第39話 留吉を買い取った
「センセ、センセ、南針先生」
お日さまが首をちょっぴり傾げる頃まで、南針は忙しい。誰にでも門戸を開いている医家は、騒々しいほどに活気づいている。
初めて来た者以外は、増やした治療台に寝かせた患者を南針が次々と針を打ち、その針に小さな
下男と小僧を雇って、陽針を治療の助手に据えた。
爺さん呼ばわりされていた老人は、
薬師としての修行もしたいと思う南針だ。
忙しい南針は、自分の時間がないも同然。今日も患者の家に出向き、歩行困難なご隠居さんに針を打ってきた。少し遠回りになるが、博多湾の風に向かってぶらぶら歩く。
小舟が、船着場に着き、大きな影に追い立てられ、小さな影が二、三、四と陸に上がった。
何とはなしに船着場に向かった南針は、背伸びする小さな影に目を留めた。他の子らが俯いているのに、一人元気な様子だ。南針が近づくと男子は珍しいのか、大きく目を剝いた。
目が合うと、一目散に駆けて来る。
南針に、しがみ付くと「助けてください」と小さく叫んだ。
(うん? 留吉か?)
小舟から大きいな影が伸び上がり、あわてて駆けて来る。
「こりゃ、こりゃ、どうも申し訳ない。とんだご迷惑を‥‥‥」
鋭い目つきの男が手を伸ばす前に、男子は素早く南針の背後に回り顔を隠した。
南針は、思わず左手を後ろに回し、迫りくる男に(あいや待て)と右手を押し出した。
「そいつは、売り物でして、面倒をお掛けしました。どうぞ、騒動を起こすのは止めましょう」
背中では「なみまる、波丸」と、男子が経を唱えている。鎌倉富谷の留吉に間違いない。
「幾らだ? わたしが買おう」
「いえ、いえ、旦那さま、すでに売り先は決まっておりまして‥‥‥」と、いいながらも男は、腰を沈め戦闘態勢だ。つられて南針も身構えた。
「どうした? どうした?」と数人の声が向かって来る。
少年の背中に左手を回して腰を落とした南針の後方からも、ばたばたと応援らしき足音がする。
「おい、どうした?」
「おう、これは謝涛丸の船頭さん」
「大したことではございません。こちらの旦那が、ちと誤解をなさったようで、その、そこに隠れているのは、わたし等の
「うん? 大手を振って人身売買か、幕府は人の売り買いを禁止しているはずだがな」
「何をおっしゃる。何でも商う謝涛丸の船頭さんのお言葉とも思えぬ‥‥‥」
「おい、おい、人聞きの悪いことをいってくれるな。わしの船では人身売買などしたことないぞ」
「まあ、まあ、子供を返していただければ、何の文句もございませんで、どうぞ、話を収めてください」
「この子は、わしが買おう。幾らだ?」
沖の大船から漕ぎ寄せた別舟から、整った身形の男が降りて、近づいてくる。
「あっ、親方。ご足労かけます」と、目付きの鋭い男が小さく頭を下げる。
「これは謝涛丸さん、何か手下がご迷惑をおかけしましたかな」
「いやいや、迷惑などと、この男子を買い取りたいと申しているだけで」
「その男子は、売り物ではございません」
親方と呼ばれた男は、辺りの手下を見回し「さあ、者ども仕事にもどれ」と、低い声を発した。
「留吉、良い縁をえたな。しっかり働き、可愛がってもらえ」
南針の腰にしがみ付く男子に声をかけた男は身を翻す。
「親方さん、この子は幾らで?」
船頭が、声を張る。
「売り物ではないといったはずだ。その男子は、わしの跡継ぎとして仕込んでみようと思っていたが、本人がこのお坊さまに弟子入りしたいというなら、それで良い。金はいらない」
言葉もなく見送る南針は、留吉をかばいながら「船頭さん」と小さく呼んだ。
「ふん、タダより高いものは無いというからな。しかし、まあ、良いだろう。南針先生は、その子を引き取って下さるのですよね。要らないといわれても困るが」
静かになった船着場には、誰もいなくなった。小舟から降ろされた子供たちの姿もない。みな、大船に戻したようだ。
「ふん、坊主、南針先生に可愛がってもらうんだぞ」
謝涛丸の船頭たちも足早に歩き出した。
残された二人は、じっと見つめ合った。留吉の溢れ出た涙に西に帰ろうとするお日さまが笑い、泣き虫も笑み崩れた。
その肩を抱きしめた南針は、「今日から南針先生と呼んでくれるか?」と囁いた。
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