第47話 南針が傷ついた

 歩き出した南針の頭を雨粒が滑った。

 今朝、井戸端で水を浴び、むさ苦しくなっていた頭と髭を剃り旅の垢をそぎ落とした。

 海からの不穏な風に押されて、足先は思わず謝涛屋に向かっている。

 雨は、誰に遠慮もなく足を速める人々を飲み込んでいく。南針も謝涛屋の裏路地に駆け込んだ。

 少し開いた裏木戸から不穏な気が滲み出し、木戸をわずかに揺らしている。

 足を止めた南針が、目線だけ先行させれば、思わず身体が戻ってきてしまう。

「落ち着け、落ち着け、銭なら幾らでもやるぞ。船も仕立てよう、何処へでも行くがよか」

 落ち着きのない謝涛屋の主の声があわあわ流れる。

 事件が起こっているのは明白だ。

 目線を戻せば、誰かを抱え込み、人質に取っている見覚えのある後ろ姿が震えていた。

 静かに息を吐き出し、顔を差し入れ、左腕を上げた。後ろ姿に向かい合う男たちの目が、わずかに光る。

 静かにしろと指先で合図を送れば、パチパチと応える目もある。

 右半身で、裏木戸を押した南針は、刃物を握っているであろう右腕に飛びついた。

 身体を捻って振り向いた男の右手が、顔の前で振られ視界が一瞬赤く染まった。それでも南針は、若者の身体を押さえつけ組み伏せた。

 女の叫び声が上がり、男たちの両手が倒れた二人に殺到した。次から次へと身体ごと倒れ込む男たちの熱気で辺りは沸騰し、何が何やら分からない。

 やがて引き裂かれた二人は、一人は縄を打たれ、一人は部屋へ運ばれた。

 顔面が血塗られ、誰だか分からない有様だが、人質となっていた娘は、取り乱す事なく内袖を引き出し、真っ赤に染まった顔から流れる血潮を拭った。

 助けてくれたのは、南針先生。それだけで、毅然として手当てに当たる彩恵だった。


 ほんの四半刻前のことだった。

 若い男が、彩恵を訪ねて来た。街中で挨拶したことはある。顔見知りだ。もっと知っている。南針先生の助手の方だと知っている。

「船を探しているのです。東国へ行く船です。急いでいます」

 裏木戸を開け放したまま、下女を従えた彩恵は、笑うとまだ少年のままの男を見つめた。

 言葉の端々に異国の雰囲気を垣間見せつつも、正しい日本語をボツボツと切るように話す。

「南針先生のお弟子さんですね」

「いいえ、弟子ではありません。同僚です。年は下ですが、兄弟子です。分かりますか。わたしの方が、経験が長いのです」

 どうやら、怒らせてしまったようだ。

「船のことは分かりません。表で尋ねてください」

「南針先生の患者さんですよね。だからお訪ねしました。助けて頂きたい」

 沈黙が裏庭に広がっていく。小女がゆっくり彩恵の前に出た。

 奥から不審げな男の声が届き、足音が近づいてくる。

 小女は腕を掴まれ、庭の植え込み辺りに突き飛ばされた。

「お嬢さま、どちらさまです?」

 彩恵が、「あっ」と叫んだ時には、若い男の匂いが被さり、喉の辺りに冷たい物を押し当てられていた。

 番頭が裏庭に現れ、大事件となった。

「何が欲しい、何でもやろう」

 家うちから、幾つもの足音が駆け出して来る。

「なんな、なんな、なんがかー」「誰たい、あいつは」「坊主か」「うんにゃ、鍼灸師たい」「南針先生のお弟子たい」「それがどうして?」

 わわわぁわーんと、裏庭に正統博多弁と似非博多弁が飛び交った。

 似非言葉を掻い潜り、すばしこい下男が倒れている彩恵の小女の元へ走り寄り助け起こした。

 彩恵の父親も驚きの顔を覗かせた。

