第57話 海嘯見物だぞーぅ

 臨安の暑い夏をやり過ごし、早や八月だ。

 朝夕の風はひやりとして、日中の暖かさが気持ちいい。

 ともかく、留吉は机に向かう。中庭に面したこの部屋は、今では留吉の書斎だ。今日の学びを終わらそうと思い、四角い文字に噛みつく。

 中庭に影が差す。不穏な気配の影だ。見なくても分かる。いやな奴、陽針だ。

 あれから、この屋敷に居ついている。

 晴隆介もどこか南針先生に似て、胸底が優しく、困っている者を見捨てることが出来ない。幾らかの疑念を抱いても切り捨てる事象がなければ、甘い対応となる。故に留吉の現在の厚遇が成り立つのであり、おれは良いけど、あいつは駄目だとはいい兼ねる。

 あいつは、おれをイジメた嫌な奴だと、何度も訴えようとした。どうしてかそれが出来ない。和尚先生にも南針先生にもいえなかった。いえば、陽針の居場所が無くなるだろうと思ってしまう。


「ふん、そんなに勉強してどうするんだ。陰陽師にでもなるのか」

 相変わらず、人を小馬鹿にしたいいようだ。その一言で、もう四角は絵みたいになってしまう。

「邪魔しないでよ。あっちに行って」

「ほう、偉そうな口をきくじゃないか。知ってるか、宋国に陰陽師なんていないんだぞ」

「なんだよ、それ? 晴隆介さまは陰陽師なんだぞ」

「ふん、偽物だ。大ぼら吹きだ。お前が、そんな綺麗な衣で旨い物を食っていられるのは、あいつが商売上手だからだ」

「あああぁー もう‥‥‥」

「アハハハハァ、分かった。分かった。良い話をしよう。

 海嘯かいしょうを知っているか? もう直ぐ、中秋節だ。凄いぞ。銭塘江を潮が上がって来るんだ。真っ直ぐな壁になって押し寄せて来る。それが崩れると大蛇のように暴れるんだ。一緒に見に行こうぜ、蓉さんがご馳走を作ってくれるぞ。多分。ああ、お前が頼めば、確実だ」

 楓が、身体を上下に揺らしながら通りかかる。足元が弾んでいるのだ。

「よう、楓ちゃん。海嘯を見物にいこうぜ。子供だけじゃお許しが出ないかもしれないが、おれが一緒なら大丈夫だ」

「ふん、あんたとなんか行かないよ。晴隆介さまと一緒に行くんだ。ご馳走を沢山持ってさ。お前たちなんか連れていかないよ」

「そんな冷たいこというなよ。連れってくれよぉ。向こう一か月楓ちゃんの家来になるよ」

「一か月じゃだめだ。ずーと家来なら考えてやる」

「家来になったら、ずーっとおれの飯の心配はいらないってことだな。甘い菓子も頼むぞ」

「えーっ、菓子もぉ」

 楓は真剣に考えている。陽針は、ずっとニヤニヤしながらしゃべっている。

 こんなに饒舌な楓を見るのは初めてだ。

 残念ながら、留吉には分からない部分が多々ある。ちょっと悔しい。いや、凄く悔しい。

 仲間に入れないのが、悔しいのか?

 何時も仏頂面の楓が、陽針に時たま向ける笑顔が眩しいのか?

 キリリと上がった眉と目尻、留吉に比べれば遥かに高い鼻梁、充分な食べ物で瞬く間に取り戻した健康的な顔付、清潔で高価な晴隆介の衣服を貰い受け、身ぎれいに整えて街を行けば、商店から女の視線が追い、足早に使いに向かう小女が振り返る。

 東国鎌倉を目指して潜り込んだ船は、なぜだか故郷の南宋に向かい、海に放り込まれる代わりに、少ない飯で沢山働かされたと語った陽針。

 おれを虐めに追って来たのではないと、ほっとするも、その辺に居るだけでビクついてしまう留吉だ。


 凄い人波だ。

 海嘯より凄いのではないか。晴隆介と陽針が先頭で、その後ろを楓と留吉、そのまた後ろを守って蓉とご馳走を持った下男が固める。迷子になったら大変だ。

 海嘯観覧は、地域の人々にとって、何にも増して楽しみな行事だ。自然の偉大な現象が誰にも平等に訪れる。しかもタダだ。

 今年は中秋節の三日後八月十八日が大潮だと聞くと、仕事の調整をして休みを取り、ご馳走の材料を買い集め、海嘯見物の準備に余念がない。

「潮の満ち引きで、海面の高さが変わることは知っているな。それから、この銭塘江の地形が関係している。杭州湾の奥に向かって、すぼまっていくだろう‥‥‥」

 陽針が、なぜ海嘯が起こるのかと晴隆介に問うているのだ。留吉にも分かるように、大きな声で倭語で話してくれているが、内容が今いち分からない。

 お祭り騒ぎの周りから、あらゆる言語が降ってくるので、余計分からないのだ。と、思うことにした。

「その大波に乗るやつがいると聞きましたが、本当ですか」

「いや、それは昔話だ」

「はぁ、やっぱり与太話ですか。出来るなら、おれも波に乗ってみたいと思いますよ。命がけで楽しむ。凄いじゃないですか」

「実は、我が家に伝わる自慢話がある。安倍家を起こしたご先祖さまが、海嘯に乗ったというのだ」

「ええっ、本当ですか」

「だから、大げさな自慢話だ。日ノ本は鎌倉から渡海した陰陽師が、海嘯乗りしたと。お咎めもあったが、勇気もあると臨安に住むことを許された」

「うーん、スゲー」

 陽針は、しきりに感心している。

 その波乗り陰陽師が、鎌倉将軍の髑髏しゃれこうべを阿育王寺に納めたのだと、留吉は納得した。

 うんうんと頷きならが、隣を歩く楓の横顔を盗み見る。せっかく隣に居るのだから、どんなご馳走なのとか、凄い人出だねとか何でも良いから二人で話したい。

 それくらいは話せるが、留吉が話すと楓は馬鹿にしたような顔をする。正確に話しているつもりだが、どうも語調というか抑揚というか、発語の調子が違うようで、理解出来ませんと横を向く。晴隆介さまや蓉さんなら、いい直して指導してくれるのに、楓は子供だから、そういう力や配慮がないのだと思うことにしている。

 大声が上がり、人波が崩れた。

 前方で喧嘩騒ぎか。

 色々思案していた留吉は、楓からも離れていた。人の波に紛れてしまった楓を追って、母なる蓉が飛び出す。荷物持ちの下男が、留吉に並び、しきりに何か話しかける。一緒に居ろ、離れるなと喚いているのだ。

 子供の泣き声、大人の喧嘩声、大きく揺れる人波に、何時しか留吉は一人になり、小突かれ押され、波の外に飛び出し橋から落ちそうになった。膝を付いて堪える。滲んだ血が膝頭を伝っていく。

 この城内には、いったい幾つの橋があるのだろう。迷子になりそうな頃は、晴隆介邸への道を覚えるのではなく、橋の風情を覚えたものだ。



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