第59話 阿育王寺へ行くぞぅ

 蹲る少年に見向きもしない人波が、ずんずんと流れて行く。

 膝の血を眺めながら、「ちぇ、痛てえなぁ」と思わず倭語で叫ぶと「大丈夫か」と倭語で心配された。

 太い腕が伸びて来て、がっちりと持ち上げられた。

 ここは危ないと、人波を避けようと幾らか動いたが、次から次へと人が溢れて来る。

 柔らかい身体に抱え込まれ、人家の軒下まで何とか移動した。

 丸い身体に丸い顔が乗った丸い坊さまだった。見てくれに似合わない素早い動きだ。

「どうするかなぁ、城内に住んでいるのか? 両親と一緒だったのか。迷子になってしまったな」

「大丈夫、この人混みが無くなれば、一人で帰れる」

「しかし、海嘯がみたいんだろう」

「うーん、でもー、見なくても良い。御坊に迷惑をかけたくないから‥‥‥」

 丸い坊さんは、大きな目を更に大きくして留吉を見つめた。

 何か変な事いったかなと、留吉は、おうっと肩を竦める。

「困ったな。行かねばならない処があるのだ。しかし、この混雑にお前を一人にする訳にはいかぬ」

「おらも、一緒に行ってはいけない?」

「一緒に行くか? よし行こう」

 二人は、人の少ない路を選び選び移動した。

「おれ、留吉。坊さまのお名前は」

「ああ、そうだったな。これは失礼いたした。わしは、丸磨まるまという」

「えっ、ま、ま?」

「ハハハハハ、可笑しいか。達磨という偉い偉いお坊さまがいる。畏れ多いが、磨の字を頂いて丸磨だ。覚えやすいだろう。ハハハハハハハ」

 笑い声に追い立てられるように、坊さんの脇で必死に足を動かす留吉だ。

 丸い坊さん丸磨と訪ねたのは、西湖のほとりにある小さな寺だった。

 寺の裏手にずんずん進む坊さんの後を追い、留吉の足は忙しない。

 年寄の坊さんが、出迎えるように出て来た。二人の坊さんが、留吉を見ながら話している。

「坊主、ちとそこで待っててくれ。直ぐ戻る」

 といって、丸磨は消えた。

 静かな庭をぶらぶらして腰ほどの高さの石垣の上に登った。優美な西湖が見渡せる。ここから海嘯を見ることは出来ないが、西湖畔の人出もやっぱり多い。人がいっぱいの海嘯見物を諦めて寄り添う若い男女が、留吉の目の前に立ち上がった。石垣の下に座り込んでいたのだ。

「キャー」と叫んで駆け出す女子を若者が追う。

 ああ、邪魔しちゃったと肩を竦める留吉だ。

「おい、何してやがる」

 振り向くと留吉より小柄な小坊主が、胸を張っている。

「日ノ本の坊さんを待っているんだ」

 石垣をとんと飛び降りた。

「うーん、お前も日ノ本か」

「そうだ。日ノ本から来た」

「何しに来た?」

「うーん、勉学しに来た」

「ふん、文字が書けるか、書いてみろ」

 ここまで、何とか宋語でこなした。語調が変だとも指摘されなかった。

 何って生意気な奴だと思いながら、落ちている小枝を拾った。

 最近練習している文字があるのだ。ちょっと自信もある。下っ腹に息を吸い込み吐き出す。小枝に気を込めて真っ直ぐ、横へ縦へ止めと跳ねに気を配り書いた。

   曲 院 風 荷

   平 湖 秋 月

   花 港 観 魚

 お手本がないので、つい易しい文字になってしまうが、まあ良いだろう。

 西湖の美しさを讃えた言葉だ。

   三

 と書いて、止まってしまった。

「何だ、タンが書けないのかぁ」

   潭 印 月

 小坊主が、偉そうに書いてくれた。さすがに、留吉とは比べものにならない位、立派な文字だ。

「ほう、ほう、二人で遊んでいるのか」

「あぁ、和尚さま。遊んでいるではありません。この異国の少年に教えているのです」

(えーぇ、何て調子のいい奴だ)

「待たせたな留吉。またまた急ぎの仕事が出来た。送って行くつもりだったが、直ぐに出かけねばならぬ」

「一人で大丈夫です」

「いやいや、それはいかん。直ぐに日が暮れる。今夜はここに泊まり、明日帰りなさい」

 寺の坊さまが穏やかな助言をくれた。

「丸磨さまは、何処へ行くのですか」

「阿育王寺という遠い寺だ」

「えっ、阿育王寺って? おれも一緒に行ってはいけませんか」

「うーん、阿育王寺を知っているのか、遠いぞ」

「行ってみたいなぁ、鎌倉の将軍さまのお骨が納められていると聞きました。おらぁ、鎌倉の生まれです。出来れば手を合わせ、お香を手向けたい。それに、臨安城から出たことがないんで‥‥‥」

「家に帰りたくないのか?」

 小さく肩を竦める留吉。

「阿育王寺は、有名な大寺院だ。お前、行きたいなら行け。おれも行きたいけど、修行の身だから行けないんだ。帰って来たら、ここへ来ておれに報告しろ。どんな寺だったか、道中で何を見たか教えてくれ」

 小坊主は、真剣だ。

「これこれ、照磨しょうま、何をいってる? わしが、明日送って行くゆえな。今夜は此処に泊ってな」


 南東へ向かい先を急ぐ丸磨の後を駆ける留吉。その後を守るように飛ぶ照磨。

 何と照磨にも阿育王寺行きのお許しが出たのだ。安倍晴隆介の屋敷には、「留吉を預かった」との報せが行っているはずだ。

 紹興しょうこうを経て寧波にんぽーまで結構な距離だ。

 留吉は、覚えていないが、謝涛丸は寧波の港で役所の検疫を受け、税金を払い、それから臨安へ向かっている。

 謝涛丸は、日ノ本から来た船だが、宋人の謝一族の船だ。お小遣いも渡したりするが、役人とは阿吽の仲で問題を起こしたことはない。

 陸路を阿育王寺まで行くのは大変だ。だが、少年二人は嬉々として飛んでいる。

 阿育王寺は、寧波郊外の太白山の麓にある由緒正しい禅宗寺院。

 アショーカ王と中国で唯一インドの名称が残る。

 日本からも古くから、重源や道元など歴史に残る僧が出かけている。丸磨のような無名の僧なら数えきれない。

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