第55話 疫病神が現れた
臨安で年を越した留吉は、鎌倉陰陽師の末裔安倍晴隆介の屋敷で殊の外暑い夏を迎えつつある。
四角い文字に追いまくられ、逃げ惑う。ほーっとため息を吐き出し汗に塗れて目覚める毎日だが、逃げ出そうとは思わない。
愚痴をこぼさない。笑顔を忘れない。みんなに挨拶をする。
屋敷で働く人たちに「おはよう」「ありがとう」「行ってきます」「ただいま」と繰り返せば、それも立派な学びで日々で口元が滑らかになる。
近くの店舗を覗いて「こんにちは」と挨拶すると、南宋語が雨霰と降ってくる。ほぼ解らないが、一つ二つと言葉が増える。饅頭だったり、揚げ菓子だったり、晴れだの雨だの天気の具合だったりだ。近隣の住人は、小さな異人を暖かい目で見守る。元来、臨安城の人々は、外来人に案外と親切だ。多くの肌色と多くの目の色、多くの言語が流れ込むこの城は、排他的になるより、親しく見守る方が、あとあと上手くいくことを知っている。
凡庸な風情の留吉だが、笑顔を惜しまないこの子は目立つのだ。小銭でも持っていれば、早速に巻き上げられてしまいそうだが、笑顔しか持ち合わせない異国の少年は、地元の親切の恰好の的だ。
机に向かって書籍を広げるのは、朝の早いうちに終えるよう心がけている。
朝食は晴隆介と一緒だ。お粥に青菜、干し魚を細かくした物をパラパラとお粥にかける。
広い食堂の真ん中に据えられた卓に、晴隆介と留吉の二人。入り口近くに
留吉は、綿入れ上着を採寸し縫い上げてくれた蓉をお針子さんだと思っている。確かに屋敷の衣服は蓉の差配で整えられているが、その役割は家内の全てを差配することだ。
奥向きから下働きにまで目を配り、金銭の出入りを書き付けて、主人の晴隆介に報告する。
独身の晴隆介の奥方の役目も果たしているのだ。南宋には、こういう確り者の婦人が多い。昔なら男がやっていた仕事を立派にこなすのだ。
ここに一人の少女がいる。
なんでぇ、こいつは? と気になって仕方ない。
これが、あの蓉の娘かと疑ってしまう。晴隆介が一番だが、蓉は二番目だ。言葉が通じなくても、その気遣いは十分有難く大好きな女の人だ。鎌倉の富谷には、女の人が沢山いたが、こんな風に好きだと思ったことはない。
どう好きなのか、聞かれても困る。もし母さんがいたら、こんなかなぁと思ってしまうが、そもそも母親がどんな者か分からないのだ。
ともかく、ムカつく蓉の娘の楓だ。しかし、新しい生活の中の瘤のようなこの悩みが、いかに小さな瘤だと、もう直ぐ知ることになる留吉だ。
夕方、晴隆介が家にいれば夕食までのひと時、二人で西湖の畔を散歩する。
昔から南宋の人々が大切にしてきた西湖の風景を楽しませてもらう。
湖を渡る風に吹かれて、今日は何をしたか報告する。あれもこれもそれも質問が散りばめられた話は尽きることがない。
「留吉は、
問われた留吉は、目を大きくして小さく首を振る。
「誰とも分からないが、鎌倉将軍の舎利を納めたという寺だ。わたしは、己の出自を探そうとは思わなかった。見ないふりをしていたのかも知れない。見れば、迷いが生じ、迷いを深め、楽しめぬ日々に陥ると感じたのだ。簡単にいえば、逃げていたのだ。わたしの話が分かるか」
「うーうん、易しい言葉なのに、難しい内容で、分かったとはいえません」
「ほお、立派な理解力だ」
「えっ、分からないのですよ。おらぁ、やっぱり阿保かもしれない。ちっとも文字が覚えられないし、書くとふにゃふにゃで文字とはいえない。蓉さんが笑いを懸命に
「ハハハハハ」と晴隆介の明るい声に、暗い叫びが迫ってくる。
二人は、期せずして振り向いた。
散策の人々を蹴散らして叫び声が近づいてくる。
晴隆介は、脇の留吉を素早く後ろに引っ張り込む。晴隆介の背中にしがみ付いた留吉は、博多の港で南針先生こと波丸の腰にしがみ付いた事を思い出す。
晴隆介の膝元に男が転がり込んできた。
薄汚れた衣に剃髪の髪がぐずぐずと伸び、頬がこけて乞食のようだ。
「助けてください。兵士なんかになりたくない。あなたさまが身内だといってくだされば、逃れられます」
追っ手は、数人の兵士だった。
明日にも、攻め込んだ来るかも分からない蒙古軍に備えて、臨安軍は常に兵士を徴集していた。その辺にウロウロしている若者は、犯罪者のように捕まえて兵士とした。事実、兵士はならず者や食い詰め者が大方で、庶民から嫌われていた。
「あっ、あっ、留吉ではないか。ど、どうして此処に? 助けてくれ留吉、助けて」
顔を覗かせた留吉に縋る声に、晴隆介が留吉を見つめる。
思わず頷いた留吉は、たちまち後悔した。また虐められる。またなぶられる。
男は、なんと天敵陽針であった。
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