第56話 波乱を起こすのは誰なんだ

 出たり入ったり、忙しい吉郎だが、謝涛屋へ戻ると主に呼ばれた。

「謝涛丸に子供が乗っていたのか」

「へぇ、南針先生が可愛がってた留吉という子供です」

「ふんん、南針先生も結構騒動を起こすご仁だな」

「父さま、それはあんまりないいよう」

 娘の彩恵が、廊下から口出しした。

「それそれ、お前のような直で大人しい娘が、そのような口をきくのも元はといえば南針先生の存在だ」

「先生に悪気はなくとも、波乱を起こす性質たちなのだ」

「そんなぁ、あんまりです。父さまは、わたしがどれだけ先生にお助け頂いたのか、お忘れですか」

「これ、これ、父さまに何という口をきく」

 これは、彩恵の後ろに現れた母親だ。

 にわかな親子喧嘩に、身を引き後ずさる吉郎に主の怒声が飛んだ。

「こらぁ、まだ用事は済んでおらぬ。勝手に動くな」

「へぇ、へぇ、すんません、すんません」

 吉郎が這いつくばっているうちに、母娘は奥へ去っていた。

「お前は、その子供を見知っているのか」

「いいえ、知りません。でも謝涛丸の船頭さんは良く知っている子で、南針先生とその子が謝涛丸で対馬まで乗った時に、船内で迷子になった子供がそのまま南宋に渡ったようです。その以上のことは知りません」

「ふん、もう良い。問題なのはその子供ではなく、謝涛丸の行方だ」

 謝涛屋の他の船が、南宋に渡る予定はないが、他所の船に誰か乗せて状況を把握したいと謝涛屋主は思案している。

 吉郎は、南針先生に何と報告しようかと思案しながら、医家に戻って行く。


 夕餉のときは、とうに過ぎていたが、みな膳を前に吉郎の帰りを待っていた。

「ご苦労さん、ご苦労さん。腹が減ったであろう。ささ、飯にしよう。婆さん、温かい汁を頼む」

「へぃ、和尚先生、お待ちどうさま。熱い汁だで気を付けて召し上がれ」

 吉郎は、南針の手を汁椀に触れさせ「熱い汁でございます」と甲斐甲斐しく世話をやく。

 吉郎の仕事ぶりを横目に、皆満足気に熱い汁に専念する。主従が共に膳に向かう和やかな和尚先生が決めた約束事だ。

 この枯れ枝のような和尚先生とは、あまり話したことのない吉郎だが、留吉のことは皆心配しているようだから、この際思い切って和尚先生に謝涛丸遭難の件を相談してみようと思った。あっぱれ吉郎の思案だ。

「南針先生、謝涛丸のことをみんなに話そうと思うのですが‥‥‥」

「謝涛丸がどうした?」

 和尚が、箸を置いた。

「ああ、皆に話してくれ。皆が心配している留吉にも関わることだ」

 南針に促されて、この場の主役となった吉郎は些か得意気に話し出す。

「どうやら、謝涛丸が遭難したようで、謝涛屋は大騒ぎで。もう三月半も前に博多に向かって臨安を出航したのですが、まだ戻りません」

「ひぇ」小さいながら若い女子のような婆さんの悲鳴だ。

 舟山群島の先で博多に向かう謝涛丸を見ている他所の船が、すでに戻っていて、その知らせからいよいよ遭難騒ぎとなったのだ。

「そうなると、もう待つしかないのですが、面白い話を聞き込んできました。城内で謝涛丸に乗って来たという子供に会ったというのです。その爺さんに会ってきました。留吉つぁんのようでもあり、そうでないようでもあり、おれには、それ以上分かりませんが、何でも良い身なりをしていたそうで‥‥‥」

「船長が、留吉を異国に置いてきたのか、そんなことがあるだろうか」

「あるかもしれん。なにしろ南針先生が船に留吉を置いてきた」

「あれは、その留吉本人の希望であって‥‥‥ 申し訳ありません」

「責めているのではないのだ。留吉の希なのだ。臨安に残ることが本人の意思なら、船長も南針先生のように折れたかもしれない。どうじゃ?」

 両先生の何時にない激しいともいえる会話に、爺さんも婆さんも、もちろん吉郎も息を呑む。

「留吉は、常に知識欲旺盛であった。足元の野草を目に付いた梢の虫を、一つ一つ丁寧に見つめ、名前を知りたがり、どう役立つのか聞いてきた。なかなか手ごわい弟子であった。老い先短いわしの元に置くより、広い世界に飛び出すなら、それを助けてやりたいものだ。何しろ、陽針の虐めから守ってやれなかった。なんという情けなさだ。そうであろう南針先生」

 南針は、声もなく頭を垂れた。

 凄いな、凄いんだなと、ほかの言葉を思いつかない吉郎は思う。

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