30. 白羽の矢が立つとは思いませんでした

 季節は夏本番。照りつける日差しはきつくなる一方で、時折吹く風が回廊を吹き抜けていく。湿度を抑えた夏は気温の高さに比べて、いくらか過ごしやすく、セラフィーナも夏服で宮殿の中を走り回るのも慣れてきた。

 そんな中、掃除の人数が足りないと駆り出されたのは、すずらんの宮だった。

 なんでも他国の使節団が滞在する予定らしく、使用人一同で入念な掃除をしているかたわら、調度品の入れ替えが行われていく。


(誰が使うかは知らないけれど、ピカピカにしておきましょう)


 壺の中もきれいに磨き上げ、自分の仕事に満足していると、様子見に現れたと思われるラウラと目が合った。


「あ、いたいた。セラフィーナ、どう? 少しはきれいになった?」


 騎士団からも数人、力仕事要員として働いているのを見渡しながら、ラウラが近づく。セラフィーナは壺を家具の上に置き、ラウラに向き直る。


「全員で家具の上にあった埃はすべて払い落とし、空気も入れ換えています。今は新しい家具を入れ直しているところですね」

「そう。じゃあ、一応は一区切りついたところなのね」

「わたくしに何か御用でしたか?」


 用事がなければ、わざわざここまで来ないだろう。そう思って尋ねると、ラウラは少し困ったように首を傾げて頬に手を当てた。


「……ああ、ええとね。ローラント伯父様があなたの力を借りたいのですって」

「え?」

「あなたも聞いているでしょう? 今、文官棟でたちの悪い風邪が流行っていること。伯父様の優秀な部下も次々倒れてしまって、部屋が処理待ちの荷物であふれかえっているそうよ。巻物整理の話を聞いた伯父様が、ぜひあなたにって」


 まさかのローラントからのご指名に、セラフィーナは瞬いた。


「それはまあ、構いませんが……ここの持ち場はどうしましょう?」

「私が代わりに残るわ。あなたは文官棟で手伝いに行ってくれるかしら?」

「……かしこまりました。では、この場を頼みます」

「ええ。任せてちょうだい」


 艶っぽく微笑み、胸に手を当ててラウラが請け負う。仕事熱心な彼女に任せれば問題はないだろう。上級女官とも顔が広いようだし。


(……わたくしで役に立つかはわからないけれど、名指しをされたからには期待に応えたいわよね)


 気合いを入れ直し、文官棟の最上階を目指すべく踵を返した。


   ◇◆◇


 風邪で倒れている文官が多いのか、いつもは人や荷物の出入りで賑わっている廊下は静まりかえっていた。今日ばかりは障害物をよける必要もなく、すんなり部屋の前にまでたどり着く。文官棟は常に戦場だと思っていただけに拍子抜けしてしまう。


(これは、予想以上に事態は深刻ということかもしれないわ……)


 ただの手伝いだと思っていたが、気を引き締めねばならないだろう。セラフィーナは吸い込んだ息を吐き出し、扉をコンコンと軽く叩く。


「ローラント事務次官はいらっしゃいますか? セラフィーナです」


 声を張り上げると、すぐに扉の内側から声が返ってきた。


「ああ、入ってくれ」

「……失礼いたします。お呼びと伺い、参上いたしました」


 中に入ると、書類が詰まれた箱が部屋のあちこちに散乱していた。その箱に埋もれるような形で、窓側にいたローラントが軽く手を挙げる。


「待っていたよ。ラウラから君の優秀さは聞いている。なんでも皇太子妃になるはずだった貴族令嬢だったとか」

「……昔の話です。それで、何を手伝えばよろしいですか?」


 問いかけるとローラントは肩をすくめ、部屋の右端に視線を移動した。つられるようにその方向に目を向けると、いくつかの箱がひっくり返り、中に入っていたであろう巻物や紙の束が雪崩を起こしていた。

 ローラントに視線を戻すと、彼は光を宿していない目で虚空を見つめた。


「ふふふ。ただでさえ、人手不足で忙しいときに書類の山が総崩れしてしまってね……途方に暮れていたところだ」

「もしかしなくとも、あの一帯の書類のことでしょうか」


 指を差すと、こくりと頷かれる。


「ご名答。見積書と発注書、それから稟議書。会議の資料も入り乱れてしまってね、書類の整理を頼みたい。私も今朝からやっているが、とにかく量が多くてね」


 初めて出会ったときの威圧感はすでにない。今、目の前にいるのは現実から目をそらす哀れな男だけだ。果たして人は追い詰められると、ここまで雰囲気が変わるものだろうか。


「失礼ながら……他に助っ人の方は呼べなかったのですか?」

「ラウラから聞いているかもしれないが、今はどの部署も人手不足だ。君は飲み込みも早いうえに応用もできると噂で耳にしている」

「……買いかぶりすぎですよ」


 評価してもらえるのは嬉しいが、あいにく自分は父親のような万能ではない。

 できることは限られているし、今は平民寄りに知識も偏っている。

 そんなセラフィーナの心情を否定するように、ローラントが頭を振った。


「アールベック侯爵家といえば、凄腕宰相の生家。そこのご令嬢ならば、生半可の指導はしていないだろう。君には期待している」

「…………。ご期待に添えるよう、頑張らせていただきます……」


 その答えに満足したのか、ローラントは生気を戻した瞳で頷いた。


「手始めにここから作業を頼みたい。私は急ぎの書類だけ抜き取って、先に処理を済ませねばならない」

「承知しました」


 それから書類の山を作り直しつつ、期日が迫った承認用紙を見つけてはローラントに渡すというループ作業に没頭することになった。

 日が暮れてから夜遅くまでかかった一連の流れを見ていたのは、東の空から南の空に昇っていく下弦の月だけだった。

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