第35話 南海、立ち上がる

 天候に恵まれ、大船は大した揺れもなく西国を目指す。

 船底の隅にそっと置かれた四つの荷物の陰に四人の人影が横たわる。爺さんと末吉とハナと、そして今まさにもそもそと立ち上がる南海なんかいだ。

 荒海ではないが、陸地を離れれば、充分揺れる。

 思いのほかの波乗りだ。板子に掴まり、立ち上がり、寄せる波を乗り越える。「待ってよ、待ってよ、なみまるぅ」末吉は、ゆらゆらと夢の中だ。

 船底からペタぺタペタと上がってくる音は、四つ足か。両手両足の幼い音だ。小さくなった産着だろう、短い上着の下からぷくぷくの脚がにょきっと見える。その間には、大事な珍宝も覗いている。

 それを見つけた水夫が、大声を上げて笑っている。船頭が、それに気付いて走りです。それは、負けずと駆け回る。大洋のお日さまを浴びて赤子の殻を打ち破り、船酔いなど知らぬ幼児に突如成長した南海だ。

 ひとり、トコトコ歩めば、重い頭がカクカクと先頭をきり、加速度を増して海原へと飛び込みそうだ。

「おめえら、笑ってないで、捕まえろ。海に落ちたら大事おおごとだぁ」

 笑いの渦が高らかに海原にあふれ出し、大きいだけの簡素な荷船が華やかに浪乗り越えて、南を目指す。

「旦那さま、どうぞ、どうぞ、お願い申し上げます。この船は、預かりました荷物を無事に運ぶのが務め、乗り合わせた赤子の守りまでは出来ませぬ」

「いや、ごもっともでござる。お手数をお掛けして申し訳ない」

 爺さんは、富谷の下男に戻って、慎ましく頭を下げた。

 船酔いに寝込んでいた末吉とハナは、南海の面倒見を怠らないように何とか飯を食べた。これからは、海の上だろうが、山の上だろうが、頑張って生きていかなければならない。

 船は陸地に近づいて行く。

 南海を背負った末吉とハナは親子のように、近づく緑の山並みを見つめている。いよいよ新しい生活が始まるのだ。

 港の桟橋は揺れていた。陸地に上がったのに揺れている。

「ゆれてる、揺れてる。末兄ぃ、揺れているよ」

「ゆれ、ゆれ」と南海が回らぬ舌で叫んでいる。

「なんかーぃ、達者で暮らせよぉ」

 船の水夫たちが大声で応援する。

 たった四つだが、積荷の点検に余念のない爺さんも振り返って手を振った。


 港を見下ろす寺の離れに陣取った四人は、食事も忘れて眠りこけた。

 この寺には、事前に話が通っていた。あとは、富谷本陣が到着するのを待つだけだ。

 ここでも、一番初めに南海が起き出す。

 線香の香りと読経の旋律に誘われた幼児は、ひょこひょこと本堂の廊下に現れた。阿弥陀仏の大きさに驚いたか、ぷくぷくの脚を踏ん張って、じっと仏を見つめている。

「信念や、あの子をここへ呼んでおいで」

 小坊主に命じた和尚は、背中で幼児の動きを楽しんでいる。信念に、座るよう促された南海は、和尚の背中に足を投げ出したが、じっとしておれずムズムズと這い出し、和尚を覗き込み、またもや阿弥陀仏を見上げている。

 御仏の加護を背負った南海を抱き上げた和尚は、「仏さまぞ、よう見ておけ」と話しかける。

 南海は、両手を差し出し「おう、おう」と幼い雄叫びを上げる。

「これは、これは、申し訳ござらぬ」声とともに爺さんが現れ、外廊下にかしこまる。

「良い子じゃ、良い子じゃ。阿弥陀さまを大層気に入って見入っておる」

「さようでございますか、この子は、鎌倉大仏の傍で生まれました。赤子の頃より、阿弥陀さまを見上げて育ちました」

「何と、この子は、すでに阿弥陀さまを知っておったか、それは重畳。有難くも御仏に育てられ、前途洋々でござる」

 南海は、毎朝本堂に現れ、仏さまに両手を上げて「おう、おう」と挨拶する。小坊主の信念は、毎日くすくす笑い、毎日和尚に叱られている。

 境内の掃除を終えた末吉は、箒を持ったまま港を見晴るかしている。もうひと月も経とうというのに、富谷の本陣は現れない。

 爺さんが十分なお布施を届け、ハナは厨で働き、末吉は寺のあちらこちらを修繕しているので、居心地が悪いということはないが、それでも居候は、居候。遅れている主人一行の到着が心配でならない。

 爺さんは南海を背負って毎日港に出かけている。

 港に着くと、足をばたつかせ、下ろせ下ろせと爺さんの背中を蹴る南海をなだめ宥めて、魚など買い求め、どうしたものかと思案しながら、寺に戻る。戻れば、南海はトコトコと本堂を目指すのだ。

「おうおう、なむなむ」と、習わぬ経を読む南海を檀家の人々も一応は笑顔で迎える。

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