第33話 南針先生はばたく
「センセ」「先生」「せんせいさま」
子供の声が女子の声が賑やかだ。
ここは、
博多湾の海風を門戸を開けて迎い入れるように建てられた医家は、申し訳なくも尻は聖福寺の北壁に向いている。
聖福寺は、建久六年(一一九五)日本最初の禅寺として博多に創建された。鎌倉幕府を開いた源頼朝の帰依を得て、
開山は、南宋から帰国した
ではなぜ、鎌倉ではないく博多だったのか。
博多が求めたからだ。博多の在留宋人たちが求めたからだ。お願いしただけではない。莫大ともいえる資金の寄進があった。そもそも、寺の敷地は在住の宋人が住んでいた
故郷南宋の宗教を博多に移し、その習慣踏襲を求めた。精神的な支えもさることながら、その商売の保護も目的の第一とした。
この由緒ある大伽藍の南に隣接して
戦禍を逃れた鍼玄は、どうやら
陽針は、その幼さから鍼灸師という訳にはいかず、見習い小僧だ。掃除をし、使いに出、飯の支度を手伝う。さぞや、不満たらたらと思いきや、嬉々として博多の街を駆け回る。南宋から逃れる船底で、南針に教えてもらった拙い倭語も、今ではばりばりの博多弁でまくし立てる。
「よか、よか」は、まだ良いが、「きんしゃい、きんしゃい」は、「何かいな?」と南針は笑ってしまう。
町を駆けまわるうち、やせ細った貧しい子供らや野良犬を従え、貰い物の菓子を分け与えることもあるようだ。
鎌倉の街を歩き回り、路上の子らに饅頭など与えたことを思い出す。末吉は元気にしているだろうか、などとボンヤリしている南針を陽針の歓声が追ってくる。
そも、陽針は、何者か?
南針の弟分であるが、監視者のようでもある。幼げな十四歳だが、南針も十歳の頃には間者として働かされていた。あどけない子供は、疑惑を持たれることなく仕事をこなした。何の不思議もない間諜の世界だ。
「センセ、センセ、南針先生」と、慕われる生活は悪くない。
多くの患者に接し、少しでも役に立ちたいと医学・薬学の知識を身につけたいと思う南針だ。
患者の家に出向いた帰り道、「南針センセ」と声を掛けられた。博多湾を見晴るかす美しい浜辺だ。
兄貴分の冬雨だ。何時もすっくと立っている冬雨が、今日は背筋を丸め老い先短く見える。
「お疲れでございますか」
「いらぬ節介をするでない。最後の命令を持ってきた」
また、何処へ行くのだろうと南針は、ため息を絞め殺す。
「お頭が亡くなった。遺言を持ったきた」
「‥‥‥」
背中の
「お頭に拾われた時、お前が着ていた物だ。あとは自由に生きろ」
「お頭は、なぜ亡くなったので?」
「病だ。おれもこれから気ままに生きる。お前も好きにしろ」
「これは、あの生意気な坊主に土産だ」懐から故郷の饅頭を取り出し手渡された。
「兄貴、何処へ行かれる」
「おれにかまうな。気に入っているなら、南針先生として生きろ」
お頭の遺言を聞いていないぞと思う頃には、海風の中に消えて行く。
医家に帰ると、門前で陽針が野犬と戯れていた。
「陽針、故郷からの土産だ」
「へーぇ、ありがとう」
声を後ろに、表戸をくぐると「帰りました」と一声かけて、自分の部屋へ向かった。
陽針は、手の中の饅頭をじっと見つめ鼻を近づけた。野良犬のケンが尻尾を振ってまとわり付く。フンと鼻を鳴らして、饅頭の一片を遠くに放った。ケンは、夢中でかけて行き、目標に食らい付いた。
笑顔の陽針が、饅頭を口にした瞬間、「ウ、ウゥーン」とケンがのたうち回る。陽針は、食いかけの饅頭を吐き出し、唾を吐き出し、裏庭に駆け出した。何時もは飲まない井戸の水を何度も含み、えずきながら
「チキショウ、ちっきしょー。許さねぇ」
犬の死骸をそっと埋め、饅頭の件は誰にも知らせなかった。ちょっとだけ南針を疑った。直ぐに冬雨に違いないと確信した。さっき、南針を訪ねて来たのだ。
(あいつが、おらを殺そうとした。南針から遠ざけるため、おらを、おらを‥‥‥)
数日後、海岸に旅姿の男の死骸が上がった。おざなりに調べたが、分かる訳がない。身分を明かす物は、何も身につけていなかった。
死んだ男と南針が、浜辺で話していたと告げる者があり、問い合わせが来た。死体置き場を訪ね、死骸を確認した南針は、「道を尋ねられただけです」と応えると、それ以上、問われることはなかった。
冬雨が死んだ。傷はないが、殺されたのだ。誰に? 誰に殺されても可笑しくない。
哀しみはない。義父のお頭が死に、何時も指令を伝える役目だった冬雨も死んだ。これで、冬雨がいったように、気ままに生きられる。もう誰かに間者の役目を命じられることはないのだ。ふつふつと湧き上がってくる解放感に、(おれも、随分と冷たい男だ)と思う南針だった。
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