第42話 おれは奴じゃないぞ
年が明けて、愛情豊かな玄西和尚の尻について歩く留吉も十三歳になった。
誰にも慕われる南針先生は、二十四歳だ。
たぶん。
拾われた南針は、正確な生まれ年月を知らない。
歳は幾つだと問われ、指を突き出したかもしれないが、そもそも異国の言葉は解さなかったはずだ。新年を迎えても、あまり元気が無くもやもやした気分の南針だ。
蒙古からの使者が、また対馬にきた。魚を売りに近づいた漁民を連れ去ったという。
「きっと、殺されちまうんだ。可哀そうになぁ」と酒を飲む男達は、蒙古の脅威を感じているとは思えない。
かどわかされた漁民を心配しても、自分たちの明日の心配はしても、外敵の心配は、己の領分ではないと思ている。
その辺の飲んだくれだけではなく、御家人さえも同じような危機感しかもっていなかった。
「センセ、せんせーい、南針先生」
萌えたつ春の野をかき混ぜて騒いでいるのは、留吉だ。
「見て見て、これ可愛いでしょう」
背負った大きな籠に揺すられるように、和尚を追い越し駆けてくる。何かを握った右手を上げて振り回している。
野道に咲く何かが珍しいのか、満面の笑みで南針に飛びついてくる。
「はははぁ、何がそんなに嬉しいんだ?」
黄色い円形の小花が、留吉の手の中で踊っている。
「なんだ、
「おらぁ、こんな可愛い花を見たことないよ。初めて見たよ、鎌倉には無かったよ」
留吉の口から野を震わすほどの大声が響き渡る。
(こら大声を出すな、鎌倉なんて、迂闊にいうなよ)と、南針は苦笑する。鎌倉で悪事を働いたつもりはないが挨拶もなしに出てきたのは、やっぱり後ろ暗いのだ。今の己は、南宋の鍼灸師、以前は鎌倉に居たことは、出来るなら隠しておきたい。
やっと、二人の元に辿り着いた玄西和尚は、もう耳目の能力が落ちたよといわんばかりの顔をほころばせ、汗の滲んだ額に手の平を当てる。
「南宋の野山には、沢山自生していたに、この国には、まだまだ少ない」
「裏庭に植えるんだ。食べられるし、糞詰まりの薬にもなるんだって」
野を行く主従は、教え教えられ、何とも穏やかな日和だ。
この平和な日々が何時までも続くとは思えない南針だが、蒙古の足音はまだ聞こえない。
夏が過ぎ、はや野山の樹々が色づき始めた。
和尚の指導を受けて、留吉が丹精する小さな裏庭の畑を覗き込んでいた南針に、偉そうな声がかかる。
「おい、南針、承天寺の師匠が呼んでるよ」
「陽針、何という口の利き方だ。誰かの耳に入れば、損をするのは、そなただぞ」
「鍼玄師匠が、偉そうに伝えて来たんだ。早く行ったほうがいいよ」
ちょっと照れて、声を潜める陽針だ。
手が空いていたので、裏庭をブラブラしていた南針だ。その足で鍼玄師匠の元に向かった。
毘沙門堂の前を南に曲がり、聖福寺の正面を進んだ。承天寺の手前で西に折れ、誰にも会わなければいいなと小道を俯き加減に歩けば、「せんせ」と声を掛けられた。なぜとも無く、合掌して忙し気に通り過ぎる。これは、早めに承天寺の境内にお邪魔してしまおうと、脇門をくぐった。
鍼玄師匠と向き合った南針は、師匠の言葉を待っている。
(師匠は、こんな人だったろうか、まるで別人だ)
南宋の山の禅寺で、初めて会った時のことを思い出してる南針だ。
鍼灸修行の中で、質問する南針に、かみ砕き身体に染み入るように指導してくれた師が、今は苦虫を噛み潰し、無言の威力を押し出している。
「対馬へ行け。行って、あの漁民の二人に話しを聞いてこい」
「あの二人?」
「わしらを博多に運んだ若い二人だ。近頃、モンゴルから戻って来たようだ」
「モンゴルに連れ去られたというのは、あの二人だったのですか」
「お前の身分も確立しただろう。そろそろ、郷間の仕事を再開しろ」
「仕事‥‥‥?」
「わしが、お前の主人だ。わしの指示に従い働くのが、お前の仕事だ」
敵国に入り込み、噂を収集する仕事。もともと義父に助けられたのは、倭国の内情を探る間者に育てる為だったのは、気付いていた。それでも異国の少年に、手など挙げることもなく、言葉を教え、書を指南し、健康を気にしながら体技を仕込んだ義父が好きだった。イジメの対象である少年をかばい、甘い食べ物を内緒でくれた。その人に褒められたいと仕事をした。間者仕事で一人山を下りた時は、恐くて堪らなかった。
「わたしは、自由の身だと、兄者から‥‥‥」
「お前の
幾らか、心乱れたが、顔色は変えなかったつもりだ。
だが、「奴」という言葉に躓いた。
留吉が、切なくも涙を隠したのを知っている。強くなって欲しいと、優しい声を掛けなかった。
愛情の出し惜しみをしたと今では思っている。
何時でも何処でも全力で仕事に励むことはなかった気がする。命令されるまま、仕事はこなすが一歩引いて生きてきた。
今、鍼灸師として患者に向き合う時は、全力のつもりだが、自信はない。鎌倉の崖崩れに巻き込まれた時は、必死で人助けをした。それでも全身全霊で助けたかと問われれば、「是」と答えられない。
記憶を失っていた鎌倉の生活は、不安をぬぐえぬままながら、ほんわか生活できた。不当な命令に従うことがなかったからだ
今更、奴だといわれ、命令されて生きるのは納得できない。
「お断りします」
「お前に、選択の余地はない。黙って従え」
「従わなければ、なんとなります?」
しばし黙した僧侶は、「対馬へ行って、あの漁師に話を聞いてこい。間者ともいえぬ仕事だ」
少しおもねるような気配のするいい方だ。
目をそらした南針は、黙って立ち上がった。
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