26. わたくしは壁になりたい

「……ありがとう」

「で、では、私はこれで……!」


 すでにいっぱいいっぱいなのか、プリムローズはそのまま立ち去ってしまう。スイッチが切れたようにニコラスは無表情になっていて、沈黙を貫いている。

 なにこれ、余計こわい。触らぬ神に祟りなしである。

 セラフィーナはヘレーネとアイコンタクトし、極力目立たないように自分は壁になったつもりで気配を消す。こういう場合、目を合わせてはいけない。ふと、ヘレーネが読んでいた巻物の挿絵の狐が目に入り、何の話だろうと目を凝らす。

 そのときだった。絶対零度かと思うような声が耳に届いた。


「――そこの下級女官。話がある」

「な、何でございましょう?」

「ここに俺が来ていることを言ったのはお前か?」


 十中八九、プリムローズの件だろう。

 セラフィーナは身の潔白を証明するように堂々とした態度を心がけた。


「いいえ。わたくしは何も。書庫を愛する人に、わざわざ吹聴する人はいないと存じます。たまたま目撃されただけではないでしょうか」

「……そうか」


 納得していないようなつぶやきを聞き流し、セラフィーナは横歩きで扉を目指した。何やら考えこんでいる今が好機だ。逃がす手はない。

 しかし、そんな胸中を嘲笑うかのようなタイミングで呼び止められてしまう。


「待て。どこへ行く?」


 しくじった。セラフィーナはどんよりとした気分で、苦い顔を向けた。

 一方、ニコラスは腕組みをしていた指先をとんとん、と叩いている。


「……ここにわたくしがいてはニコラス様の邪魔になりますので、部屋に戻ろうかと」

「話があると言っただろう」

「……本題は別ということですか?」

「奥で話す。行くぞ」


 横柄に顎をしゃくり、ニコラスが歩き出す。様子を窺っていたヘレーネをちらりと見ると、肩をすくめられた。行くしかない。

 看守についてこいと言われた罪人のような気分で、奥の壁際の席まで向かう。当然ながら、他に人はいない。二人きりでは、気をそらすのも難しいだろう。


(うう。知らなかったとはいえ、初めてお目にかかったときの態度はよくなかったわ。不敬だと思われて当然よね。……迂闊だったわ。もっとよく注意深く観察していれば、高貴な身の上の方だってわかったはずなのに)


 ラウラには知らないふりをして聞いたが、お妃教育で諸外国の王族情報はしっかり頭に入っている。ニコラスは第二妃の子だから、継承権は第三位だ。年齢はニコラスのほうが上だが、立場は弟が上なのだ。

 正妃と第二妃の関係は悪くなかったはずだが、元男爵令嬢だった第二妃はあまり表舞台には出てきていない。つまり、そういうことなのだろう。

 ニコラスが穏やかな公子を演じるのは自分のためだけでなく、母親を守るための処世術の可能性が高い。

 正妃は公爵の娘だったはずだ。好意的に扱われていても、身分差の壁は埋められない。

 とぼとぼと重い足取りで行くと、待っていたニコラスが腕組みをほどく。


「弟から話は聞いた。第二妃に誘われているんだろう?」


 不敬について咎められるとばかり思っていたので、反応が遅れた。


(……え? 第二妃?)


 きょとんとして見やると、ニコラスが不可解なものを見るように眉を寄せる。

 セラフィーナは慌てて答えを返した。


「その話でしたら、辞退しております」

「……レクアルは僕と違って、裏表のない素直な弟だ。あいつを騙すような女をそばに置くことは僕が許さない」


 いつになく強い口調で言い切られ、おや、と思う。


(ニコラス様はレクアル様がよっぽど大事なのね。意外だわ)


 舞踏会で一緒にいたことも踏まえると、兄弟仲は思っていたよりずっといいらしい。だが、これほどまでに敵意を向けられるのは心外だ。


「騙しておりませんし、その予定もありません」

「口では何とでも言える。どうやって弟をたぶらかした?」

「誤解です。レクアル様に好かれるような特別なことをした覚えはありません」

「あいつはお人好しだが、どうでもいい女を妃にしようとは考えないはずだ。何かあるはずだ」

「……そう言われましても……。……あ」


 言葉を句切ると、ニコラスがたちまち目を光らせた。

 セラフィーナが言葉を続けるより早く、被せるようにして質問が飛ぶ。


「何か思い出したか?」

「……猫を……助けました」

「なに、猫だと?」


 セラフィーナは追及する視線から逃れるように顔を背けながら、数ヶ月前の記憶をさらう。


「木の上で降りられなくなった猫を助けるために、木登りをしました。猫を抱えて着地したときにレクアル様に声をかけられたので……」

「ちょっと待て。初めて会ったのは舞踏会だと聞いたぞ。まさかと思うが、ドレス姿で木をよじ登ったわけではあるまいな?」


 淑女としてありかなしかと言われたら、当然なしだ。

 けれども、事実は小説よりも奇なりともいう。セラフィーナは鷹揚に頷いた。


「そのまさかです」

「…………猿のような娘が趣味だとは思わなかった」

「それは返答に困りますね」

「とにかく、俺はお前を妃として認めないからな」


 人差し指を突きつけられて一方的に言うと、ニコラスはくるりと踵を返した。その場に残されたセラフィーナは頬に手を当てた。


(というか、第二妃はこちらから願い下げなんだけど……。それにしても、レクアル様はお兄様から愛されていらっしゃるのね)


 あそこまでまっすぐに思いを向けられる関係がまぶしく思う。

 世間体が悪くなったら娘を切り捨てるような親子関係しか知らないセラフィーナにとって、とても尊い家族のあり方だと感じた。

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