3. その罠には一度引っかかっています
アールベック侯爵家の応接間で、セラフィーナは客人の様子を窺った。
先日めでたく婚約解消をした元婚約者、ディック・ユールスール。次期皇帝となることが約束されているユールスール帝国の皇族だ。
造形は芸術品のように美しいが、くすんだ金髪に灰色の瞳という淡い色のせいで儚い印象が強い。今日は婚約の取り決めを記した古い書類を持ってきて、もろもろの事務手続きのためにわざわざ皇太子自ら訪れた。
宮城に呼びつけなかったのは、セラフィーナの面子を守るためだろう。
そしてたぶん、従者に任せるのではなく本人が訪れたのは、わずかに未練があるからだとセラフィーナはにらんでいる。
(マリアンヌ様とご婚約される方向で話が進んでいると聞いたけれど……)
右手に持っていたティーカップを左手のソーサーに戻し、マホガニーのテーブルに置く。
(まぁ、すべては終わったことよね……)
ディックとの付き合いは幼少の頃からなので、長い付き合いだ。
次期皇帝にふさわしい決断力はあるが、いかせん、相手のことを傷つけたくない一心で優しい言葉をかける節がある。要するに優しすぎるのだ。
婚約者として時に諫め、時に励まし、皇族として立派に成長する様子をずっとそばで見守ってきた。欠点も含めて彼自身を認めてきた。
しかしながら、それがあだになった。
彼の優しさが他国の姫の心を奪い、やがてそれに感化されるようにして心変わりされるとは、さすがに思っていなかった。
「セラフィーナ……」
「はい。なんでしょうか?」
ディックは沈痛な面持ちで、膝の上に拳を握っている。
部屋の隅で待機しているメイドたちも、いくぶん顔が強ばっているようだ。
「領地追放となったと聞きました。僕のせいで、こんなことになってしまって本当に申し訳ありません」
「殿下が謝る必要はありません。どうぞお顔を上げてくださいませ」
できるだけ優しく諭すと、ディックはゆっくり顔を上げた。
いつもは周囲の調和を好む灰色の瞳が、信念に燃えるように揺らめいていた。
「僕たちは……婚約者ではなくなってしまいましたが、叶うなら友人として関係を続けたいと思っています」
セラフィーナは苦笑いを浮かべるしかなかった。
実はこの申し出も八度目である。基本は断る一択なのだが、一度だけ承諾したことがある。
(あれは……まさかの展開だったわ……)
ずっと断り続けるのも悪いな、と思って魔が差したのが運の尽き。
マリアンヌと婚約したことにより、シルキア大国と友好条約を結ぶことになるのだが、シルキアは魔女狩りの運動が盛んな土地なのだ。
その余波を受け、ディックと友達となった場合、真っ先に命を狙われる。
友達と侮るなかれ。魔女であると誰より先に勘づき、態度を百八十度変えてセラフィーナを追い詰めるのだ。
つまり、永遠に味方にはなれない人なのである。
「殿下のお気持ちは大変嬉しく思います。ですが、新たな婚約者のマリアンヌ様にも悪いですし、わたくしたちは離れるべきだと考えます」
「そうですか……あなたならそう言うのではないかと思っていました」
「申し訳ございません……」
粛々と謝ると、ディックは諦めたように笑った。
「せめて、あなたの今後が明るいものであるように祈っています」
「……ありがとうございます」
父親からは一週間以内に家を出るように言われている。
荷物も詰められるだけ詰め込んだ。あとは出発を待つのみである。
◇◆◇
二日後の朝、城下町の外の城壁前には荷馬車が連なっていた。
馭者が出発を待つ中、セラフィーナは先頭の馬車に近づいた。琥珀色と翡翠の髪色が並んでいるから間違いないだろう。
「レクアル様、エディ様。おはようございます」
トランクケースを地面に降ろして声をかけると、二人が振り向く。
「ああ、早かったな。荷物は後ろの馬車に詰め込んでくれ。乗るのは俺たちと同じ馬車だ」
レクアルが指で示す先を見て、了承の意を込めて頷く。
すると、横にいたエディがさっと手を差し出した。
「荷物をお持ちしましょう」
「あ、ありがとうございます」
トランクケースを後ろの馬車に運ぶ様子を見送っていると、レクアルが腕を組む。
「十五日間の長旅だ。途中休憩を入れるが、覚悟しておいてくれ」
「我が家の領地は皇都から離れた土地ですので、多少は慣れているつもりです」
「そうか。それは心強いな」
馬車での長距離移動は悪路を走ることもあり、足腰に響くのだ。基本的にずっと座りっぱなしで動きも制限されるので、宿に着いたらへとへとになっていることも少なくない。
「よし、準備はできたようだな。さぁ、帰るぞ。クラッセンコルトへ!」
レクアルの号令で四輪の箱馬車が動き出し、車輪が回るのが振動でわかる。
(さすが大公家の紋章入りの馬車なだけあって、座席の下にクッションが敷いてあるわ。これだけで快適さが全然違う……!)
人知れず感動していると、向かいの席に座るエディがつぶやくように言った。
「こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、本当にお越しになるとは思いませんでした」
少し伸びた前髪から覗く金色の瞳にからかう色はなく、ただの率直な感想なのだと思った。だからこそ、セラフィーナも軽い調子で返す。
「なぜです?」
「……あなたは侯爵令嬢なのでしょう? 婚約破棄されただけで、大事な娘を領地追放するものなのですか?」
「わたくしはアールベックの名に泥を塗りました。未来の皇太子妃ともてはやされても、その座を失ってしまえば、周囲の視線はガラリと変わります。わたくしのような女の行く末など、案外そんなものです」
貴族社会では、外聞が悪いというだけでお払い箱だ。もしかしたら、他の家では違うかもしれないが、我が家は宰相を輩出したプライドの高いアールベック侯爵家。醜聞は流れる前にもみ消すのが常套手段だ。
「大丈夫です。わたくしは、これしきで泣くような女ではありません。公国に着いてからもしっかりお勤めに励みますので、どうぞよろしくお願いいたしますね」
淑女の笑みをはりつけると、エディはふわりと口元をほころばした。
「私も精一杯サポートするつもりですので、困ったときは遠慮なくお声がけください」
「ありがとうございます。頼もしいですわ」
「そして、音を上げそうになったときは俺を頼るといい!」
「……そうならないよう、全力を尽くします」
「それでこそ、セラフィーナだな。お前の働きには期待している」
レクアルの鼓舞に応えるため、笑みを深める。
ラベンダー街道を通り抜けたら、今度は山道だ。いつもより上等な馬車とはいえ、淑女には気合いが必要だった。
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