第30話 鍼灸師、海を渡る

 大小の船が舫う港を目前に道を外れ、藪を漕いで崖路を下った。逃亡のために作られたような岩場の影に潜む頃には、闇の中に篝火が遠近に浮かぶ。迎えの小舟が来るという鍼玄の言葉を信じるしか術はない。

 見上げる城門を、大手をふって出てきた。その前に、小さな食堂で今日二度目の飯を食べた。

 粗食に慣れると、何とも思わなくなるが、昨夜、僧侶とは思えない脂ぎった料理を頬張ったので、胃袋がもっとよこせと泣きわめき、南針と陽針の二人は、またまた口を忙し気に動かしている。

 鍼玄は、どこかへ消えた。修行を積んだ僧侶で腕の良い鍼灸師であることは間違いないが、その裏に別の顔を隠しているのも確かだ。もっとも、ただの僧でない僧侶は数多くいるのだ。

 海だと思えるほどの滔々と流れる銭塘江せんとうこうは、秘かに国を離れる鍼灸師にぼちゃんボチャンと遠慮気に挨拶する。

「おらぁ、暴れる河を見たかったよ」と囁く陽針に、鍼玄の拳固が飛んだ。差し出した南針の右腕に抱き留められ歯を食いしばって涙を止めた陽針を闇がそっと包み込む。

 眠っているのか、鍼玄は微動だにしない。

 ずいぶんと歩いた。腹はまた減っている。干飯をやろうかと右手を下げ袋に動かした時、闇の海からギーコ、ギーコと迎えの音が近づいてきた。

 黒い塊だった鍼玄が、身体を目覚めさせ、素早く身構える。

 闇の使いは、言葉なく鍼玄の手をとり、ゆれる小舟の底に沈めた。南針は、荷物を小舟に放っておいて、軽く飛んで舟上の人となった。陽針が、慣れた動作で続く。

 言葉を失った小舟は、上げ潮に乗って、ここだここだとチラチラしている小さな灯りを目指している。

 舟の速度が上がった、その時、舟は右舷に傾き激しくゆれた。何とか立て直した小舟の中に躍り込んだ黒い影が青龍刀を煌かせ、鍼玄に切りかかる。辛うじて、身を逸らした鍼玄の動きで、小舟はさらにゆれ、あわてる者どもを闇の水中に放り出した。

 自ら落ちた南針は、陽針の小さな手を舟端に導き、水中で争う敵と味方の間に沈み込む。戦う相手を南針に変えた敵は黒ずくめで、定かでないが、その手に握られた青龍刀がキラリキラリと目印になる。武器のない南針は、敵の背後に回り込もうとするが、息が続かなくなっている。武器を掲げる敵の右手を捕まえた。空気が欲しい南針は、そのまま水面を見上げ上昇を試みたが、敵は南針を道連れに水底に向け沈んでいく。

 気が遠くなる南針の目線に小さな影が映った。敵の背後にまわった影は、その後頭部に張り付くと素早く離れ、南針の身体を引き離すと水面に向かって浮き上がっていく。小さな影に支えられ南針の顔がぽかりと水面を捉えた。

 大船の陰に入り、役目を済ましてしまおうと小舟は、ギコギコ忙しない。


 大きな貿易船の船底へ収まった三人は、荷物に囲まれ濡れた衣を脱いだ。

 鍼玄は、黒い塊に戻って無言だ。

 なぜ狙われたのか、誰の差し金か、鍼玄は分かっている顔つきだ。

 敵を倒したのは、正しく陽針だ。鍼玄が何もいわないのだから、南針も何もいえない。

「おれも行く」と喚いた陽針を激しく叱り付け、足早に出発した師匠なのに、陽針が現れても何も責めなかった。

 甘い菓子を貰って嬉しそうに口を動かす少年は、如何にして敵を倒したのか、南針には、一つしか思い浮かばない。武器を持たない者が、ひ弱な者が、攻撃してくる敵に勝つ方法は少ない。

 寺を出る時、己が授けられた方法しかないだろう。倭国の二刀を捨てた男に与えられたのは中指ほどの針だった。その針は男の衿の内に収まっているが、抜き出して使う気にはまだならない。

 代わりに、口の周りに残った甘味を意地汚く舐めている、この少年が長い針を使ったのだ。僅かに眩暈めまいを覚える南針だった。


 天候に恵まれた大船は、追っ手を振り切って、茫洋とした海を東へ東へと向かっていると思われたが、進路は北東。

 高麗の沖を目指していたようで、朝鮮半島を望む島影で船を停めた。

 何やら荷物の受け渡しをしているようだったが、隠れていろと命じられ、積荷の陰に息を詰める。

 また、船は動き出し、捕れ立ての魚の煮物が飯椀の中に振舞われた。朝霧の中にぽっかりと岩山が現れた。倭国の対馬だ。

 沖に停泊した船に、わらわらと朝の喧騒を運んでくるのは、対馬の小舟だ。

「水を運んできたぞぉー、魚はいらねえかぁー」

 懐かしい倭語とは、随分と違うが元気で陽気な声音に、まだ平和を謳歌する島の暮らしが伺える。高麗沖からの素早い渡海で、水も魚もいらないが、今後のことを考えれば、機嫌良く買い占める。何時世話になるかもしれない島の人々だ。

 船底に、隠れていた僧形の三人も太陽の元に姿を現した。鍼玄は、命令する。

「あの小舟を調達しろ。我らは、あの船で博多を目指す」

 商売を終えた漁船に下ろしてもらった南針は、宋銭の袋を軽くなった舟底へ投げ入れ、鎌倉仕込みの倭語で話しかける。若い漁師は、目を丸くして、顎をかくかく上下させた。あっという間の交渉だ。

 陽気な若者は、まず壱岐の島へ小舟を付けた。壱岐は小さな島だが、高い山がなくのっぺりと平地だ。対馬より豊かで成り物が多い。明日の朝、いっきに博多を目指すという。新たに飯をあがなう銭を与えれば、友達の家に泊まろうといいだす。

 強張りを纏った鍼玄は、小さく首を傾げ、南針の瞳に意見を求める。倭国を知らぬ鍼玄は、この倭人が信用できぬ顔つきだ。陽針は、異国の空気を胸いっぱい吸い込み、しきりに口を動かしている。

「心配ねえよ、お坊さま。春とはいえ、まださみい。囲炉裏端で、旨いもんを食おう」

 鍼玄は、肩の力を抜くと頷いた。

 舟付き場近くの貧しい家だが、暖かい一晩を過ごした三人は、翌朝早く博多湊を目指した。

 懐が暖かくなった漁師らは、可成りやんちゃだが親切だった。まだ若い二人の名は、次男坊らしく塔二郎と弥二郎という。

 遠くない日、この二人を探し尋ねることになる南針だが、まだ誰もその事を知らない。

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