第1話 昏き森に眠る呪い 四
魔界の王、魔女デライラ。
前魔王・ブラッド侯爵の正妻で、東国から流れ着いた一族の末裔。その正体は《オニ》。普段は山で暮らす種であるが、時折人里へ下りては人間を襲う性質を持っている、なんとも残忍な生き物だ。西洋での認知度は低く、アジア圏においてその知名度は格段に上がる。
魔力よりも、強靭な肉体と残虐性を併せ持ったオニ――デライラは、長きに渡ってブラッド侯爵の妻として、夫と共に魔界を統べる権力者であった。
が、ある時、ブラッド侯爵が謎の死を遂げた。魔界の住人たちは、長の突然の訃報に大混乱を喫したが、それを制したのは妻であるデライラだった。デライラは魔力をほとんど持たぬ身であったが、ブラッド侯爵からの魔力の供給が施されていたこともあり、王不在の混乱を鎮めるべく、彼女は夫の地位を継ぎ、豪奢な屋敷の一番奥に据えられた立派な玉座へ腰を据えるに至った。
この頃から、彼女は《オニ》としての力よりも、ブラッド侯爵から賜った魔力を使いこなし、《魔女デライラ》の名を
彼女は、亡き夫から授かった魔力を、私利私欲のために使った。
ブラッド侯爵に忠誠を誓っていた家臣の一人が、主の突然の失脚に
ある時、デライラは家臣に問い詰められた。
「デライラ様、無礼を承知でお尋ねいたします」
翌日、その家臣は屋敷の大広間に集められたすべての家臣の前で、身に覚えのない罪を着せられ処刑された。その方法は――ここに書き記すにはあまりにも残酷で、胸が悪くなるので筆を控えさせてもらおう。
「この男は、わたしに夫・ブラッド侯爵殺害の罪を問うた」
広間内はざわついた。
デライラは、より声を張り上げて続ける。
「ここにいる全ての家臣らに問う。――このわたしが、夫殺害の容疑者であると、少しでも疑ったものは名乗り出よ」
デライラが、煌びやかなネイルの施された右手の人差し指をちょい、と動かすと、集まった家臣たちの波をかき分けて、七人の男女がデライラの前へ現れた。自らの意思ではない。デライラの魔法で深層心理に侵入された者たちだ。そして彼らは、魔女デライラに猜疑心を持っていた者たちである。
殺戮。魔女デライラはまさに、この言葉の権化であった。
広間の床はその殺戮の餌食となった家臣たちの血と肉片で醜く汚れた。
デライラは、折れそうなほど細いピンヒールで高らかに床を奏でながら、血の海を軽々と跨いだ。
「わたしは、魔族の長である」
静寂に混じる、抗いようのない恐怖。それに反して、朗々と流れる川の如く澄み切った声。
「わたしは、魔界を統べる王である」
美しいプロポーションを包み込むように、圧倒的な魔力が漲るのが目で見てわかる。あれは、かつて魔界一と謳われたブラッド侯爵の魔力と全く同じものであった。
その場にいる全ての家臣たちが思い知らされた。己に、このお方に勝る魔力なし、と……。
「わたしに逆らうな。わたしを疑うな。わたしを裏切るな。……破った者即ち――」
この冷たき床の上で、己の血に溺れよ。
・
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レオノーラは、面食らった。
「は……ぁ? 何を言っている。お前は別の《デライラ》と勘違いしているのではないか」
青年は彼女の言を無視し、周囲を見渡しながら言った。
「それにしても、厄介なところに閉じ込められちまったな。おい、あんた。ここへはどうやって入った?」
レオノーラは、話の矛先があちこちぶれるのに目を回しそうになりながら、「今朝、町を発つときに老人に道を尋ねたんだ。魔界への道さ。そしたら、
「それ信じたのかよ」
彼は呆れたように言った。
レオノーラはバツが悪かった。
「連れてってやるって言ったってな、人間界から魔界へ通じる場所ってのは、そう簡単にたどり着けるようなところにはないぜ。たかが人間の爺さんが一念発起して案内できるわけないだろ」
