第48話 臨安城に浮かれる

 もう真夜中だと思うのに、街は眠らずわんわんと騒いでいる。

 異国の見知らぬ街の馴染めぬ宿のギギッと揺れる寝床にいる留吉は、熱に浮かされ夢遊の中だ。

 お腹がチクチク痛み、シクシク痛み、激しく吐いて、下痢を何度も繰り返し、何とか寝床に横たわったが戸外の喧騒から逃れられない。「南針先生、南針先生、助けてよーぉ」


 口いっぱいに詰め込んだ不思議の食べ物。

 食べ慣れない味付けに、一瞬身が躍ったが、前に座った船頭さんの後ろの南宋人家族の小さい子まで齧り付いているのを見れば、躊躇などしていられない。

 いくらえばって見せても、武道はもちろん、歩いても駆けても皆に負けてしまう。

 量はともかく、食べ物を拒絶しないと心に誓った。蛇でも蛙でも、鳥でも獣でも食べ物であれば口に入れた。ここは怪しい山野の炉端ではない。もっと怪し気な臨安城内の食堂だ。

 あんな子供に負けてたまるか、食べた食べた飲むように食べた。

 皿をも食べる勢いで、口を動かしていた留吉は、異様な視線を感じて顔をわずかに上げた。同じ卓を囲む仲間の視線が向けられていた。

「留、食い物は逃げねえ。腹の内と相談して、もちっとゆっくり食え」

 皆、心配してくれているのだと、「へへぇん」と微笑んだ。そのまま「ウェッー」と吐き出して、食堂あげての大騒ぎとなった。

 どうやってかわやに運ばれ、どうやって寝台に運ばれたのか覚えていない。白髭の爺さんに腹を探られ、苦い薬を飲まされ、うとうとした。

 赤い布が舞い上がり、留吉を天井へ押し上げる。

 食堂の入り口を飾り立てた五色の布がニヤリと笑い、ゆんらゆんらと襲い掛かる。

「南針先生、南針先生、助けてよーぉ」

「センセは、いねえよ。お前が見限ったんだぞ。ただの食いすぎだ。一晩寝ればスッキリするさ」

 冷たい言葉とは裏腹に、心配そうな船頭の顔が覗き込んでいた。

 船頭は、その名を五郎左という。あまり知る者はいないが、五郎左は、ここ南宋臨安の生まれだ。博多船頭の父親が臨安女に産ませた男児だ。母親は芸妓であったようだが、生まれた子が知るところではない。

 物心ついた頃は、海の上だった。赤子を船で育てる船頭など聞いたこともないといわれたが、一家揃って船上生活を送る人々もいた。なんの出来ないことはない。立派な海の男を育てるのだと、そんなことは一言もいわなかったが、誰の目にも荒々しくも機嫌良く育つ男の子が見てとれた。月日は流れ、父親は亡くなる頃には、息子を得ていっぱしの船頭となっていた。母親は、博多女だが産後の肥立ちが悪く愛児を残して死んだ。

 五郎左は、息子が十歳になると船に乗せた。亡くなった親父の気持ちをこれほど理解したことはなかった。

 海の男に育ちつつあった倅を三年前に亡くした。海賊に襲われたのだ。戦いつつ何とか逃げ延びたが、気付けば一番大事な宝物であった息子が血に塗れ倒れていた。

 立ち直ったとはいえないが、船に乗っていれば、孤独ということはない。海上では寂しがる時間などないのだ。

 そんな五郎左の前に留吉が現れた。凡庸ともいえる平凡な風情の小柄な少年だ。それでもかれる人種がいる。


 翌日は、昼過ぎまで床の中にいた。

 もう一口も食べたくないと思ったのに、寝台の脇に置かれた水を飲むと、小腹が空いていることに気がついた。

 階段を上がってくる足音が止り、部屋の戸が静かに開いて、船頭さんの顔が覗いた。

「どうだ? 南針先生が夢の中で腹痛はらいたを治してくれたか」

 少しの笑顔と頷きで応えた留吉は、おっかねぇ顔も見慣れると、優しい顔に見えるんだなぁと思ってお腹の中がぼわぁぁんと暖かくなった。

 一階の食堂に降りて、白湯を飲み粥をすすっていると、配膳係が真っ黒な汁を運んできた。

 見た目も匂いも苦い苦い薬湯だ。

 料理場から太っちょの大男が半身だけ覗かせている。留吉は、さっと立ち上がり両腕を前で交差させて覚えたばかりの唐風挨拶をした。

「薬湯を飲んだら出かけるぞ」

 船頭にそくされて、苦湯を一気に飲み干した。

 口をパクパクして苦味を逃しながら街を歩いた。


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