第36話 美女の患者が現れた

「センセ、センセ、南針先生」

 痛みに苦しむ女子がいるという。早く治療に来て欲しいと迎えの者がきた。

 今日の喧騒は済んで、そろそろ店仕舞いの刻だ。初めての患者だ。小さな道具箱を抱えて南進一人で出かけていく。きっと金持ちの家だとふんだ陽針も付いて行きたいところだが、掃除や何やかや、まだまだ仕事が残っている。

「これは、これは、南針先生ですな。ご足労をおかけします」

 港近くの商家は、『謝涛しゃとう屋』という大きな看板を掲げていた。

「お出かけ頂きましたが、娘が嫌だとごねております」

「ははぁ、針が怖いという方は多いものです。娘御はお幾つですか」

「十六でございます」

「何処が痛いと?」

「それが、何処もここも、全身痛むと申します。今日は、ご飯も食べず、床に伏しております」

 如何にも豪商という風情の父親だ。静々と絹連れの音がして妙齢の婦人が、部屋の外に膝をつく。

「知らない先生は、恥ずかしいと申しております」

「困った娘だ」

「隣の部屋があれば、そちらでお話しだけ致しましょう。痛みの具合をご本人から直接聞きたいと存じます」

 夫と顔を見合わせた母親は、あわてて奥へと戻っていく。


「こんにちは、お嬢さま。わたしは南針と申す鍼灸師でございます。針を使わない鍼灸師として有名でございます」

「‥‥‥」

 返事はないが、聞いてくれていることは確かだ。

「身体のどの辺りが痛むのか、教えていただきたい。頭が痛みますか?」

「いいえ」と微かな声。

「手の指先は、如何でしょう」「足の指は」「胸の辺りは、如何でしょう」

 南針は、次々と質問していく。返事は無いが、それらに痛みがないことは分かる。

「背中は、如何でしょう」

「はい、背中が何時も痛いのです」

「お腰の辺りは、如何でしょう」

「はぁ」

「厠へは、一人で行けますか?」

 答えはないが、娘が頬を染めて恥ずかしがっているのは、分かる。

「辛くても、厠へは一人で行きましょう。ご飯は少しでも良いので食べましょう。おかゆでも良いですよ」

「はい‥‥‥」

「明日の今頃、また参ります。その時、お会い出来れば嬉しいです。では、また明日」

 南針は、さっさと引き上げた。娘の部屋から小さな吐息がもれた。



 翌日夕刻、南針は、約束通り出かけた。

「おれも行きたいと陽針がごねる」

「今日は駄目だ。今日の首尾が良ければ、次回は連れて行く」

 となだすかし、(うまくいけば良いが)と思いつつ出かけた。

 博多湾からの風が南針の衣を膨らませ、その胸も少しだけ波打たせる。白衣に杜松ねず色袖なしを重ねた地味な身形だが、青々と剃り上げた頭が面立ちの整いを露わにして、若く美しい僧医を輝かす。

 娘は、身形を整えて待っていたが、南針は廊下に座り、中庭を向いて話をしている。

「痛みの具合は?」

「夕べ、おかゆを頂きました。今朝は、姫飯ひめいいを少し食べました」

「それは偉い」

「今日は、針を打つのですか?」

「必要ないかと存じます」

 無言の安堵が伝わってくる。

「食べたら、散歩に出かけましょう。身体を動かせば、痛みは引いていきましょう」

「はい」

 聞き取れないほどの声だが、娘らしい精気が感じられる。

 南針は、すばやく立ち上がり、娘の物足りない視線を知らぬげに、さっさと帰っていく。


 小僧に見送られて、店を出たところで男に呼び止められた。

「おお、これは船頭どの、その節はお世話になりました」

 男は、博多に逃れる時に、乗せてもらった貿易船の船頭だ。

謝涛しゃとう屋に御用でしたか」

「おう、こちらは船頭どのの船主さまでしたか」

「まあ、そんなところです。あっ、もしかして彩恵さえ嬢さまの‥‥‥」

 南針は、頷きながら頭を下げると歩き出した。いくら知り合いといえど、患者について話してはいけない。

「おい、どうした?」見送る男へ声がかかる。

 謝涛屋の主、謝四郎衛門だ。

「嬢さんのお医師をお見送りしておりました。杭州港の沖から船に乗せた鍼灸師さんですよ」

「ほう、そうだあったか、一人だったのか」

「いえ、三人でした。対馬に着くと小舟を雇って離れて行きましてな、勝手な奴らだと思いましたが、老鍼灸師が親分のようで、若いのと子供はお供でしよう。承天寺に入ったようですが、その後のことは存じません」

「うん、今は聖福寺の店子で、開業している僧医の家の鍼灸師だが、なかなか評判が良いので来てもらった。なにしろ宇土三郎衛門さまのご推挙だ」

「へぇ、あの口やかましい宇土さまのお墨付きですか」

「ああ、いたく気に入っておられた。針を使わぬ鍼灸師だそうだが、何もしない名医が居るものかと‥‥‥」

「あの若いのは、倭語が達者で水夫らにも何かと気を使って、まあ、良い男ではありましたよ」

 謝涛屋の主は、ふんふんと頷きながら、店奥に消えた。


 およそ半刻後、帰宅した夫と娘の母親が向き合っている。

「あの先生、とんだ女たらしです」

「おやおや」

「わたしだとて、殿御にあのように優しく声を掛けられたことはございません」

「それは、それは。それで彩恵さえの具合はどうなのだ?」

「わたしの方が、聞きたく存じます。二言三言、しゃべっただけで、彩恵は回復しております」

「ふーん、名医じゃのう」

「まあ、旦那さまたら」

 娘の病が癒えれば、何の憂いもない仲の良い夫婦だ。

 婦人は、謝一族の娘で、夫は婿だ。

 謝一族とは、財力を以って博多に君臨する南宋人の成功者一族だ。

 博多では誰でも知ってる謝国明しゃこくめいは、在留南宋人の成功者。

 謝国明ら南宋商人の寄進によって創建された承天寺は、南宋の戦禍を逃れた鍼灸師三人が、初めに逃げ込んだ寺だ。

 因縁浅からぬ謝一族の海運業を営む家に出入りすることになった南針だが、何の欲もなく家路を急ぐ。

 娘の名前が、彩恵さえだったことが、鎌倉を思い出させ少し心を揺るがせた。

 帰り着いた門前には、人待ち顔の陽針。

「ねえ、ねえ、どうした? 上手くいった? 病気は治ったの?」

(何って、可愛くて、うるさいん奴だ)

 南針は、弟分を無視して門をくぐった。

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