第43話 対馬へいくぞ
「和尚、少しお暇を頂きたい」
「‥‥‥ 患者が増えすぎたな。治療が雑になっておるやもしれん。急患は、わしが何とかしよう」
「申し訳ありません。出来るだけ早く戻ります」
「戻ってくれるのか?」
「はい、和尚さまのお許しがあれば‥‥‥ 戻ります」
結局、おれは行くのだ。鍼玄の命令だからではない。おれ自身が、蒙古から戻った二人に会ってみたいのだと己の気持ちにいい訳を付け出かける事にした。
翌日の仕事を済ませてから、対馬へ行く船を頼みに夕闇の中、南針は出かけた。
波濤屋の裏手に回り、船頭さんでもいないかと覗いてみた。
「南針先生、如何なさいました」
悪さで、覗いていた訳ではないが、驚いて飛びのいた。
「まあ、そんなに驚いて、悪さはいけませんよ」
後ろから声を掛けたのは、帰ってきた彩恵の母親だ。ぞろぞろと供を従えている。
日本人の血より大陸の血が濃いのは明らかで、南針の姉か母のようだ。
「ああ、そのちょっと‥‥‥ 船を頼めないかと思いまして」
「船ですか、大きな船が必要かのう?」
「あーっ、いえ、わたしを乗せていただく船です。対馬へ行きたいのです」
ふふふと笑った婦人は、「裏の長屋にお行きなされ、誰か捕まえて、対馬へ行きたいと伝えなされ」と、南針を裏庭に押し込んで、屋敷の中に消えた。
翌朝早く、大桟橋で船を見上げえる南針がいた。
大きな船は、南宋に向けて出発しようとしている。その前に、対馬の沖に泊るので、乗って行けと顔見知りの船頭は、いとも簡単にいった。遠慮していても始まらない。遠慮なく、対馬沖まで乗せてもらい、小船に乗り換えて対馬を目指す段取りだ。
「おーぃ、センセ、早く乗った乗った」
南針が、乗り込んだその時、「南針先生、おらも連れてって」と甲高い叫び声。
転がるように駆けて来るのは、留吉だ。
仕方のないやつだと、肩で息を吐き出した南針は、「直ぐに帰ってくる。留守番していろ」と、すげなく答え、「船頭さん、舟を出してくれ」と命じた。
ぎこちなく動きだした小舟に向かって「連れてって、連れてって」と、留吉は必死だ。
背中を向けた南針をしばし見つめた留吉は、背中に袈裟懸けした包みを後頭部に移すと、穏やかな海中に足からそろそろと入ると、泳ぎ出した。
「南針先生、あれは、そのうち溺死体だぞ」
背中で見ていた南針は、振り向いてため息は吐いた。
「舟を停めてくれ」
「いいや、迎えに行った方が、話がはやい」と、海の男は情け深い。
舟が停まったのを認めた留吉の手足が止り、ゆるりと海中に沈んでいく。
衣を脱いだ南針が、あっという間に飛び込んだ。
南針の抜き手に、「先生は、何でも上手いな。も少し決断が早ければ、なお良いんだがなぁ」
舟は、濡れネズミの親子を乗せて、大船に辿り着いた。
降ろされた縄梯子を昇る留吉の尻が活き活きしている。その後から、南針の苦虫顔が上がってきて、大船は滑り出した。
一旦消えた小僧が船端から身を乗り出し、見送る小舟に手を振った。
「ふん、チビのあいつは、案外に大物だ」
呟いた船頭は、船着場に戻っていく。
「あの子の背中はどうした?」
南宋からの脱出行で世話になった顔見知りの船頭は、遠慮のない声で問う。
もちろん、南針もすでに気付いている。
留吉の背中で、棒切れらしき物で激しく叩かれた傷が泣いている。
新しい傷の下に古い傷も眠っている。誰の仕業か、まさか玄西和尚ではあるまい。近所の悪ガキの仕業か、それなら南針に告げればいいことだ。
相変わらず、ぐずぐず考えている南針の頭には、初めから一人の人物が居座っている。
可愛くてうるさかった少年は、背が伸びて南針を越えそうな勢いだ。鍼玄師匠の伝言を伝える時は、なぜだか偉そうにえばってみせた。その顔に可愛さなど微塵も残っていない。
「お恥ずかしい。気付きませんでした」
「港で買った奴だろうが、先生が大切にしてくれると思って、助太刀したんだ。要らなければ、おれが貰おう」
「すみません。きっと、きっと大事に育てます」
「先生が大事にするから、妬心からイジメるやつがいるんだろうなぁ」
「わたしが、気付かなければいけなかったのです」
二人の会話を知ってか、知らずか、留吉は船端にへばりついて玄界灘を見つめている。
「対馬へ行くのは、あのムクリ帰りの漁師に会いに行くのだと聞いたが」
「はい、船頭どのに世話になったあの時、二人の漁船で博多に送ってもらいました」
「ああ、あの時の二人か、銭を与えれば、何でもしそうな若造だったな」
はぁっと、笑いを鼻に抜かした南針は、「ムクリの話を聞きたいと思いまして」と、正直に告げた。
間者仕事ではないのだ。何を隠すことがあろう。
「聞いて、どうする」
「いやぁ、南宋には知り人も多く‥‥‥」
「この船は、南宋行きだ。このまま乗って行くかい」
「いや、‥‥‥」
「おら、行きたい」
留吉が、大人顔で割り込んでくる。
「これ留吉、大人の話に口を挟むな」
「おう、留吉。連れてってやるぞ。もう少し大きくなったらな」
「ほんとに、ほんとに連れてってくれる」
「ああ、しかし南宋は遠いぞ。船酔いで飯も食えないぞ」
「大丈夫、おら、船酔いしない。長い間、かどわかし船に乗っていた。飯も食った」
「留吉、いい加減にしろ」
「おれは、おれは南針先生の
「そうではない。そうではないが、わたしの傍にいてくれ、頼む」
黙り込んでしまった二人の間に、帆がハタハタと仲裁に入った。
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