第1話 昏き森に眠る呪い 五
シルベスターは、上品な薄い唇に緩く弧を描き、夕陽のような赤い目をらんらんと輝かせた狂気じみた顔で微笑むと、レオノーラの方へ歩を進めながら、
「ほう。して、その心は?」と問う。己の母親に殺意を向けられて、何故こうも平然としていられるのか不思議だ。だが、遠慮はしない。レオノーラは、あの憎たらしい女の手によって奪われた大切な存在を思い出し、瞳の中に殺意の炎を灯す。
「私の恋人を殺した復讐のために」
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事が起こったのは、今から三日前の話だ。
《霧の町・ネーベル》で、レオノーラ・イグレシアスは、恋人であり剣の師である青年イオリ・ハヤマと共に暮らしていた。
両親との折合いが悪く、さらには不仲の父と母の下から逃げ出したのが、弱冠十歳の時。幼い頃にこの町へ流れついたレオノーラを面倒見てくれたのが彼だった。
彼は町の自警団員で、遠い故郷で磨いた剣の腕を買われ、団のリーダーを務めるなど、若くしてその才を発揮した。
小さな町故、自警団員の数はさほど多くはない。レオノーラは彼の背中を見て、自分も彼のような強い剣士となってこの町を守ることを人生の目標とした。
そうして剣を取った。イオリは、上達の早い彼女に稽古をつけるのが何よりの楽しみだと、毎日のように言っていた。
少女は、周囲の女の子たちが料理や裁縫の上達を図り、趣味でかわいらしい首飾りを集めている間、飽くことなく剣だけを振り続けていた。
こうして時は流れ、レオノーラが十四歳になる年、彼女は念願だった自警団入りを果たす。
剣を取るようになってからぐんぐんと身長は伸び、その頃になると、成人男性と目線の高さが変わらなくなっていた。
そして更に二年程時は流れ、そんな平和な日常が突如、崩れ去る時がやってくる。
透き通るような青空。空気が澄んでいて、遠くにある山の麓の景色までくっきりと見える晴天の日。住人たちが午前中の勤めを終え、町の食堂に集まり始める頃、ネーベルに異変が訪れた。
「ねえ、レオ、町に誰か入ってきたよ」
レオノーラと同じ卓についていた同世代の少女が、不安そうに彼女の手を握りながら言った。
レオは仕事柄、警戒心の強い方だった。すぐにそちらの方に目を向け、言われた通り、窓の外に見慣れぬ奇異な女がいることを確認する。
レオノーラは、「ちょっと待ってて」と言い残し、その女に近づいた。遠い東の国の民族に似た顔立ちは、涼し気だがどこかミステリアスな雰囲気があった。夜空のような髪は長く、しっとりと濡れているように背中を流れ、膝の裏側辺りで歩幅に合わせて揺れている。長いまつ毛に縁どられた目はラピスラズリの輝きを放ち、優美なカーブを描く眉が大人びた印象をぐっと引き上げる。
こんな田舎町には不釣り合いなネイビーのマーメイドドレスに華奢な身体を包み込み、胸元にはそれだけで人一人が一生遊んで暮らせるだけの値打ちがありそうな色取り取りの宝石が散っている。
手折るのも容易いと思えるほどのか細い手首に金の輪を嵌め、右手の薬指には爽やかなターコイズのリングが光っている。まるで舞台の中央でスポットライトを浴びる大女優のような出で立ちだ。
見た目は二十代とも四十代とも取れる。年齢を超越した美しさがあるのならば、それはきっとこのような容姿のことを言うのだろう。
「こんにちは。どなたかをお尋ねですか?」
正面に立ちはだかった彼女は、努めて気さくに声をかけた。女は緩やかに立ち止まり、長い前髪の隙間からレオノーラを
威圧された。二の句が継げなくなるくらいに、女の鋭利な視線に沈黙を強いられた気分だった。
そうこうしている間に、女はレオノーラを突き飛ばして町の中へ歩を進める。乱暴とも言える行動に、尻餅をつきかけた彼女は、唖然と女の後姿を見つめるしかできなかった。
「あ、待て……!」
もう下手に出る必要はないだろうと、彼女は女に向かって手を伸ばす。咄嗟に掴んだ肩のなんと冷たいことか。死体に触れたような気分だった。
それと同時に、脳裏に
――魔族!
