しい人材だ。文官としての素質も申し分ない。転職する気はないか?」
「……本音をこぼせば、文官の仕事は性に合っているとわたくしも感じます。ですが、ラウラ先輩のもとで働くと決めましたので、下級女官のままで大丈夫です」
「私が推薦すれば、上級女官の道も拓けるぞ?」
「道は自分の力で切り開くものです。楽して身分が高くなっても、他の方が納得しないでしょう。わたくしは今のままで充分です」
もし上級女官になれば、責任も増えて自由が利かなくなってしまう。いざというときに動ける今の環境はできれば手放したくない。
(すべては三年後も笑って過ごせるために……!)
魔女のフラグを折り、自由を勝ち取るためには下級女官のほうがいい。
けれど、そんな事情を知らないローラントは、解せぬというように眉間に皺を寄せた。
「野心は……ないのだな」
「そういったものには興味ありません。ですが、こうして評価していただいたことは嬉しく思います」
素直な感想を口に乗せると、仕方がないといった風にローラントが目を伏せる。
「……わかった。こういうことは無理強いするものでもないだろう。君の好きにしなさい」
「ありがとうございます!」
セラフィーナの思いを汲んでくれた彼の答えに胸がいっぱいになりながら、用意していた次の書類を手渡す。ローラントは無言でサインをしていく。
ペンが走る音を聞きながら、セラフィーナは次の書類の山を取りに向かった。
◇◆◇
文官棟でローラントの補佐をするようになって早四日。寝込んでいた部下が明日には復帰するらしく、その引き継ぎ資料を作っている中、ラウラが差し入れとともに顔を出した。
「食堂で見かけなかったから、もしかしてとは思っていたけど。ご飯抜きでやっていたんじゃないでしょうね?」
ずずいっと顔を近づけられての詰問に、セラフィーナは早々に白旗を揚げた。
「……お察しの……通りです……」
「あなたも伯父様も職業病なのかしら。というか、伯父様は?」
「ローラント様……事務次官は会議に出ていらっしゃいます」
「ふうん。じゃあ、これはあなたが食べなさいな。きっと伯父様は何かつまんでくるでしょうから」
「え、でも量が……」
どう見ても、お皿に盛られたのは二人分だ。とても一人で食べきれる気がしない。
だというのに、ラウラは一歩も引く気がないようで、腰に手を当ててこっちを見上げていた。
「――セラフィーナ。食べることは生きることよ。食べることへの執着を忘れないで。食事を抜いたら元気が出ないでしょう?」
「……はい。いただきます」
有無を言わさぬ口調に、素直にサンドイッチに手を伸ばす。一口かじると、シャキシャキのレタスに包まれたチキンとマヨネーズが口の中で混じり合う。薄く切られたチキンはまだ温かく、きっとラウラがわざわざ頼んで作ってもらってきたのだと容易に推測できた。
次に手に取ったのは卵サンドだった。仁王立ちで監視されながら、二種類のサンドイッチを交互に食べていく。異様な光景だったが、自分を心配してくれてこその行動だと思うと、何も言えない。むしろ、心がじんわりと温かくなるようだった。
(こんなに誰かに心配されたのって、久しぶりかもしれない……)
思い出すのは飲食店のバイトをかけ持ちし、無理がたたって高熱を出したときのこと。
同期の仲間が家まで来て軽くお説教の後、散らかっていた部屋を片付けてくれ、最後は喉ごしのよい野菜スープを作ってくれた。体が全然動けないときに、あれこれと身の回りの世話をしてもらったことで、申し訳なさと同時に感謝の念でいっぱいになった。
目をそらさないのは、大事な話があるから。本気で怒ってくれたのは、自分の体を大事にしていなかったから。病気を治してほしいのは、また一緒に働きたいから。
そんな気持ちを受け取り、とにかく早く元気にならなきゃと思ったことだけは強く覚えている。
(体は資本。そう教えてくれたのはジャネット、あなただったわね……)
昔の仕事仲間を思い出しながら食べると、少し味がしょっぱく感じた。結局、セラフィーナが食べられたのは三分の二が限界だったが、ラウラからは仕方ないわねと言われたので、とりあえず危機は脱したといえる。
ラウラが淹れてくれたお茶を飲んでホッとしていると、不意に彼女の声のトーンが下がった。
「……セラフィーナ。心して聞いてほしいんだけど」
「何でしょう?」
心なしか重たい空気の理由に見当がつかず、小首を傾げる。
すると、ラウラは少し悩むように目線をさまよわせた後、唇を引き結んだ。
「……私もさっき知ったばかりなんだけどね、先ほどユールスール帝国から使節団が到着したのですって」
「そう……ですか」
「治水技術の視察だそうよ。その使節団の中にはね、紋章付きの馬車で来た人がいたらしいわ」
「…………え?」
本気で言われたことの意味が理解できず、素で返してしまった。
けれど、ラウラは特にそれを咎めることなく、言葉の続きを口にした。
「どうやら本来は外交官だけが来るはずだったらしいけど、急遽、皇太子様もついてきたらしいの」
「…………」
「ディック・ユールスール。あなたの婚約者だった人よね?」
まさかクラッセンコルト公国に来てまで、その名を聞くとは思わなかった。
なぜなら、もう会うことのないはずの人物だったのだから。
嫌な予感が背中から這い上がり、セラフィーナは困惑したまま、とりあえず頷き返す。
「ええ、そう……です」
「私も遠目でしか見ていないけど、彼は女性を伴っていたわ。侍女や女官じゃない、貴族令嬢をね」
「え……まさか……」
「そう。そのまさかよ。彼は自分の婚約者を連れてきているの」
これが嘘ならどんなによかったか。口元を手で覆い、うつむく。
(外交官に任せればいい案件に、わざわざ皇太子自ら来ただけでなく……婚約者を連れて……? 一体、何のために……?)
自分が婚約者だった頃、彼の仕事についていったことなど当然あるはずもない。
もしかしたら、仕事はついでで観光が本来の目的ということもある。だとすれば、これは俗にいう婚前旅行というやつではないだろうか。
(そこまでマリアンヌ様のことを思っていらっしゃる、ということかしら……)
自分との扱いの落差に、気にしないようにしていた胸の痛みが再発しそうになる。
「明日からあなたも元の持ち場に戻る手筈だったけど、その顔を見る限り、使節団の担当からは外したほうがよさそうね」
「……そうしていただけると……助かります」
「大丈夫よ。このラウラさんに任せなさい。じゃあ、私は仕事に戻るから」
「あ、はい。ありがとうございました……」
ピンクゴールドのお団子頭が軽やかに揺れるのを見送った後で、セラフィーナは肩から力を抜いてため息をつく。
(向こうはわたくしが下級女官になっているなんて露ほども思ってないでしょうし、きっと大丈夫……よね……?)
もちろん、会わないに越したことはない。お互い気まずいだけだろうから。
けれどもし、会ってしまったら――。
自分はどんな顔をすればいいのか。ふと脳裏をよぎるのは、この女は魔女に違いないと指さされた未来の光景。態度を豹変させた彼の目にははっきりと侮蔑の色が浮かび、自分を必要以上に責め立て――そこまでの流れを思い出し、ふるふると頭を横に振る。
(未来を混同しちゃだめよ、セラフィーナ。あれは消えた未来。ちゃんと目の前の現実を受け止めなきゃ)
だがあれは、言い換えれば、未来の可能性とも表現できるのではないか。そう思うと、言いようのない不安が押し寄せた。
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