第58話 南海は誰の子だぁ

 船は、南宋に向かって波乗りしている。

 波は荒いが、頭上は青空が広がっていた。

 西南の水平線に黒雲の頭の先が微かに見えるが、船尾で蹴散らして大陸を目指す。

 時たま飛沫を浴びながら、南針は見えない目で前方を見つめる。

 その目を洒落た黒い帯が保護している。謝涛屋彩恵が心を込めて作ってくれた物だ。傍には、勝次が寄り添うように立っている。

 二人から離れて吉郎が座り込んでいた。

 この船は、謝涛屋の競争相手の持ち船だが、謝涛丸の行方探索人を謝涛屋の依頼で乗せているのだ。

 謝涛屋代表となった吉郎は、何度も何度も呼吸を荒くする。

 南針は、和尚先生紹介の眼医者を訪ねて行くのだ。その護衛が勝次だ。

 この二人は、南針先生の患者である材木商の八幡屋の口添えで乗り込んでいるのだ。


 謝涛屋の主が、誰を謝涛丸の探索に派遣しようかと思案している時、吉郎が飛び込んで来た。

「南針先生が、目の治療の為、南宋行きの船を探しております。和尚先生の知り合いを訪ねるそうです。わたしもお供したいのですが、何事も銭のいることで、謝涛屋の船に乗せてもらえば、一番良いのですが‥‥‥」

「ふう、そうか。南針先生は子供探しに行くのか」

「いえ、あのその南宋には良い眼医者がいるそうで」

「ああ、分かっておる。だがな、今は船の都合がつかぬのだ。博多丸は、鎌倉を目指して出航したばかりだし、その辺の小舟を使う訳にもいかぬでな」

 そんな会話を経て、謝涛屋の諸先輩を差し置いて吉郎が臨安を目指しているのだ。

 三人の船賃が何処から出たのか、三人はもちろん、この船の船頭も知らない。

 豪商たちの内緒の内だろう。商人たちは、日頃仲が悪いようで、しばしば仲間として団結する。庶民には分からない秘密事項が沢山あるようだ。


 吉郎は立ったり座ったり忙しない。姿を消したかと思うとまた同じ位置に戻ってくる。

「吉郎どの、どうした? 具合が悪いか」

「ああ、いえ、その『どの』は止めてくだせぇ。吉郎とお呼び下さい。あのその腹の具合が少々悪く、汚ねぇ話ですみません」

「これを飲め」

 と、勝次は腰の袋から薬包を取り出した。

「とんでもねぇ。貴重な薬をおれなんかの腹痛にもったいねぇ」

「良いから飲め。飲んだら、眠くなるから、しばらく寝床で休め」

 顔に似合わず優しい勝次に、吉郎は頭の上に両手を差し出して薬を受け取った。

「南針先生、少し休ませていただいて良いですか」

「吉郎、ちょっと此方に来い」と、呼び寄せた南針は、横たえた吉郎の腹に手を当て、しばし擦った。

「大したことはない。頂いた薬を飲んで、少し眠れば治るだろう」

 腹から離した手を頬に移し、ぽんぽんと叩いた。

「へぇ、水を貰ってきます」

 なんでぇ、子供扱いかよと思いながらも、嬉しくなって二人の傍を離れる吉郎だ。

「勝次どの、ありがとうございます。吉郎は初めての渡海に緊張しているのでしょう」

「ああ、おれも渡海は初だが、ぞくぞくする。お富さまに文を書いたし、用心棒に雇ってもらって船賃もなしとはかたじけなくって謝涛屋さんには、足を向けて眠れない」

「勝次どのが居てくれて、助かりました」

「とんでもねぇ‥‥‥」

 舟山群島からの出迎えか、賑やかに海鳥が船に寄り添う。

「鎌倉の富谷の話なんですがね。留吉が生まれて以来、赤子が生まれることは無かったんですがね、三年前でしたか男児が生まれました。南海なんかいという名です。留吉は何もいいませんでしたか? 弟分ってことで子守役になりまして、笑った泣いた這ったの立ったのと皆に報せて回り、随分と可愛がっていましたよ」

 南針が、静かに勝次の側に顔を向ける。

「それは、両親は‥‥‥」

「覚えていますかねぇ、小枝という女子が生んだんですよ。父親は爺さんだと本人がいっていました。誰も信じちゃいませんがね。お富さまと爺さんが少し揉めましてね、小枝と爺さんが屋敷を出て、大仏さんの傍に借りた家で産んだんですよ。末吉とハナが、何だのかんだの運んでいました。お富さまも気にしていましたよ。頼られるのが好きなお方ですからね。それなのに爺さんが意地を張って、おれの子だからといい張りましてね、出て行ったんですよ。ところが、富谷の仕事に支障が出たんですよ。爺さんの仕事で一番重要だったのは、噂集めとその情報の整理ですかね、おれなんか、何も知らずに気にもしてなかったんですがね、半大夫さんが困りましてね。そうこうしている内に、小枝が死んだんですよ。やっと乳離れした頃で、爺さんも一人じゃ、お手上げですよ。

 半大夫さんが、爺さんに頭を下げてお願いしましてね。お富さまに頭を下げて戻ってくれとね。子供が心配だからじゃありません。富谷の仕事が心配だからです。まあ、そんな具合で爺さんが名前を付けた南海は、富谷の子になったんですよ。今じゃ、お富さまが自分が生んだ子みたいな顔してますよ。面白いもんですね」

「その子は、今は?」

「もちろん京都にいますよ。鎌倉にいたら下男見習いかもしれませんが、京都に引っ越してからはお公家さんの公達見習いでしょう。爺さんの躾も厳しくなって、箸の上げ下ろしにもうるさく、泣き虫小僧になっちまいました」

「なぜ、京都に移ったのでしょうか」

「徳政令とやらが出て、商売がね、傾き出したんでっしょうね。おれには分かりませんが」

「その子は、わたしの‥‥‥」

「おう、吉郎。どうした? 気分は良くなったか?」

 勝次が大声で、近づく吉郎に話しかけた。

「へい、少しうつらうつらしたら、大分良くなりました。ありがとうございます。もう舟山群島とかが見えて来ると聞いたもので、ああ、ほらほらあれじゃないですか」

「おお、島影がちらほら見えてきたな」

「嵐が来そうなので、どっかの島へ避難するようですよ」

 身内のように親し気な二人の会話に、小さく首を振る南針だ。


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