レオノーラは咄嗟に剣を抜いた。刃が鞘の内側を撫でる音。
町の住人たちは食堂の窓から顔を覗かせるなり、ただならぬ雰囲気に面を打たれ、「ひいっ」と息を呑んで固まった。
女は幽鬼のような顔で、己に剣尖を向けた女剣士を振り返る。
改めて見てもぞっとするほどに美しい女だが、それと同時に、化け物じみた薄気味の悪さが拭えない。
「ここは私たちの町だ。魔族が何の用がある、言え」
魔族は基本的に人里への侵入は許されてはいない。血に飢えた獣の如く残虐性を持った魔族が人間とトラブルを起こしたりすれば、人間に与えられる勝ち目は限りなく少ないからだ。
魔界の長――何年か前に突然失脚したブラッド侯爵は、理性的な男だった。彼が即位していた時代は、人間社会と魔界の不可侵条約もおおかた守られていたが、それが正妻のデライラにとって代わってからは、魔族たちも決して利口とは言えず、巷を騒がせる魔族共の凄惨な事件は、人々を恐怖のどん底へと突き落としていた。
――と、そこで、レオノーラは思わず瞠目した。目の前にいる女こそが、現魔界の王、魔女デライラであると悟ったからだ。
その時だった。牧場へ通じる道からイオリが駆けだしてきた。彼は、年若い恋人と対峙した不気味な麗人の姿を目にすると、刹那、息を呑むように身を竦ませ、「レオ、君は他の団員たちと町の人たちの避難をさせて。俺が良いと言うまで、そこから離れてはいけないよ」
彼は一目見て、この麗人がただの魔族ではないと悟ったようだった。
レオノーラは、「ああ」と頷いて剣を収め、食堂の周りでざわつき始めた人たちを町の外れにある広場へ導いた。仲間の団員たちもてきぱきと指示を出し、何人かはイオリと共にその場へ残って対処しようとしたが、彼が頑なにそれを許さなかった。
避難する道すがら、その場にいなかった住人たちが「何事か」と怪訝そうにしていたが「とにかくついて来い!」と、ろくな説明も出来ぬまま、なんとか全員の避難を完了する。
みんな不安げにレオノーラを見上げながら、「大丈夫? 本当に大丈夫?」と詰め寄る。ここへ来る前に見たイオリのただならぬ反応に不安を抱いているのだろう。
「大丈夫。イオリが何とかしてくれる」と住人たちを元気づけて、いくらか時間が経った。
レオノーラは胸に蟠った不安を押し殺し、愛しい男の無事を天に祈った。
雲が流れる。川が下流に向かって流れるように、過ぎ去った雲は遠くの空を目指して泳いでゆく。
……。
…………。
……………………。
時間ばかりが過ぎ、いてもたってもいられなくなったレオノーラは、他の団員が止めるのも構わずに、町の方へ駆け足で戻って行った。
背後から呼び止める声がする。ごめん、すぐ戻るから。と彼女は心の内で詫び、一心不乱に大地を蹴り上げる。
たちまち、胸中の不安が一気に膨れ上がった。嫌な予感がした。頭の中が毒薬を流し込まれたように一気に冷えた。べたついた汗が噴き出す。考えたくもない想像ばかりが脳裏をよぎる。
死なない。死なない。イオリは死なない。絶対に。
「絶対に――」
零した声は微風によってかき消された。
息を切らして立ち止まる。デライラは、彼女が話しかけた個所から一歩たりとも動いてはいなかった。
目の前に広がる光景を脳が拒絶する。
晴れ渡った青い空。白い陽光がひどく目を刺す。ぬるい風が髪を揺らす。
眼前を満たした赤い海に仰向けに横たわるイオリと、それを見下ろす女。
デライラの身体は真っ赤に染まっている。暗い色のドレスを纏っていても、それとわかるほどにぐっしょりと濡れていた。それが彼女の血ではないと、すぐに分かった。体のどこにも怪我などなかったからだ。
目の前がぐらぐらする。込み上げる吐き気をやっとのことで堪え、もつれる脚で倒れるイオリの傍に駆け寄った。
「イオリ……、イオリ!」
情けなく裏返った声に反応して、イオリはうっすらと目を開けた。口元は吐き出した血に塗れ、首には目を背けたくなるほど深い傷が、彼の脈拍に合わせてぱくぱくと開いたり閉じたりを繰り返す。その度にどくどくと、止めどなく血があふれ出し、地面を水浸しにしてゆく。
「レオ……」
イオリは息ばかりの声で、うら若い恋人の名前を呼ぶ。
「だめだ、イオリ、血を止めろ。このままじゃ、あなたは死んでしまう」
イオリは「ハハハ」と力なく苦笑した。「無茶言うね」
住人はみんな避難してしまった。医者も。今この場に、イオリの傷を治せる人間はいない。
レオノーラは、この傷が彼の命を脅かしていることを理解が出来ぬほど愚かではない。
「イオリ、生きろ。意識を手放すな!」
「レオ……」
イオリは出ない声を無理に出し、彼女の手を強く握りしめた。血に塗れた手から、段々と体温が引いていくのがわかる。息が荒い。目の焦点もあっていないのか、視線は絡み合っているはずなのに、どうしても相手の目には自分が映らない。
「ごめん……」
「何を謝っているんだ」
……。
「イオリ?」
……。
沈黙という無情な応答は、レオノーラの胸を深く抉った。
時間が止まった。この世に存在するすべての物から、時間という概念が欠落したかのように、少女の周囲から、時が姿を消した。
世界と己の境界線がわからなくなるという不思議な感覚がレオノーラを包み込んでいたが、魔女デライラはそんな彼女を無情な現実世界へと引き戻す。
「女」と、麗人が憎々し気に呟く。「わたしは女が嫌い。この美しい手が、お前のような
そう言うと、女は踵を返して町から出て行った。
「待て……、待てぇ! 待てぇぇぇぇぇぇぇ!」
レオノーラはこの場から動くことが出来なかった。このままイオリを一人きりにすることが出来なかったのだ。
「ああ、イオリ、目を開けてくれ、息をしてくれ! 死なないで……!」
力なく横たわるばかりの男の身体。血脈の動きは途絶え、肺は空気を取り込むのをやめた。閉じた瞼はぴくりとも動かず、イオリ青年の胸の奥にある臓器も、まるで肉で出来ただけの単なる作り物のように、二度と動くことはなかった。
「嘘だ、嘘だ、こんなの嘘に決まっている!」
恋人を失った女の慟哭が、晴れ渡った空に響き渡った。
「殺す、殺す、殺す! あの化け物女、絶対殺す! 殺す! ああああああああ!」
騒ぎを聞いて駆けつけた数人の自警団が、そこに広がる悲惨な光景を目にし、言葉を失わずにはいられなかった。
イオリが大量の血を流して死んでいること、怒りに身を貫かれて、天に向かって口汚く悪態をつくレオノーラの姿は、誰一人として予想だにしていなかった現実だった。
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