第50話 放浪はつづく

 寒かった部屋は、もう昼の陽射が満ち溢れている。

「大丈夫です。もう起きます。お腹が空きました」

「ああ、あったかい物を沢山食べろ。それから、安倍さまからこれが届けられた。袖なしはやめて、この綿入れを着ろ。あったかいぞ」

 ぼんと衣類が入っているであろう包みを上掛けの上に乗せた五郎左に、「はーい」と留吉。

 明るい色味の小袖に地味な袴を手伝ってもらいながら、身につけた。それに綿入れ上着を羽織って階下の食堂に降りると、謝涛丸の仲間から歓声が上がった。

「おー、若旦那のお出ましだ。みなみな、粗相のないようにな。ハハハハハ」

 最後の笑い声は要らないだろうと思いながら、留吉は不思議な満足感を覚えていた。

 地味に仕立てられた綿入れの裏地には、花が咲き乱れ唐子が舞い、背中の部分には大きな鳥が天を目指す。

 一歩踏み出す毎に、空に舞い上がる気分だ。五郎左は、留吉の顔付が変わっているのを気付いていた。

 昨日の雨が嘘のように晴れ晴れ天気の街に、男たちが散っていく。謝涛丸の商いは終えたが、水主たちそれぞれも商売を許されている。葛籠一つなどともいわれているが、みなそれより小さい包一つ二つだ。腹巻に袋を一つ収めてしまう者もいる。中には高額なお宝が入っているのだろう。酒だ女だ博打だと現を抜かしている男には出来ない芸当だ。

 宿の外で、五郎左と留吉が親子げんかだ。

「直ぐに帰って来るから、部屋にいろ」

「いやだ。おらも街を歩きたい。明後日には船が戻るんだから、もう刻がない」

 五郎左は、特別な人に会うのか連れてってはくれない。それなら、一人で街を散策したいという留吉を押し止めている五郎左だ。

「こんにちは、五郎左どの。お出かけですか」

 安倍晴隆介だ。

 黒い衣服は、その辺を歩いている男と同じだが、輝くように見えるのはどうしてだろうと留吉は思う。

「ああ、これは安倍さま。この度は、留吉に結構な衣類をお届けいただきありがとうございました。お礼に伺わねばと思っておりました。これ、留吉、お礼を申せ」

 軽く頭を押さえつけ、五郎左は満面の笑みだ。

「あんがとうー」

「留吉さん、良く似合っている。着心地はどうかな」

 留吉は、日差しに向かって両腕を上げ綿入れを誇ってみせた。

「どうも、躾がいき届きませんで、申し訳ない」

「いえ、いえ、お出かけのところお足を止めて申し訳ありません」

「おらぁ、行かないよ。街をぶらぶらするんだ」

「部屋で待っておれと申していたのですが‥‥‥」

「五郎左どの、わたしが留吉さんと街歩きをしましょう。それなら心配ないでしょう」

「いや、それでは‥‥‥」

「嬉しいな、嬉しいな」

 ぴょんピョン飛び跳ねる留吉を安倍晴隆介が優しい眼差しで見つめている。

 手こそ繋がないが、晴隆介の右袖が留吉の背中でヒラヒラしている。離れていく二人を五郎左は、しばし見送った。何やら胸がざわつく。

 夕刻、宿に戻った五郎左は、留吉が戻っていないのを知った。

「あのお方は何を考えているやら」と呟く船長の顔色に配下の男たちが顔を見合わせる。

「お前らは、飯を始めろ。おれを待つ必要はない」

 いい放つと、忙し気に飛び出していった。


 留吉は、安倍晴隆介の屋敷にいた。

 ここへ着くまでに、二人は晴隆介の先祖の話で盛り上がった。

「ご先祖様は、鎌倉の陰陽師だという話はしたな。何でもその男は、鎌倉幕府の将軍さまの髑髏しゃれこうべを抱えて大陸へ渡ってきたらしい。殺された将軍が生前参詣を望んだ寺へ髑髏を収めるためだ。そして、この臨安に住み着き、子をなした。五十年前とも百年前ともいわれている。我が家に伝わっている話だから、すべて本当の話とはいえないのだが、尋ねる人もいなかった。わたしは、ものごころ付いた時には宋語と日本語が話せ、日ノ本の子だといわれ育てられた。その頃には、血族の者は死に絶え、わたしの周りは、わたしに仕える者ばかりであった。その中に悪人がいなかったのは、わたしの幸せ、運の強さであると思っている」

 少し寂し気に話を結んだ。

「おらぁ、その将軍さまのことを知っているよ。みなもとの実朝さねともさまというんだ。鶴岡八幡宮の銀杏の木の下で首を盗られたんだ。その首は見つからなかったんだ。何でも知ってる爺さんがいてね、八幡宮へ一緒に行った時、教えてくれた」

「そなたは、鎌倉にいたのか」

「育ったのは鎌倉の坂のふもとだよ。親はいなくて、物知り爺さんや兄さんや姉さんと呼ぶ人たちに育てられたんだ」

 晴隆介は、親しくなったばかりの小さな友人を見つめた。平凡な風情の少年だが、生まれつきの頭の良さが伺われる。教育されなかったその頭脳に、知識を流し込めば、きっと、わたしの力になろうと思えた。

 甘い菓子を食べた後、案内されたのは、入り口が中庭に面した本だらけの部屋だ。

 正面と左手に設えられた棚には本があふれ、右手には細かい彫飾りの付いた立派な机と椅子があった。その椅子に座らされた留吉の目の前には、漢字が整然と並んだ書籍が開かれている。

「どうだ留吉、わたしと一緒に学ばないか。学問とは楽しいものだぞ。読み書き、考え、民の幸せを願うのだ」

 留吉は、分からない。こんな四角い文字が読めるようになるのか、書けるようになるのか、民の幸せって何だろう。おらに出来るだろうか、泣きながら机に向かう己が見えるようだ。

 だが、この人と一緒にいたい。


 苦虫を噛み潰した船長の指揮のもと、謝涛丸は出航した。

 内緒で乗せた子供一人の為に、予定を変更することは出来ない。

 涙を浮かべて「残る」と座り込んだ留吉の顔がぼやけていく。

「我がまま者め」と叫んでみたが、縛り上げて連れて帰ることは出来なかった。

 南針先生が育てれば、良くて鍼灸師。わしが育てれば、良くて船長。晴隆介が育てれば、いったい何者になるのか。五郎左には、想像も出来ない大者に育つ気がする。

 留吉の事ばかり考えてしまう五郎左は、西の海に生まれた嵐の芽に気付かなかった。

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