第49話 鷹の羽家紋を背負う

 一一二六年、後に満州族へと繋がる勢力金に滅ぼされた宋は、江南に逃れ、王室は杭州に政権を再建した。以来、一二七六年に蒙古に滅ぼされるまでの約一五〇年間、南宋の行在あんざいとして臨安府はある。

 その役目が、もう直ぐ終わろうとしているのを誰もが予感しているが、何時と分かる訳もなく、街の賑わいは最後のあだ花を咲かせている。

 百万都市といわれる臨安は、城壁に囲まれているが、留吉の小さな目には捉えられない。鎌倉も留吉の目には大きく映ったが、人の多さ、賑やかさは比ぶべくもない。

 前からくる人にぶつかりそうになるので、船頭さんの尻に隠れる位置で歩けば、その間は見る見る開き、後ろからくる人に悪意なく突き飛ばされる。よたつき、足をもつれさせ、ばんと伏せ身に倒れそうになった上体を五郎左の節くれだった両手が辛うじて受け止めた。

 それから、二人は親子のように手を繋ぎ歩いた。留吉は十分照れくさく恥ずかしい。

「ずっとこのまま歩くのですか、子供のように」

「うん? 子供じゃねえか」

「だってぇ」

 留吉の不満声は、船頭との船旅で覚えた甘えを帯びていた。

 大通りを外れ、衣類が溢れる店先の前で止まった。しばし、布の波を見上げていると店内から男が出てきた。

 男二人は、早口で喧嘩のように話し出した。

 異国の言葉が分からない留吉は、往来を見渡し、店内を覗き込み忙しい。

 五郎左に背中を押されて、店内に入った。どうやら、ここで買物をするようだ。

 店の男が、華やかな刺繍が躍る上着を留吉の身体に押し付けた。

「うーん、どうだ? これを着るか」

 留吉は、激しく首を振った。

「もっと、地味なものにしてください」

 辺りを見回した留吉は、「あっ、あれがいいかな」

 黒い色味の衣類に近づいた。

 男は「だめ、だめ」と首を振り、けたたましく言葉を発した。

 臨安では、その衣服と頭巾で己の商売が分かるような服装をしていた。

 勝手に羽織を付け、気ままに好きな帽子を被ることは出来ない。南宋末期のこの頃は、若者が仕来りを破って奇妙な服装を楽しんだが、わざわざ荷売り屋と同じ格好はしない。

 如何したものかと思案する仮の親子に日本語が降ってきた。

「ご子息の衣服にお困りですか、これなど如何でしょう」と指し示すのは、陶器の絵柄によくある唐子のような服装だった。「気に入りませんか」と笑っている。

「父上どの、近くでございます。わが家へお越しください。日本人の着物がございます」

「あなたさまは、日本の方ですか」

「宋人と日本の血を引く者でございます。先祖は、鎌倉の陰陽師だと伝えられております」

「へぇー、じゃあやっぱり安倍さまですか」

 日本語が通じるとなると、賢しらに話しかける留吉だ。

「これは驚きました。正しく我が姓は安倍、名は晴隆介はるたかのすけ。みなには、ハルと呼ばれております」

「おれは、留吉。臨安に着いたばかりです」

「わしは、謝涛丸の船頭、五郎左でござる」

 話しているハルの足が止まり、右手で指示された屋敷は、立派な二階建てだが大分草臥くたびれている。西側の軒が傾いているのは、湿気をふんだん含んだ西湖からの風が吹き付けるせいか。

 今までの謝涛丸の商売相手とは異なる生業を感じ取った五郎左は、家業は何かと首を傾げた。

 着物は、武家の若殿用か絹物の一揃えで、袖なし羽織には並び鷹の羽の家紋が入っていた。

 ここにいる誰もが知らないが、これはその昔、海で遭難した少年の衣類だった。

それでも五郎左は、先々までを見込む。

 この家紋は確か菊池家のものだ。謝涛屋に出入りしている宇土さまの主家だ。こんな家紋を付けて博多を歩けない。

「これはお武家の衣装で、わしら庶民が着るものではないなぁ」

「うーん、分かるけど、この上着が欲しいな」

 留吉は、袖なし羽織を手に取り矯めつ眇めつしている。

「他にはないのか、わしが着ているような丈夫な織物が良いのだが‥‥‥」

「さあて、大人の物なら幾らでもあるのですがねぇ」

「明日までに作ってお届けしますよ。今日は、その羽織をお持ちください」

 年老いた女が出て来て、親指と小指を精一杯広げ、留吉の背丈や身幅を測って微笑むこともなく下がった。

 食事をご馳走すると誘われたが、留吉のお腹の具合が良くないと断り、屋敷を後にした。

 着古した膝切衣に、家紋の付いた袖なし羽織を羽織った留吉の足は弾んでいる。

 大通りに出ると雨がポツリと落ちて来てきた。空を見上げる二人に、謝涛丸の水主たちが、「おーぃ」と迫ってきた。


 昨夜、荒れ狂った雨はやんだが、寒くて寝床を離れられない。

「さみいから、まだ寝てろ」と同なじ部屋に寝起きする五郎左船長にいわれ、ぐずぐずしている留吉だ。

 こんな贅沢は、覚えているかぎり初めてだ。

 病でもないのに、寒いから起きなくてもいいなんて、極上の朝だ。

 もの心付いた頃には、富谷の裏手でちょこまかと働いていた。特に虐められた訳でもないが、子供らしく遊んでもらった訳でもなく、人に遅れずご飯を食べるのが精一杯だった。

 何時の間にか、変な男がいた。髪が茶色で瞳が明るい波丸だった。彼は優しかった。微笑んだ目に会うと嬉しくなって傍に寄ろうとすると末吉兄ぃに先を越され、味噌っかすの留吉だった。そうだ、嵐の日に末吉兄ぃが海から拾ってきた人だと何時の間にか知っていた。そのうちに働き出した波丸は、小遣をもらったのか、饅頭を買っては、路上に屯する子供や、乞食おこもまで、だれかれなく与え、もちろん留吉にも笑顔を添えてくれた。

 博多の港に着いた時、遠くに波丸の姿を認め「これが、神さまの思し召し」というものだと思い、駆け出した。波丸の背中に隠れた時、これで死なずに済むと思った。

 鎌倉のこと、かどわかし船の底、南針先生となった波丸のこと、あれこれを思い出すと、涙がじわじわと滲み出す。

 あんなにお世話になったのに、逃げるように謝涛丸に留まった己が、ひどく悪いことをしたようで、洟をすすっていると「どうした? 風邪でも引いたか」と五郎左に声を掛けられた。

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