第27話 蒙古の使者がやって来た

 文永三年(一二六六)の新年が明けた。風はあるものの穏やかで、静かに晴れた。

 幕府では、北条時宗差配の正月行事が滞りなく執り行われた。

 その夜も、西の空に彗星が現れたが、翌二日も行事は続き、時宗の屋敷への宗尊むねたか将軍の御成始おなりはじめもつつがなく終わった。

 あとは夜空の異変退散だ。彗星に対する御祈祷の準備が粛々しゅくしゅくと進められている。


 新年を迎えた富谷は、相変わらずい、ヨイ、いと賑やかだ。

 しかし、裏屋は何とはなしに静まり返っていた。波丸がいない。爺さんがいない。

 小枝がいないことに気付く者は少なかったが、遊女仲間は無言のまま不信を募らせた。

 新年が明けて末吉は十七歳、ハナは十四歳になった。いよいよ親しく思い合う仲だ。あれも話し、これも相談し、美味しい物は分かち合った。

 勝次のお供で、借金取りから帰って来た末吉は、そわそわと落ち着きなく、子供の頃に戻ったようだ。「ちょいと落ち着いて、ここへ座りな」という爺さんの声が懐かしい。

 五月の風が吹き抜ける海岸沿いを戻ってきたのに、確りと汗をかき、喉が渇き、グダグダだ。そのまま裏戸を開けて覗くと、ハナの声が威勢よく浴びせられた。

「ああぁ、入らないで、外で水浴びしてからにして」

 勝次がニヤついて、奥へ消えた。

 爺さんが作った懸樋の水が陽光に輝いている。下帯一つになって、水を浴びた。まだちょっと冷たいが、いい気持ちだ。

「ぐずぐずしないでよ。あたしは忙しいんだから」

 元気なハナの両手が着替えを差し出している。あわてて身体を拭いた末吉は、連れ合い気分でお日様の匂いがする衣を着せかけてもらう。若い二人の小さな幸せだ。

 ハナが、慌てているのは、これから内緒で出かけなければならないからだ。

 竹筒の水を飲み、握り飯をほおばり、胸を叩きながらも末吉の足取りは速い。それを追うハナの頬は桃色。

 竹やぶの向こうに、ちらりと見える茅屋が目的地だ。末吉の足が止まり、ハナはその背に半身を預けて止まった。

 互いに先に行けと身体をぶつけ合う。末吉は、右腕を大きく回してハナの背を押した。

 ハナは、肩をすくめ、表戸をトントンした。

「爺さん、お小枝さぁーん」

 建て付けの悪さを隠しもしないで、表戸が鳴った。

 覗かせた爺さんの顔は、十歳は若返っている。

「大きな声をだすなよ。今、眠ったところだ」

 末吉とハナは、頷き合って屋内を覗き込んだ。

 赤子の顔は、赤くなかった。おくるみの中は、昔話のように輝いていた。

 お小枝さんが、生んだのではなく、爺さんがお公家さんのお屋敷から盗んできたに違いないと末吉は思った。


 さほど大きくはない船だが、船足は速い。隠岐の島影で帆をあげた船は、対馬に向かわず、五島列島の宇久島を横目に、済州島を目指した。ここで、不足した水や薪を買い足し、船山列島に向かう。

 船の目的地は、日宋貿易の重要地である杭州の港(寧波ニンポー)だが、蒙古に南へ南へと追い詰められている南宋の政情は刻々と動いており、留守の間に何か起こっていても不思議ではない。杭州の慶元府の情勢を知るために船山の小島の沖に錨を下ろしたのだ。

 長い間、間諜の頭として仕事をしてきた男は、今にも蒙古の騎馬音が、杭州に響き渡るのを感じている。

 故郷の山間に帰って、また戻るなど狂気の沙汰だ。今すぐ、この島影からなぁんを倭国へ戻そう。もう二度と会えなくなるだろうが、仕方のないことだ。

 港を出入りする数多あまたの船を眺めながらなぁんの乗った船は、動かない。

 船端に蹲るなぁんは、なぜだか鼻の奥がムズムズする。何も考えることが出来ない。己の無力に愛想が尽きる。故郷だと思っていた山間に戻りたいとは思えず、記憶を失っていた鎌倉の生活がむしろ懐かしい。

 下船していた老師ラオシーが戻って来た。

なぁん、お前はここから倭国へ戻れ」

「‥‥‥」

「倭国の情勢を探れ」

 胸にせり上がる不快感を半開きの口から静かに吐き出せば、やがて希望の萌芽が目を覚ます。倭国へ戻れるのだ。

 世界を覆う大波が、船端を洗う小波が、弱虫なぁんを翻弄する。数多の大波を何とか乗りこなし、戦など起こらないようにすることは出来ないものかと漠然と思う。どうすれば良いか、もちろん分からない。


 鎌倉の富谷では、静々と騒ぎが広がっていた。

 将軍が、京都に帰ったというのに、その真相が分からない。爺さんを失い情報を売り買いする事業が立ち行かなくなってきていた。

 晩夏の暑さに苛立った蒙古は高麗を脅した。いい逃れが効かなくなった高麗人が蒙古の脅し国書を持って来国した。幕府は唸っている。蒙古襲来の予兆であった。

 それもこれも、富谷にもたらされたのは、何時も情報を買い上げてくれる上客からだった。


 上巻 完


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