第17話 して、波丸は何者か

 大きな囲炉裏に自在鉤が三本も下がり鍋からいい匂いがしているが、まだ暑苦しく料理人以外は囲炉裏の傍に寄って来ない。静かな富谷の午後である。

 まだ、事故から一月ほどしか経っていないが、富谷には幾つもの噂がもたらされた。

 波丸に関する風聞だ。

「富谷のお侍は、亀谷の土砂崩れから沢山の人を救った」

「死んだ馬まで生き返らせたとよ」

「あのお人は、只者ではないぞ。そこらの医者より立派に人をよみがえらせる」

「あの侍は、唐のお人らしいぞ。何でも目ん玉が、アオイんだそうな」

 庶民は、中国が何の時代であっても唐と呼ぶ癖があった。

 六十年ほど前に、チンギス・カンがモンゴルを統一し、その一族は内乱を孕みながら西へ南へと進軍した。孫のフビライは、宋を南に追い詰め、すでに高麗を征服していた。遠く離れた鎌倉では、知るよしもないと思えるが、当時の鎌倉は和歌江島や天然の良港である六浦の湊(横浜市金沢)に海外の貿易船がたえず入港し、最新の情報を提供している。幕府はもちろん商人なども宋や高麗の政情を把握していたといえる。宋の僧侶は、仏教の教えのみならず、雑多な情報を携えて逃げるように来日していた。

 庶民はそれを知らないとしても、鎌倉の内外に異相の人間を見かける事実は隠しようもない。六浦湊には、唐房とうぼうはなかったようだが、関東語が通じない食べ物屋や宿屋はありそうだ。

 大陸に向かっている西国の海岸地域には、「唐房とうぼう」と呼ばれる町があった。簡単にいうとチャイナタウンやコリアタウンのことだ。その名が文献に見つけられるのは、鎌倉幕府が始まるより遥か前のことだ。耳に馴染みのない言葉が飛び交い、知らない料理の匂いが溢れ、時に鼻がそっぽを向く。そこはもう日の本ではない。治外法権的な権利も作り出された。六浦の湊町は、関東の国際都市だった。


 何時も出入りしている幕府の小役人が二人、殊の外しかつめ顔を拵えて富谷の縁先を覗き込んだ。

 昨日、山内の山荘において斬り合いがあったのだという。

 当人たちは、もとより、召し使っていた郎党も刀を抜いて切り結んだ。親類縁者も駆けつけて、騒ぎを大きくした。軽傷はいうに及ばず、腕を切り落とされた怪我人も出た。死者も出たとなると、愚か者の喧嘩騒ぎとは片付けられなくなった。その騒動から逃げ出した卑怯者を探しに来たという。

 庇の深い富谷の濡れ縁は、カラリと爽やかだ。

 縁先に腰掛けた役人は、逃亡者を探しているといいながら、なんやかやと噂話を陽気に話し、おべんちゃらも忘れない。富谷の富子は怖いもの知らずの有名人なのだ。

 いつもなら、富子はこんな下っ端役人など相手にしないのだが、半大夫が外出していて、縁近くにいた富子が応対している。

「逃げた侍などおりませんぞ。まさか噂話を仕入れに来た訳ではありますまい」

 富谷の噂は、有料なのだ。幕府の役人といえどもタダとはいかない。

 槍戸で締め切られた奥の部屋では、富子を見守る勝次がおとなしく汗をかいている。

「いや、あのその、富子さま、波丸どのとは如何なる御人か?」

 話が突然、波丸に飛んだ。軽く目をむく富子に、役人はあわてていい募る。

「いや、いや、誤解されるな。人助けをした波丸どのに褒美を取らせようと有難い沙汰がござるのだ」

「ただ今、波丸は外出の仕事中。お報せあれば、共に何処なりと出かけましょう」

「さようか。では改めまして、褒美の報せを届けましょう」

 富子に美しく睨まれた役人は、ほうほうの体で帰って行った。

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