第32話 富谷は廃業いたします

 文永五年(一二六八)は、慌ただしい年の始まりだった。

 元旦早々、蒙古の使者が対馬に上陸。鎌倉幕府の鎮西奉行として、北九州を治める大宰府だざいふ少弐しょうに資能すけよしは、鎌倉幕府に急使を送った。

 こたびの幕府の対応は速く、二月の初めには、京都の朝廷に報せ、月末には西国の守護に対し、侵攻に備えるよう御教書を出した。

 時をおかず、三月初めに、十八歳の北条時宗が第八代執権職に就いたが、守護らの行動は遅く、外国とつくにの脅威を分かってはいても、恐れるには至らない。

 その頃、モンゴル王フビライは、高麗に命令した。

 軍人四万人、千艘の造船を命じられた高麗の山々は、伐採に荒らされ見る影もなくなった。


 新年を迎えた料理屋富谷は、何時ものようにい、ヨイ、いと賑やかだ。

 裏屋もわっさわっさと騒いでる。去年、母親を失った赤子がやって来てから、笑いの絶えない裏方だ。

 産後の肥立ちが悪く、寝たり起きたりしていた小枝が、暑い最中さなかに死んだ。

 泣いているハナに目を止めた女主おんなあるじは、半大夫に赤子と爺さんを帰らせろと命じた。使いに出た四郎大夫は、「意地を張らずに戻って欲しい。噂集めに苦労しているお富さまを助けて欲しい。『頼む』といえない女主を立てて、頭を下げて欲しい。それが、赤子のためでもあろう」と両手を付いて丁寧に話した。

 そして、赤子がやってきた。大騒ぎの始まりだ。

 爺さんは、黙って頭を下げ、富子は軽く頷いた。背中の赤子を覗き込みたいのをやっと堪えた。

 這い這いし出すと、囲炉裏端から目が離せなくなった。上がり框から滑り落ち、眉の上にタン瘤を作り、泣いた笑ったと賑やかなことこの上ない。その児、南海なんかいも数えでもう三歳。

 爺さんは、幾つになったのか、相も変わらず、噂を集め、下男仕事に励み、大活躍だ。

 蒙古の使者が博多に上陸したと、六浦の湊商人が囁き合ったから、富谷も幕府よりも早く、その噂を仕入れた。爺さんの手柄だ。これは、ぐずぐずしていられない。富谷の幹部は、額を寄せて頷き合う。

 二月下旬の今日は、爺さんも隅に侍る。

 急使を受けた幕府は、この国書を京都朝廷に送り、西国の守護に蒙古の攻撃に備えるようにと御教書を発したという。早晩、関東の御家人にも鎮西へ行く命が下るだろう。才覚よく金を貯めた者は良いが、ぼんやり春を楽しんだ者は、遠国への路銀がない。そういう者が、ぼちぼち富谷へ借金に来る。抵当もない有様で、徳政令のお蔭で、富谷も金がないと高飛車に断るが、それで引き下がるという訳もなく、勝次も武家相手に悪戦苦闘だ。

 三月初め、幕府の最高権力者である執権が変わった。なんとまだ十八歳の北条時宗だ。どんな思惑か、執権であった六十四歳の北条政村が次席の連署に座った。連署、執権と上り詰めた漢が、連署に戻ったのだ。

 爺さんは、言葉少なにいった。「こんな人事は聞いたことがない」

 富谷も去年から怠りなく進めていた事業転換を実施に移す時が来たのだ。


 女どもは、自由にさせた。郷に帰りたい者は、そうさせたが、幾人もいない。を初めとする数人は、平塚の遊女屋で世話になる。自前で働くのだが、富子の紹介だから間違いはないだろう。

 本当は、皆みな引き連れて行きたいところだが、そうもいかない遠い都への引っ越しだ。

此度こたび廃業はいぎょう仕候つかまつりそうろう」と、料理屋の表門に張り紙が出た。

 雨が降れば破れてしまう紙一枚の味も素っ気もない人を馬鹿にした文言だ。

 京都へ行ってもよしみを通じる豪商には、事前に挨拶したが、その他諸々挨拶はない。

「夜逃げだ」と騒がれても、いいと思っている。

「徳政令で、首が回らなくなったのだ」と、勝次が密かに噂を流していた。

 平塚の遊女屋に女らを送り届け、海岸から小舟に乗り、沖に停泊する大船に乗り換える心積もりだ。


 春風は吹いたのに、思惑は上手く運んでいない。

 伝言役の留吉を従えた勝次が、まだ戻らないのだ。やっと十二歳になった泣き虫留吉も姿を現さず、様子が分からない。

 末吉は、別動隊で出かけていたが、すでに戻っていた。

 腰には、火打ち袋を下げているが、侍烏帽子を被り二刀をたばさみ武家の郎党のような身形だ。うつらうつらする南海を背に負い、腕組みして沖に浮かぶ大船を見つめている。寄り添うハナは、小袖の裾を野袴に入れ、髪を白布できりりと包み、荷を背負い旅支度だ。富子と半大夫は、まだ屋根の下で座っている。

 しかし、大船の出航はもう直ぐで、小舟の船頭は、苛立ちを隠しもせず立ったり座ったり、欠伸をしたりと忙しい。

 侍烏帽子を被った身形の良い中年の武家が、富子に近づき片膝ついた。

「勝次と留吉の行方が分かりませぬ」

 報告するのは、随分と若返って見える爺さんだった。

「四郎は、どうしたのじゃ?」

「今、藤沢辺りかと? こちらに向かっております。荷物も共に向かっておりますゆえ、刻がかかります」

「あの船には、間に合わぬなぁ」半大夫である

「爺さん、あの者らと船に乗り込め。他の船を探して、跡を追うゆえな、難波津なにわづで待ってたもれ」

 富子が、古い名称で呼ぶが難波津なにわづは、大阪の湊だ。

「船には、四つの荷物が積んである。それを守って先に行け、頼んだぞ、爺さん」

 爺さんが、足早に近づき「さあ、乗るぞ」と末吉を急かせた。

「お富さまは?」

「お富さまは、後から来る。心配はいらぬ」

 ばたばたとハナが富子に向かって走り出す。

「ハナ、戻れ。刻がないのだ」

 走るハナに向かって男装の富子が歩き出す。

「ハナ、戻れ。あの三人の男どもを頼むぞ。お前が、妾の代わりを勤めるのじゃ。さあ、行け」

 女二人は、友柄のように手を取り合い、頷き合った。ハナが初めて触れる温かい富子の手であった。

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