第46話 陽針が消えた
穏やかな海を進む船の船尾に、背を丸めた南針がいる。戻りたくない気分の男は、一応博多に向かっている。
「おーぃ、センセ、倅はどうした」
桟橋に上がると、早速声を掛けられた。
行きに謝涛丸まで、乗せてもらった爺さんだ。海に飛び込んだ留吉をえらく気に入っていた。
「留吉は、どうしたい?」
答えたくない南針は、聞こえなかったように足早だ。小舟の上の爺さんは、もちろん追って来たりはしない。
結局、塔二郎と弥二郎の二人には会えなかった。しかし、対馬と違い壱岐島では、貧しい老夫婦に歓迎されムクリの手から無事に帰って来た二人の話をしてくれた。
小宝を貰って帰ったので問題が生じたのだ。命からがら逃げて来たのなら「おお、可哀そうに」と野草の一つもくれようが、お宝を抱えて元気に帰って来たので皆の癇にさわり、嫉妬を呼んだ。昔の仲間がおこぼれを求めて近寄って来たが、あとは怪しげに遠巻きにした。
まるで、村八分だ。
二人は、壱岐島の爺さん婆さんを訪ねて小遣を渡すと博多を目指して去って行ったという。
爺さんは涙まじりにいった。「博多に帰ったら、やつらを探して力になってくれろ」
何もかも後手に回り、歯車が知らぬ方向へ動き出している。
角を曲がると和尚の医家が見えたが、静かな佇まいが、異変を感じさせる。
南針は、重い脚を急がせて表戸に手を掛けたが、確りと閉じられた引き戸は、南針を拒むように動かない。
慌てて裏手に回ったその目に、留吉が丹精込めた畑が無残に荒らされていた。
しばし戸惑う南針の後ろから、通いの飯炊き婆さんが「ああ、センセ」と声を絞る。
「どうした? 何があった?」
「ああ、ああ」と声を上げて膝をつく婆さんの背を擦り「和尚は無事か」と囁いた。
カクカクと頷く婆さんを励まして、話を聞こうとするが「わしも、よう分からん」と肩を震わせた。
「陽針は? 爺さんは?」
首ばかり振る婆さんだが、和尚は怪我をして承天寺に居るという。婆さんは着替えを取りに来たのだ。
承天寺には行きたくないが、まずは和尚を見舞い、話を聞かなければなるまいと二人は並んで歩き出した。聖福寺の正門へ辿り着く前に、もう呼び止められた。
「ああぁ、センセ。帰ってきたかね。大変だったんだよ」
立ち止まれば、わらわらと近所の患者が姿を見せる。両手を付き出した南針の声は、何時になく強く発せられた。
「皆さん、しばし待ってくれ。わたしは、まず、和尚先生を見舞いに行く。しばし刻をくれ」
頷きながら、足を止めた数人を振り切って先を急いだ。
承天寺内に入ってからは、婆さんの後ろに従った。一度も踏み入ったことのない建物の裏手に回ると、声を掛けることもなくどんどん進む。
静まり返った寺内の廊下を進むと、遣戸に向かって声を掛けた。うむと人の気配がして、南針もほっと息を吐いた。
枯れ木のごとく横たわる和尚は、婆さんの後ろから覗く南針を認めるとかっと目を開いた。
そして肩の力を抜いた病人は、か細い声を発した。
「ふーぅ、帰ってくれたか」
「申し訳ありません。遅くなりました」
長い話は無理だろう。そっと枯れ手を握ると、薄っすらと涙の浮かんだ目が微笑んだ。
ほとほと、遣戸が叩かれ「鍼玄さまがお呼びです」と声が掛かった。
静かに蹲っていた婆さんがびくりと跳ねた。和尚は、目を剝き小さく顔を振る。
「直ぐに行くとお伝え下さい」
そう声を掛けて、遠ざかる足音を聞いた。
「陽針は、どうしたのです?」
首を振り振り「何処かへ行ってしまった」と婆さんが答える。
患者と揉めて、刃物を振り回し、止めに入った和尚に怪我を負わせたのだと、ようよう事件に近づいていく。
逃げていても仕方ないと、鍼玄の部屋を訪ねた南針は、横たわる師匠に「えっ」と驚きを隠すことが出来ない。
「鍼玄師匠さま、如何された?」
ぐるりと巻かれた白布から、怒りの目が覗く。
「陽針の仕業ですか」
「逃げる路銀が欲しいと来たので、断ったら、この始末だ」
「あやつを見つけ、始末せよ。日ノ本の民に迷惑を掛けてはならぬ」
「何処へ行ったと思われます?」
「東国を目指したと思うが、鎌倉かもしれぬ。船に乗る銭が欲しいと、せがんだ」
行かねばなるまい。
久しぶりに、鍼玄師匠を見つめ頷いていた。立ち上がる己を追った目が、ニヤリと笑った気がした。
罠かもしれない。それでも行かねばならないと思った。
迷惑をかけた富谷の人々には、会いたくもあり、会いたくもない。
しかし、留吉の話によると富谷は、京都に鞍替えしたという。もう、鎌倉に富谷はないのだ。
灯りを付けるのも忘れて、ぼうっとしている南針の耳が、ほとほとと裏戸を叩く音を捉えた。
「センセ、先生、いないだか。ここへ飯を置いとくけに‥‥‥」
ここに居ては、元の生活に戻ってしまい、長旅には出られなくなる。
届けられた飯をジャリジャリと食べた。締め切られた部屋は、見知らぬ空間で寒々と澱んでいた。
街が起きだした気配に、目を覚ました。
鎌倉へ行く船を探すには、やはり波濤屋を頼るしか、思いつかない南針だ。
陽針は、どうしたのか。船を探しているのか、それとも東国へ向かって脚を進めているのか。
事件を起こしたのは、六日ほど前だという。船を探しているなら、まだ港辺りに潜伏しているかもしれない。
水だけ飲んで出かけた。
誰かいないかと船着場へ向かえば、いたいた、件の爺さん船頭が、もう一仕事終わったのか、小舟から上がってくるところだった。
「おはようございます」
まずは、腰低く声をかけた。
「おう、センセ、おはようござうったい」
機嫌の良い爺さんに聞いてみた。
「鎌倉行きの船はあるかい。どうやって探せばいいかな」
「センセやったら、そりゃ、謝涛屋に行けばよかね」
「他に船持ちはいないのか」
「そりゃ、おるが、出たばかりだ」
「その船は、何時出たのだ」
「ほうなぁ、十日ほど前かぁ‥‥‥」
南針は、ほっと胸をなでおろす。陽針は、その船には逃れていないだろう。
「留吉は、どうしたね。食っちまったかね」
「謝涛丸の船頭さんに預けた。なんだか、互いに気に入ったようで‥‥‥」
「大海原に乗り出したかい。羨ましかぁ」
「謝涛丸は、どの位で戻ってきますか」
「さて、三月かな、もっと早えかな」
沖に見入る爺さんは、思案顔だ。
「心配ないよな?」
心配気な南針の声に、口数の多い老船頭は応えなかった。
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