第29話 臨安城を探索した
鍼灸講座は、いよいよ佳境を迎えていた。南針には、早すぎると思えるが、いくら習ったからといって、良い鍼灸師になれる訳ではない。当人の努力と精進が必要な世界だ。
南針は今朝も厨にいる。禅寺の食事を作る僧を
その耳が山門の慌ただしさを捉えた。
「わぁー、ワアー」と聞こえる。禅寺に相応しくない騒ぎようだ。
「大変だぁー、大変だぁー」
陽針が、駆けこんで来た。南針にしがみ付き、息を喘がせる。
「落ち着け、陽針。舌を噛むぞ」
その肩を押さえ付け、水を与えた。
ゴクゴク喉を鳴らした陽針は大きな眼を更に大きく開いた。
「モゥ、モンゴルが攻めてきた」
「まだまだ、北部の話だ」
何時も穏やかな指導僧の
小さな笈を背負った南針は、師匠の
兄貴分の冬雨がこの寺に連れてきて、
何事も何時も、理解しないまま行動する己に足元が苛立ち、ともすると鍼玄を置き去りにしてしまいそうな速足となる南針だ。
前方から駒音が響いてくる。脇の林に身をしずめ、やり過ごすが、何時になく呼吸が乱れる。二人の跡を付けて来る気配のせいか、鍼灸の師匠から命令者へと変貌した鍼玄のせいか。大きく肩で呼吸をし、立ち上がる。
路を急ぐと
北の脅威に南に押し込められた宋が、仮の都と定めたので、臨安城と呼ばれた。
今夜は、城内の安宿へ泊るらしい。
門を入る時、しばし止められた。鍼玄が銭を握らせながら、戦場で働く怪山の僧医だと告げると、あっさり城壁の中に納まった。米倉や塩倉の間をすり抜け、夕闇せまる巨大な街の真っ直ぐな街路の入り口に立った。
すでに灯りを煌かせ、夜の栄華の準備は万全だ。広い長い商店街の先は、霞んで見えない。
両側にひしめき合う商店は、二階建て、三階建て、道路に踏み出して商売に余念がない。赤く染まった提灯がゆれ、彩とりどりの幕が翻る。子供の影がよちよちと石畳を叩く。あっという間に追い越せば、悲しくも美女の証か、
深山の寺院から出てきた僧は、街の喧騒を押し潰され、しばし足を止める。
どんどん進めば、王宮も政庁もあるという。この城壁の中に、貴賤老若男女とも何もかもを詰め込んで、蒙古の攻撃から身を守ろうとしているのだ。
安宿とはいえ、充分に暖かい。誰でも食べられる食堂で湯気が溢れる椀を抱え込めば、小さな安堵がほほ笑む。南針は、ずっと考えている。跡を追ってきた陽針のことだ。鍼玄に取りなして、温かい食べ物を食べさせたいのだ。
「ゆっくり食べろ。南宋の飯もこれが最後だ」と呟き、鍼玄が立ち上がった。
鍼玄が部屋へ消えたのを待っていたように、厨房辺りで騒ぎが起こった。
「南針、なんしん助けてよ」
「わたしの連れだ。新しい鍋を頼む」
南針の注文に肩を竦めた食堂の男が、陽針の頭を乱暴に小突いた。
歯をガチガチいわせながら、熱い汁をすする陽針の頬が赤らんでくる。
「へぇぇ、火傷しちゃったよぉ」
それでも、陽針は満足そうだ。
翌朝、粥を掻っ込んで出発だ。船に乗るのに、隠しおおせる訳はなく、南針と陽針は、頭を床に擦り付けた。
三人は、慌ただしく蠢く朝の商店街をのんびりと歩いた。「びくびくするな。ゆっくり歩け」と鍼玄は怖い顔を拵えて先頭をいく。食べ物の匂いが溢れ、鶏が鳴き、亀だの蛙だの蛇などが、儚い命を察してか悲しげに動き回る。城壁の南端は、
王宮を目前に、東に曲がり散歩にでも行くような足取りで、立派な城門を出た。鍼玄の手元には城内通行証があった。遅れぬように団子になった。ゆっくり移動しているので、思いのほか時間がかかっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます