下巻 

第28話 南針が生まれた

 豊かな自然に恵まれて、魚が獲れ、米穀の実り豊かな中国の江南は、色彩溢れる地上の極楽。その地で暮らしたいなと慕われる田園は、春を迎える準備にうらうらしている。

 その穏やかさとは裏腹に、断続的に続けられる蒙古と南宋の戦禍は、新しい局面を迎えつつあった。

 火種の中心である臨安城の海の玄関、杭州湾を塞ぐように散らばる舟山群島の小さな島に、置き去りにされた波丸はぼんやり煙る陸地をひたすら眺めている。倭国へ戻る船を待っているだけで、何もしていないので、出奔した鎌倉富谷の人々とついつい無言の会話を楽しんでしまう。

 勝手に動くことも叶わず、待ち草臥れてしまった波丸を、やっと小舟が迎えに来た。鎌倉へ戻れるかもしれないとわずかに心が騒いだ。

 大きな船に乗り換えて、いよいよ倭国行きかと思っていたら、陸地沿いに漕ぎ進み、港とも呼べない粗末な船着場に着いた。兄貴分の冬雨どんゆいが、皮肉な笑みを隠して待っていた。

 黙って歩き出す。

 うららかな田園風景の向こうに臨安城の城壁。わんわんと聞こえるはずのない庶民の喧騒が溢れ出ている。遠目に収めながら二人は休むこともなく、ひたすら歩いている。何処へ向かうのか、いいもしないが、問いもしない。峻険な山間に入っても、呼吸も歩みも乱れることはないが、時々脇の木陰に入って行きかう民の目を避けた。

 日が暮れて見つけた炭焼き小屋で仮眠をとった。明ける前に川水を含み干飯ほしいを口に放り込んだ。そのまま歩き出し、陽が傾く頃に目的地と思しき寺を遠目に見た。怪しい風情の山だ。

 その日から座禅を組んだ。只管ひたすら

 長い廊下を拭き清める。延々と続くと思われる廊下は闇の彼方へ降下して行き、速度を増して落下する。共に落下する者がいる。饅頭を半分にして、小さい方を渡してくれた兄弟子だ。殺害してしまった兄貴だ。気付けば、他にも落下する者がいる。みんななぁーんが殺した者どもだ。疑問が粒となり、霧となり、雨となり、暴風雨となり、すべてを巻き上げ荒れ狂う。このまま死ぬのだなと喜ぶと、朝日が射し樹々の雨粒が煌く。ああ、ここは鎌倉気和飛坂けわいざか(化粧坂)だ。

 何も考えなくなった頃、寺の台所で野菜を刻んだ。只管。

 包丁を持つ手指が固まった頃、禅僧の所作と読経が始まった。只管読経。

 声が枯れた頃、数人の修行僧と一緒に、鍼灸の教えを学んだ。鍼灸師の卵を育てる指導師は、僧堂の責任者たる監寺かんす鍼玄しんげんだ。

 波丸にとって、経路や経穴を学ぶ座学は楽しかった。この山寺で穏やかな日々を謳歌した。そして、実践経験を積むため己の身体に針をさす。やがて共に学ぶ僧が、互いの身体に試し針を打つ。

 命がけだと幼い小僧がいう。

「死んじまった奴もいるんだよ」

 本当のような、嘘のような話を囁くまだ頬が赤い少年は、蒙古の戦禍に乱れ果てた隙をついて紛れ込んだ間者のようだ。波丸も幼くして間者の仕事をこなしてきた。ふと、鎌倉の弟分末吉を思い出す。

 試し針が始まると、素早く波丸の脇にすり寄り相手を務める。

「だって、兄貴の針が一番上手いもの」

 その名を陽針ようしんという。陽針の試し針を受ける兄貴の波丸は南針なんしんという名を賜った。陽針の針は、それこそ命がけだ。幼い指の迷いを素早く察し、「もう少し上だ」と命を守る。

 一年が素早く過ぎた。寺の食事は、本来質素なものだが、蓄えた山草が底をつく頃、春はやって来るのだ。

 貧しい食事で、みなやせ細っているが、鍼灸修行はいよいよ佳境を迎えたようだ。

 今、誕生しようとしている鍼灸師は、みな戦場で働く即戦力として育成された者どもだ。針一本で金もかからない。負傷者の衛生兵要因か、多少の拙さは目こぼしされた。


 潜り込んでいる間者から、蒙古の内紛の状況が逐一届いている。

 六十年以上前に、モンゴル高原を遊牧する民を統合したチンギス・カンは、幼名をテムジンといった。

 テムジンが生まれた頃、日本では源義経が生まれている。だからか? 奥州平泉で兄の源頼朝に殺されたはずの義経は、北海道に逃れ大陸に渡り、モンゴルに入るとチンギス・カンとなったという夢物語が生まれた。物語が楽しくてやめられない証拠の一つだ。

 ともかく、チンギス・カンの夢は大きかった。モンゴル高原から南下するのはもちろんだが、西方へも目を向け、ヨーロッパにも及ぶ大帝国をつくるのだと意気込んだ。見果てぬ夢は、息子たちに、孫たちに受け継がれ、手分けしてモンゴル帝国を築いていくが、あちこちで野心が生まれ、当然のこととして分裂が始まる。そんな中に生まれたフビライは、モンゴル高原の南を得意として宋を南に追いやり、やがて滅ぼす。すでに朝鮮半島の高麗は手下としていた。征服王朝・元を起こしたフビライは、その後、黄金に輝く極東の小島、日本列島を目指す。ほら吹きマルコポーロが、見もしないで書いた「東方見聞録」に黄金溢れるジバングとして登場する日本国だ。

 高麗人は嘘も交えて告げ口する。「日本は実り豊かな黄金の国ですよ。戦っている南宋とよしみを通じ、交易の中味は武器弾薬の素材ですよ。敵の味方は敵ですよ」

 そんな訳で、フビライは日本を攻める決意をする。悲しいかな蒙古軍の前線にいるのは、高麗人であり、南宋人であった。

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