「わしは、その娘の父親だ。謝涛屋の主だ。話を聞こう」

「東国へ行く船に乗りたい。銭も欲しい」

 陽針の声も震え出した。こんな事態を望んだ訳ではない。そっと、秘かに船に乗りたかっただけだ。

 手が震え、彩恵の喉元から一筋の血が伝う。

「落ち着け、落ち着け、銭なら幾らでもやるぞ。船も仕立てよう、何処へでも行くがよか」

 落ち着きのない謝涛屋の主の声があわあわ流れた。

 雨に濡れ、ハタハタと揺れていた裏木戸から男の顔が覗き、すぐに引っ込んだ。高く上がった左手の指が何か伝えている。乱心者と対峙する男たちは、目を見張りつつも動いてはいけないと理解した。

 男が躍り込んでからは、あっという間であった。

 バタバタと男たちが入り乱れ、誰が何をしたのか分からない。

 部屋へ横たえられた南針は、呻き声など挙げないが「陽針を逃さぬように」「役人に引く渡す前に、話がしたい。わたしが尋問する」と擦れた声で告げる。

 担がれるように連れて来られた漢方医は、傷を見るなり尻を引いた。

 ちょうど両目蓋の上を横切った傷は、瞳をも傷つけたようで、「もう見えるようにはならぬ」と医者にいわせた。

 南針の傷は重篤で、その晩、高熱を発した。


 彩恵にとって、何時も南針先生は憧れだ。何だか分からない身体の痛みを治してもらった。針の一本も打たないままにだ。今度は、暴漢の手から助けてくれた。

 翌朝も熱が下がらず、心配が増すばかりだ。彩恵は、枕元を離れず、看護にあたった。布を冷やして南針先生の額に置くが冷えるのは額ばかりで、その身体から熱気が上がり、彩恵は眩暈を覚えた。

 彩恵は、南針先生の後を追った。港に向かって歩いて行く先生がどんどん離れて行く。ぐらりと身体が傾き、びくりと目覚めた。

 立ったままの母親がいた。

「身を清め、ご飯を食べなさい。そんな汚い身形で看護をしてはなりません。ほんにセンセの傷を治したいなら、食べて眠り、元気な身体で医者を探しなさい。居眠りしながら、そこに座っていて何になります」

 厳しい声に優しさが隠れ、涙が浮かび上がってくるが、「はい」と小さく応えて立ち上がった。

 彩恵は、南針先生の後を追った。先生がどんどん離れて行く。「先生」と呼び止めると、笑顔が振り返り、おいでおいでと手を振った。

 はっと目覚めた彩恵は、毅然と起き上がり、腹いっぱいご飯を食べた。

 額に白布を巻いた下女を共に、承天寺に向かった。玄西和尚を訪ねるのだ。女二人の後ろ遥かに離れて謝涛屋の男衆が後を追う。


 みなの視線が、波乱の大陸に向かっている。

 あちらも、そちらも、こちらも、何一つ解決しないまま時間だけが過ぎて行く。

 蒙古の襲来に立ち向かうことになった十八歳の執権北条時宗は、鎌倉を離れない。離れられない難題が、身近に蠢いていた。蒙古の問題を京都朝廷と相談しなければならないのだが、京都にいて、その役を担っている庶兄は、嫡子として執権に就いた弟時宗への不満を募らせ、執権の反対勢力は爆発寸前だ。

 南針は、己の子南海の誕生も知らず、幼い頃に生き別れた兄弟姉妹が近くにいることも知らず、光を失い混迷の闇に沈んだ。

 富谷の面々は、京都の居場所を確立したいと奮闘し、その目は遠くに届かない。

 そこから、勝次だけが弾き飛ばされ博多に向かっている。

 博多のしがらみから抜け出した留吉だけが、易々と南宋に乗り込み、蒙古襲来の最前線に立った。

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