第44話 留吉は波濤を越えて

 親子とも兄弟ともいえる二人の喧嘩に、玄界灘が怒りを露わに荒波を立てた。

 それを蹴散らして大船は進む。

 やがて北西の方角に対馬の島影が見えてきた。

 ここで、数人の商人と荷物を積み込み、まず朝鮮半島に向かうのだ。

 荷を積み込んだ大船は、いよいよ大陸を目指して喧騒に包まれている。ここで小舟に乗り換える南針は、うろうろ狼狽えている。

「センセ、早く乗ってくれー。島に戻るぞー」

 小舟の船頭が、大声で呼んでいる。

「センセ、急いで急いで」

「申し訳ない。留吉が、連れの子供がいないのだ。迷子になったようだ」

「冗談じゃねぇ、餓鬼一人のために船出を遅らせる訳にゃあいかねぇ」

「ささ、降りた降りた」

 大男の水主かこが、南針を抱え上げ海に突き落とさんばかりに綱梯子に追いやった。

 梯子を降りようとしない南針に業を煮やした水主は、乱暴にも梯子を外した。綱梯子と共に海に落ちた南針を小舟の老船頭が笑いながら引き上げる。

「まったくもう、乱暴なやつらだ」ぶつぶついいながらも、老爺は早や櫓を漕ぎだした。

「おーぃ、南針先生よぉ、留吉はきっと見つけてやるから、心配するねぇ」と、だみ声が頭上に降ってくる。

 見上げれば、謝濤丸の船頭が満面の笑みを振り注ぐ。

 間者仕事であれば、海を泳いで大船に取り付き船腹を蹴って飛び上がり、船に戻らねばなるまい。それよりも海に落とされる下手を打つ前に、船上で何らか為すことがあっただろう。

 鍼灸師の南針先生は、決断の遅い鈍ら者だ。

 大船を呆然と見送る南針の目が、船尾に小さな影を認めた。

「南針先生、ごめんなさーい。おらぁ、一所懸命働くから‥‥‥」

 小さくなる留吉の声は波に紛れて届かない。

 留吉に、嫌われたと両肩を落とし、濡れネズミの南針はしょんぼりだ。

 謝濤丸が、荒波を踏みつけ離れていく。

 留吉は苦いツバを飲み込んで、ため息をついた。

 ああ、また話すのを忘れた。こんなに無理して南針先生に付いて来たのは、イジメから逃れる為ばかりではない。南針先生の赤ちゃんである南海の事を話す為だった。何度も話そうと思ったが、誰かが耳を立てている気がして、話し出せなかった。野山を行く日々の楽しさとイジメの苦しさに忙しかった。


 対馬の湊で、漁師の二人を探したが、「いねえなぁ」と冷たい返事しか返ってこない。

 南針に冷たい目を向ける男たち、女子供は、家から出てこない。一晩泊めて欲しいと宿を探したが、見つからない。食べ物にもありつけない南針は、港に戻り、夕闇迫る沖合をぼんやり見つめた。

「センセ、明日の朝早く壱岐の島まで行くぞ。乗って行くか」

 先ほど、島まで乗せてくれた爺さんだ。

「壱岐の方が、口が軽いべ。他所の島のことだからなぁ」

「二人は、もうこの島にはいないのか」

 声を落として尋ねれば、うなずくだけの答えが返ってきた。爺さんの小屋に泊めてもらい、翌朝早く船に乗った。こんなことでは間者の仕事は務まらない。もうすっかり鈍らな男に成り下がり、悔しさもなく虚しいだけの南針だ。

 壱岐の島に着くと、一度泊めてもらった小屋を訪ねた。

 びっくり顔の老夫婦は、婆さんは畑に行くといい、爺さんは海に魚釣りに行くという。歓迎されていないのだなとがっかりの南針だ。そもそも二人が喋る訛りの強い言葉が、はきと分からない。何となく、そんな感じ程度だ。

 そこへ、見知らぬ爺さんが、魚をぶら下げてやって来た。

 三人は、耳慣れしない言葉で、しきりと話し合う。

 南針は、ここも駄目かと歩き出した。

「あやややぁ」婆さんが思いの外の速さで飛んで来て、「センセ、せんせ」と袖を引く。

 今晩の采を何にしようか、センセをどうやって持て成そうかと話し合っていたのだという。

 囲炉裏の傍に座らされ、白湯で持て成されながら、南針は、己の心持ちにぼんやりしてしまう。年老いた夫婦の好意を推察出来なくなってしまった。間者の感覚を完全に失っている。

 じゅうじゅうと音を立てる魚の良い匂いが広がって、小さな煙に目をしばしばする南針だった。


 もちろん謝濤丸の船頭も、ちょっとは思案した。(この子を連れて行ったいいものか)と。

 腰に縋り、「おらも連れって」と懇願した少年の気持ちが分かると、思わず頷いてしまっていた。

 留吉は必死の面持ちで訴えた。

 和尚さんも南針先生も優しいから、あいつを叱ることが出来ないんだ。おらさえ居なければ、あの家は上手くいく。

 だから、連れてってと少年は真剣だ。

 行ったままになる訳ではない。三月、四月すれば、戻って来るのだ。その時点で、謝濤屋の旦那に相談すればいい。

 今、大人の南針先生よりも、この子の望みを叶えてやることが大切だ。大空に羽ばたく気合がある。

 おれの後継を真面目に育ててみたい。この子を救い出したあの時、港で子供売買の頭も跡取りとして育てたいといっていた。一見、平凡な風情の少年に過ぎないが、育ててみたい何かを隠し持っている。そう思わせる何かがあるのだ。

 数年前に、海賊との諍いで倅を失った船頭は、思案の波を振り払い、もう見えてきた半島の山並みを睨みつけた。

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