第18話 絶対、いわないよ
小役人の後ろ姿を見送った富子は、いらいらと勝次を呼んだ。
「勝次、カツジ」
勝次の行動など、富子は先刻承知だ。
「へぃ、お富さま」
勝次が、汗を拭きふき顔を出す。
「波丸を呼んでおくれ」
三白眼をむいた勝次は、あわてて裏手に飛んでいく。
富子は、顔を覗かせた小さな不満をじっと見つめる。
商売は上手くいっている。小金ではあるが、上品に静々と集まってくる。
これといって、問題も抱えていない。そこへ美しい足が土足で割り込んできた。
(なぜだぁ、なーみーまるぅ)
廊下の奥から、不満の種が姿を現した。
「波丸、これへ」
富子は、胸の前で軽く手を振り、座敷の上座についた。何かを感じ取った波丸は、畏まって膝を折る。
「波丸、ほかでもない。お前は何か思い出したであろう」
背筋を伸ばした波丸は、濃い緑の瞳を煌かせた。
今では富谷の誰もが波丸の瞳の色を承知していたが、富子でさえもそのことには触れなかった。鎌倉の繁栄を求めて集まる多くの人の中には、明らかに異国の出を示す者もいるが、波丸などは一見公家に仕える青侍の風情でことさら目立つわけではない。
「はい、お富さま。細々思い出してはおりますが、まとまってお知らせするようなことはございません」
「そうかぇ、名前も波丸で間違いないかえ」
「あっ、それは、われの幼名は
「それが何故、波丸に化けたのじゃ」
「あっ、それは……」
「それは、何じゃ。われ等を騙したのか」
富子は、不満を抑えて波丸を見据える。
「申し訳ありません。騙すつもりなどございません。追々他にも思い出すとも思いまして」
「それで、お前の理屈は通るのかえ」
「いえ、その……」
真夏の庭は青々と萌え、遠近で蝉が鳴いている。富子は生絹の襟元をくつろげて、扇子を広げ畳み弄ぶ。
扇のわずかな香に絡めとられた波丸は、少し俯けた視線を夏のうねりに泳がせた。
庭の煌きに対して薄暗い部屋に、涼風が駆け抜けた。奥の
「波丸!」
富子が何時にない甲走った声をあげた。
「……」
額に薄っすらと汗がにじませた波丸は、はっと控えて頭を下げた。
「波丸、今しがた役人が、お前の出自を問い合わせてきた。今まで、何も問わずにきたが何も知らぬでは、かばいようがないのじゃ。分かるな」
高ぶりを抑え切れぬ富子の声が飛ぶ。
「はっ、有難い思し召しでございます」
「では、正直に申せ。これ以上の隠し事はならん。和語は理解しておるのじゃな」
波丸は、逸らしていた目線を富子に向けた。息をゆっくりと吐き出し両手をついて畏まった。
「ええぃ、申せ。申すのじゃ」
「富子さま、お許し下さいませ。
「さようか。分かり申した。出自の分からぬ怪しい者をここへ置くことは出来ぬ。今直ぐにもこの家を出ていけ。直ぐにじゃ」
穏やかに、上品に頭を下げる波丸だが、(絶対、いわないよ)と、
富子の高ぶりは、いや増して、波丸の頭上に殺意を帯びて飛んで行く。
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