仰る通り、以外の返事など思いつきもしなかった。レオノーラは彼の容赦のない物言いに無意識に顔を歪めた。
「で、その爺さんはどうした?」
何が面白いのか、彼はニヤニヤしながら訊ねた。
「森に入った途端にいなくなってしまった」
「ふん、そりゃ、あんた、この森の魔物に好かれちまったみたいだな」
「はあ?」
言っていることがよくわからない、と首を傾げたその時だった。
「こういうことだ!」
突然、青年の右手が、レオノーラの首を掴んだ。否、違う。彼女の首ではない。彼女の背後に隠れていた老人の首をひっつかんだのだ。
「な、なんだ!」
レオノーラは危うく腰を抜かしかけた。背後に寄り添う湿り気を帯びた冷気に飲み込まれそうになって、逃げるように青年の背後へ回る。
ずるずるとその場に引きずり出されたのは、町の噴水広場で出会い、彼女をこの森へ閉じ込めたあの老人だった。
「あなたは! いつからそこに」
唖然とするレオノーラとは対照的に、青年はニヤニヤと楽しそうな笑みを崩さない。
老人は喘ぎ喘ぎ、がさがさに掠れた声で言った。
「ううう、シルベスター……お前、なぜ動ける……」
「よお、ガーティ爺さん。久しぶりだな! 元気そうで何よりだぜ。けどな、あんた合わない間に少しばかり頭が呆けてしまったみたいだな。現世の人間の女に現を抜かしてこんなところへ閉じ込めちゃダメだろ? デライラの命に従ってこの森の奥深くで俺を見張る任務を疎かにしてまで」
ガーティは悔しそうに歯噛みし、「言え! どうやってデライラ様の魔法を解いたのだ」
「知るかよ。クソ女の詰めが甘かったんだろ」
シルベスターと呼ばれた青年はクツクツと喉の奥で笑いながら、いやに長い舌で唇を舐めた。
空気がピリつく。レオノーラは氷でできた指先で肩甲骨の隙間を撫でられているような緊張感を感じた。
「今度はこちらが訊こう。俺はどれくらい眠っていた。今もデライラは、親父の玉座にふんぞり返って好き勝手やっていやがるのか」
「……」老人は口を噤んだまま、しかし、視線だけは決してシルベスター青年から逸らそうとしなかった。
青年は聞こえよがしに舌を打つと、「ま、大体想像はつくぜ」と呟いて、枯れ木を思わせる老人の首を掴む手に力を込めた。
――!
その音が響き渡った瞬間、レオノーラは思わず眉根を寄せた。
「無駄な時間を過ごしたな」
そう言うと青年は、もう飽きた、とでも言いたげに余所見をし、力なく四肢を下げた老人を、まるでゴミでも捨てるように乱立する木々の方へ投げ飛ばした。
なんて残忍な男。否、これが魔族の正体なのだ。言葉を持ち、知性を持つ中級以上の魔族すら、下級魔族が他者をいたぶって殺すときと何ら変わらない。それどころか、言葉や知性、人間と同じ見た目を持っているだけ、まるで人間が人間を殺す景色と遜色なく映るので、殺戮の瞬間を目の当たりにした側からすれば、この上なく胸が悪くなる思いだった。
気が付くと、立ち込めていた禍々しい雰囲気はかき消されたようになりを潜め、空には爽やかな青と、昼下がりの陽光が煌めいている。小鳥の囀りも心地よく、吹く風も深緑の味がして心が澄むようだった。
人間の世界に戻っている。目の前には、森を抜ける道が伸び、その先には都会の雑踏があった。
ほっと胸をなでおろしたレオノーラだったが、青年がスタスタと森を出ていこうとするのを、つい引き留める。
「まだ何か?」
シルベスターは気だるそうに振り返る。クールというよりも、つれない態度だ。
「助けてくれたこと、心から礼を言う。ありがとう」
レオノーラは、会釈するように頭を下げ、
「ところで、
シルベスターは、嫌っている女の話題を出されて不快そうに、「だからどうした」と返す。
風が吹く。レオノーラの長い髪が真横へさらさらと靡く。
「この私に、お前の母親を殺す赦しを頂きたいのだ」
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