第26話 爺さんの赤子が生まれる

 年の暮れが、迫っているが、波丸は依然行方知れずであった。

 冬を迎えた鎌倉だが、さほどに寒くはない。自然に抱かれたやとは、寒風から村を守り、お日さんが出ればぽかぽか極楽気分だ。さすがに水仕事は冷たいが、ざぶざぶと使い続ければ、だんだん温かくなる水に、ハナの手も足も弾んでいる。末吉兄ぃが、帰って来た。一人だったが、ハナは密かに満足している。慕っていた波丸を失い、つい俯いてしまう末吉は、何かとハナを頼る素振りを見せる。そっと抱き締められたこともある。二人の胸の間で、末吉が波丸から掠め取った穴あき銭が押しつぶされた。

 富谷は、料理屋に遊女屋に金融業と多角経営だが、その裏で噂を蓄積し情報を売り渡す最先端のデータービジネスを営んでいる。

 富谷は一軒の家屋ではない。御家人が手放した屋敷を二軒改造したもので、門前に向かった母屋の裏には厩や納屋を備えている。裏屋と呼ばれる別屋敷に、爺さんや末吉やハナはいた。その裏庭に、爺さんが作った懸樋かけひがある。山の岩壁から湧き出した水を、細工を施して裏庭に引き込んだものだ。裏で働く者の憩いの場であり、自然の中に生きる小鳥や獣、蛇なども一息つきにくる。この裏屋を仕切るのは、爺さんだが、今日も下男と同じ雑用をこなしている。元は武士だというが、皆に慕われ、ますます好々爺の風情だ。


 年を越す忙しなさの中、何時もと変わらぬ穏やかな動作の爺さんが、下男が拵えたたきぎを軒下に丁寧に積み上げている。

 女が一人、顔を覗かせ、爺さんの作業を見つめる。波丸を失い、寂しさが募る小枝だ。

 大きく肩を波打たせ吐息をついた。

「爺さま」

「おう」

「‥‥‥」

「なんだ、どうした」

「あのぅ」

 さんざん、もたもた悩んだあげく、顔を上げた小枝は、小さくつぶやいた。

「子ができました」

 爺さんは、意味が分からない。もう、迷わないという顔の小枝の声音が上がった。

「赤子ができたのです」

「‥‥‥ わしの子か?」

 大きく眼を見開いた小枝が、八幡宮の蓮の花がぽんと咲くように微笑んだ。

 わははははぁ、おほほほほぉ、二人は声を揃えて笑い、瞬く間に共犯者となった。

 さあぁ、爺さんは忙しい。

 富谷から四半刻にも満たない深沢の里に小さな家を借りた。下女も雇った。縁側に出ると大仏さまが収まった巨大な建物の屋根が見える。

 木造だった大仏は、青銅製になり、金箔に化粧直しされた。度々の自然災害により、大仏殿は流され、現在のお姿となった鎌倉大仏だ。


 大仕事が残っている。女主おんなあるじのお富さまへ話を通さなければならない。

「お富さま、折り入って、お話がございます」

 何時になく真面目腐った爺さんに、富子は首を傾げた。

 爺さんの出自は、富子も詳しく知らない。何だかんだと良く働く。古文書なども良く読み解き、立派な文字を書く。武士の出であるらしいが、欲がなく身形も顔も地味で済ませている。

 その爺さんの声音が緊張している。

「なんだえ、そう畏まるな」

「へえ、お願いがございます」

「早く申せ、初春が迫っておるぞ」

「はぁ、さ、小枝を身請けしたいと存じます」

「‥‥‥ 爺さんがか?」

 爺さんの目線が少し泳いで青年のように俯いた。

「ほぅ、‥‥‥ なにかぁ、富谷が静かだから、ちょっくら騒動を起こそうというのかえ」

「滅相もない。真面目な話でございます。まずはお富さまにご相談申し、お許しをと思いました」

「ふーん、理由わけを聞いてもよいかぇ」

「はぁ、子が、赤子が出来まして、静かに産ませてやりたいと思います」

 富子が、思わず身を乗り出していた。

「誰の子じゃ?」

「わしの子でございます」

 富子は、楽し気に両目を回し、口角を上げた。

 この師走の忙しいさ中に、何をいい出すのだとばかりに、息を吐いた富子が、わざと下品にいい放つ。

「商いの品に手を出すのは、ご法度じゃ。そちも出て行け」

 しばし、女主を見つめた爺さんは、大きく頭を下げた。

「はい、長々お世話になりました。それでは、わしも辞めさせていただきます。身請け金は、如何ほどの支払いとなりましょう」

 富子は、怒髪天。

 こういう成り行きは嫌いだ。頭を下げて、頼って欲しい。

「さあ、妾は分からぬ。半大夫に聞け」

 意地になってしまった富子の声音は、年の暮れの木枯らしだ。

「ははぁ、それではお許しいただけるということで、よろしゅうございますね」

 富子は、鎌倉湾の海風に煽られたように衿元えりもとを両手で掴んだ。

 爺さんが、自分の子だとかばうなら、それは誰の子かいわずものがだ。姿を消したあいつの子であろう。

 明らかな狼狽えを見せた富子の前からさっさと下がった爺さんは、荒海に乗り出すように張り切っていた。


 夜空には、禍々しい彗星が出現した。

 二丈(約六メートル)にも及ぶ白星は、何の予兆か、長々と尾を引いて鎌倉幕府を覗き込んだ。

 数多あまたの陰陽師がいそがし気に飛び回った。


 

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